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60. 黒の家へ
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夢を見た。
夢というよりも、昔の記憶、と言った方が正しいのかもしれない。
赤いランドセルを背負って、髪を2つ結いにした8歳の私が、ただじっと、誰もいない母の部屋を見つめていた。服だって化粧品だって本だって、全部変わらずに置いてあるのに、持ち主が帰ってくることはなかった。
「ずっと置いておいたら、思い出してしまうから」
そう言ってある日、父が母の荷物をすべて片付けてしまった。全部を捨てた訳じゃない。それでも、母の痕跡が無くなってしまうみたいで、悲しかった。
きっと、そんな思いをするのは今日が最後なんだ。これからはもう、悲しい気持ちになら無くてすむんだ。
幼いながらに、私はそう思った。
でも、そうはならなかった。
それからも私が母の部屋を見つめて、佇む日々は続いた。空っぽの部屋。持ち主は帰ってこない。持ち主が過ごした痕跡すらない。まるで、母と過ごした日々が夢のように消えてしまったみたいに思った。
夜中にトイレに起きると、リビングのソファで眠る父の姿を見つけることがよくあった。母は自分の部屋を持っていたけれども、寝室は父と共有で、ベッドも2人で一台だった。2人分の広さがあるベッドに1人で眠るのは広すぎる、と父は話していた。それなのに、父はベッドを処分できずにいた。
父がそのベッドを処分したのは、義母と再婚した時だった。義母が家に来る時に、ようやく処分に踏み切った。代わりに、シングルベッドが二台、我が家にやってきた。
母の部屋に私が移り、広さに余裕があった私の部屋に、姉たちが移った。長年過ごしていた部屋を私が手放すことを父はとても心配していたけれども、私は全く気にしていなかった。
母の部屋を、誰にも使わせたくなかったから。
その部屋で過ごしていると、母の気配を感じて、1人ではないと思えた。父が、亡くなってからも。
革が随分と柔らかくなった、赤いランドセルを背負った私は、父と義母の寝室を見つめていた。記憶にあった部屋とは様変わりしていて、ほとんどを義母の荷物が占めていた。父の痕跡は、とても少なかった。再婚に合わせて、父は自分の荷物をかなり片付けていたらしい。
その僅かな痕跡すらも、義母は処分しようとした。父が亡くなってから一月が経つか経たないかの頃だったと思う。金目のものは売り、そうでないものは捨てる。それが義母の方針だった。義母が捨てようとしたものの多くは、私がこっそり部屋に持ちかえった。
以前の持ち主が過ごした事実はそこにあるはずなのに、痕跡が全く無い部屋を見ていると、現実ではなかったのだろうかと、思えてしまう。
そして、あの部屋でボーッと空を見つめる皓人さんのイメージが、ぼんやりと浮かんだ。私の妄想の産物だと分かっていても、それを止めることができなかった。
私は今まで、皓人さんとの時間を夢かなにかだったのだと思おうとしてきた。そうやって思い出よりも、もっと現実味の無い何かにしてしまおうと。皓人さんに受け入れられず、拒絶されて傷ついた自分の心を守るために。いつまでも欲しいこと場をくれなかった皓人さんに傷つけられた、自分の心を守るために。
だから、皓人さんにまつわるものがほとんど無いことを好都合に思っていた。皓人さんは私がいなくなったって、気にしないだろう、ぐらいに思っていた。
でも、現実ではそうじゃなかったのかもしれない。
私たちが過ごした、あの幻みたいな日々から去ったのは私で、皓人さんはずっとあの空間に取り残されていたのかもしれない。私は彼をあそこに置き去りにしたまま、1人で自分勝手に幸せを追い求めてきただけなのかもしれない。
戻ってこない人が戻ってくるのを待つ辛さを、私は知っているはずなのに。戻ってこない人の痕跡だけを拠り所にして、日々を送る辛さを、私は知っているのに。
フッと、意識が浮き上がってくる。
朝だ。
目を開く前に、右手に絡まった暖かい熱を、しっかりと握り返す。そこに彼がいることを、きちんと認識する。
ゆっくりと目蓋を押し上げて、隣で眠る菊地さんを見つめる。最近は皺が寄ることの多い眉間だが、今はそれもなく、安らかな表情だ。
どうしてあんな夢を見てしまったんだろう。
天井に視線を戻しながら、考える。皓人さんが家に突然現れてから、数日が経った。今日はいよいよ、菊地さんの住む家を訪問する日だ。菊地さんの、ルームメイトに会う日でもある。
だから、なのだろうか。
部屋へのトラウマ、のようなこと?
モヤモヤする気持ちに、思わず消化不良を起こしたみたいに、顔を歪めてしまう。
皓人さんの訪問については、菊地さんに伝えていない。どう伝えたら良いのか分からなかったから、というのもあるけれども、それ以上に、自分の抱えるモヤモヤを菊地さんに話すことで軽くしようとしているだけにも思えたから。彩可にも、伝えていない。
右手の熱が、ギュッと力強く握りしめてくるのを感じた。顔を右に動かせば、うっすらと目を開けた菊地さんと目が合った。
「おはよ」
そう呟く声は心なしか掠れていて、なんだか色気を感じる。人を朝っぱらから火照らせる天才だな、と思いながら、私は笑顔を返した。
「なんか、悩み事?」
問いかけながら、彼は繋がれた手を自身の口許へと持っていく。
「そんなんじゃないですけど」
我ながら、歯切れの悪い答えだと思った。手の甲に触れる菊地さんの唇が、私に続きを促す。
「んー、誰かと過ごした思い出のある部屋で1人になると、無性に切なくなるな、と」
ポツリ、ポツリ、と私は語った。
「その誰かが、もう戻ってこないって分かっていたら、余計に。両親の時がそうだったし、菊地さんが家に来ない時も、そんな風に思えちゃう時があるんです」
話しながら、私は寝返りを打って完全に菊地さんの方へと向き直った。
「もしかして、元彼の心配してる?」
菊地さんの答えは私が全く予想していなかったもので。驚きのあまり、私は言葉を失ってしまう。
どうして彼は、こうも簡単に、私の気持ちを理解できるんだろうか。どうして彼には、私が話していない本音まで、すべて分かってしまうんだろうか。例えそれが彼にとって、不快な内容だったとしても。
「まず大前提。俺は、中谷の前から自らの意志でいなくなったりしない。中谷が俺を求めてくれる限り、俺は絶対に戻ってくる」
そう言って、菊地さんはゆっくりと私を抱き寄せる。トクン、トクン、というお互いの心臓の音が、心地よい。
「ご両親のことは、本当に残念だったと思う。でも、中谷がご両親を失ったことと、中谷の元彼が中谷を失ったことは、全然違う話だから。ご両親のことは、中谷にはなんの落ち度もない。突然神様が、2人を中谷の前から奪った。でも、中谷が彼の前を去ったのには、その元彼にも落ち度が合ったわけだろ? だから、中谷が何かしらの負い目を感じる必要もないし、彼と自分の過去を比べる必要もない。な?」
菊地さんの言葉に、私はゆっくりと頷いた。
やっぱり、彼だ。
彼しかいない。
菊地さん以上に私を理解してくれる人はいない。
そう思っているのに、どうして玄関先での皓人さんの声が、耳から離れないんだろう?
それから私たちは、久々の休日だからとベッドでゆっくりした後、徐々に起き出した。菊地さんの家には、夕方ごろに向かう予定になっている。
「忘れ物ない? まあ、あってもマンションの一階がコンビニだから、大抵はなんとかなると思うけど」
菊地さんがそう言うのを聞きながら、私は荷物を確認する。
いきなり泊まりで、という提案には面食らったが、菊地さんがここに泊まっている頻度を考えると、なんだか妥当に思えてしまい、いつの間にか頷いていた。
着替えにスキンケア用品、メイク道具などが入っているのを確認する。
「タオルは用意してあるし、歯ブラシもこの間買っといたし」
菊地さんも一緒になって、必要なものを確認する。
「あ、歯磨き粉は俺ので良いよね?」
「はい」
「じゃあ、大丈夫じゃない?」
そう問われて、私も頷く。
2人で手を繋いで家を出て、鍵を締める。いつの間にかお泊まりセットは菊地さんが持ってくれていて、そのさりげなさと優しさに、自然と笑顔が溢れる。
「なんか、緊張します」
駅までの道のりを歩きながら、私は呟いた。
「うん、俺も」
いつもの冗談かと思って顔を上げれば、菊地さんの表情は固くて。本当に緊張しているのが分かった。
「自分の家なのに、ですか? やっぱり、ルームメイトさんは私のことを良く思っていないんじゃ」
「いや、そうじゃない!」
動揺する私を、菊地さんが慌てて制止する。
「そうじゃなくて。……中谷に嫌われないか、心配で緊張してる」
俯き加減に、菊地さんは言った。その言葉の意味が、私にはよく分からなかった。
「私が、菊地さんのルームメイトさんを嫌わないかって、ことですか?」
「いや、そうじゃなくて」
珍しく、菊地さんは私から目を逸らした。
菊地さんみたいに、私も彼の考えていることがすぐに分かったらいいのに。どうして私は、彼の考えが読めないんだろうか。どうして私は、こんな時、簡単に彼を安心させてあげられないんだろうか。
マイナスな思考が、首をもたげてくる。
「ほら、家ってさ、その人を表すっていうか、隠しきれない本性が反映されている、っていうだろ? だから、中谷に幻滅されたらどうしようって、思って」
不安げな表情で苦笑する菊地さんにどう反応したら良いのか分からなくて、私はとりあえず、繋いでいる手に力を込めた。
「大丈夫です。菊地さんに幻滅なんて、するわけないじゃないですか」
そう言って笑顔を向ければ、菊地さんも一応は笑い返してくれた。けれども、完全に緊張を取ることはできなくて。でもそれは私も同じで、2人してお揃いの緊張した表情で、電車を降りた。
「本当に、夕飯の材料は買ってこなくて大丈夫なんですよね?」
菊地さんの住むマンションのエントランスホールを横切りながら、私は問いかけた。
想像していたよりもずっと新しくてキレイな空間に、なんだか別の意味で緊張してしまう。ツヤツヤと光るタイルは、滑って転んでしまいそうなほどの光沢だ。
「うん。材料はもう全部用意してあるって言ってたし、ま、鍋だからそんな凝ったことするわけじゃないし」
「私、今シーズン初鍋です」
「俺も。まあ、まだ秋だしね。なんだっけ、あの、なんかカタカナの鍋を使うって言ってた」
そんな会話をしながら、エレベーターで上昇する。上に上がっているはずなのに、胃だけ地上に置いてきたみたいな、妙な緊張感だ。
「それってもしかして、タジン鍋ですか?」
「そうそう、そんな感じの名前のやつ」
答えながら、菊地さんはポケットを探り、鍵を取り出した。気が付けばもう、扉の前だ。
ここが、菊地さんの家。
思わずゴクリ、と唾を飲み込む。
ガチャリ、と菊地さんが鍵を回して、ゆっくりと扉を開く。
「ただいま」
先に入った菊地さんの背後から玄関に入ると、不意に視界に飛び込んできた靴に、なんだか既視感を覚えた。
カチャ、と廊下の向こうの扉が開く音の後、静かな足音が耳に入る。私の背後で、玄関の扉が閉まった。
「あ、もう着いた?」
耳馴染んでしまった、鼻にかかった声が、私の鼓膜を震わせる。
そんなわけない。
ありえない。
そんな偶然、ありえない。
絶対に、おかしい。
私はゆっくりと顔を上げて、菊地さんの向こうに立つその人の姿を、視界に捉えた。いつものように飄々とした笑顔を浮かべた、皓人さんがそこにいた。
夢というよりも、昔の記憶、と言った方が正しいのかもしれない。
赤いランドセルを背負って、髪を2つ結いにした8歳の私が、ただじっと、誰もいない母の部屋を見つめていた。服だって化粧品だって本だって、全部変わらずに置いてあるのに、持ち主が帰ってくることはなかった。
「ずっと置いておいたら、思い出してしまうから」
そう言ってある日、父が母の荷物をすべて片付けてしまった。全部を捨てた訳じゃない。それでも、母の痕跡が無くなってしまうみたいで、悲しかった。
きっと、そんな思いをするのは今日が最後なんだ。これからはもう、悲しい気持ちになら無くてすむんだ。
幼いながらに、私はそう思った。
でも、そうはならなかった。
それからも私が母の部屋を見つめて、佇む日々は続いた。空っぽの部屋。持ち主は帰ってこない。持ち主が過ごした痕跡すらない。まるで、母と過ごした日々が夢のように消えてしまったみたいに思った。
夜中にトイレに起きると、リビングのソファで眠る父の姿を見つけることがよくあった。母は自分の部屋を持っていたけれども、寝室は父と共有で、ベッドも2人で一台だった。2人分の広さがあるベッドに1人で眠るのは広すぎる、と父は話していた。それなのに、父はベッドを処分できずにいた。
父がそのベッドを処分したのは、義母と再婚した時だった。義母が家に来る時に、ようやく処分に踏み切った。代わりに、シングルベッドが二台、我が家にやってきた。
母の部屋に私が移り、広さに余裕があった私の部屋に、姉たちが移った。長年過ごしていた部屋を私が手放すことを父はとても心配していたけれども、私は全く気にしていなかった。
母の部屋を、誰にも使わせたくなかったから。
その部屋で過ごしていると、母の気配を感じて、1人ではないと思えた。父が、亡くなってからも。
革が随分と柔らかくなった、赤いランドセルを背負った私は、父と義母の寝室を見つめていた。記憶にあった部屋とは様変わりしていて、ほとんどを義母の荷物が占めていた。父の痕跡は、とても少なかった。再婚に合わせて、父は自分の荷物をかなり片付けていたらしい。
その僅かな痕跡すらも、義母は処分しようとした。父が亡くなってから一月が経つか経たないかの頃だったと思う。金目のものは売り、そうでないものは捨てる。それが義母の方針だった。義母が捨てようとしたものの多くは、私がこっそり部屋に持ちかえった。
以前の持ち主が過ごした事実はそこにあるはずなのに、痕跡が全く無い部屋を見ていると、現実ではなかったのだろうかと、思えてしまう。
そして、あの部屋でボーッと空を見つめる皓人さんのイメージが、ぼんやりと浮かんだ。私の妄想の産物だと分かっていても、それを止めることができなかった。
私は今まで、皓人さんとの時間を夢かなにかだったのだと思おうとしてきた。そうやって思い出よりも、もっと現実味の無い何かにしてしまおうと。皓人さんに受け入れられず、拒絶されて傷ついた自分の心を守るために。いつまでも欲しいこと場をくれなかった皓人さんに傷つけられた、自分の心を守るために。
だから、皓人さんにまつわるものがほとんど無いことを好都合に思っていた。皓人さんは私がいなくなったって、気にしないだろう、ぐらいに思っていた。
でも、現実ではそうじゃなかったのかもしれない。
私たちが過ごした、あの幻みたいな日々から去ったのは私で、皓人さんはずっとあの空間に取り残されていたのかもしれない。私は彼をあそこに置き去りにしたまま、1人で自分勝手に幸せを追い求めてきただけなのかもしれない。
戻ってこない人が戻ってくるのを待つ辛さを、私は知っているはずなのに。戻ってこない人の痕跡だけを拠り所にして、日々を送る辛さを、私は知っているのに。
フッと、意識が浮き上がってくる。
朝だ。
目を開く前に、右手に絡まった暖かい熱を、しっかりと握り返す。そこに彼がいることを、きちんと認識する。
ゆっくりと目蓋を押し上げて、隣で眠る菊地さんを見つめる。最近は皺が寄ることの多い眉間だが、今はそれもなく、安らかな表情だ。
どうしてあんな夢を見てしまったんだろう。
天井に視線を戻しながら、考える。皓人さんが家に突然現れてから、数日が経った。今日はいよいよ、菊地さんの住む家を訪問する日だ。菊地さんの、ルームメイトに会う日でもある。
だから、なのだろうか。
部屋へのトラウマ、のようなこと?
モヤモヤする気持ちに、思わず消化不良を起こしたみたいに、顔を歪めてしまう。
皓人さんの訪問については、菊地さんに伝えていない。どう伝えたら良いのか分からなかったから、というのもあるけれども、それ以上に、自分の抱えるモヤモヤを菊地さんに話すことで軽くしようとしているだけにも思えたから。彩可にも、伝えていない。
右手の熱が、ギュッと力強く握りしめてくるのを感じた。顔を右に動かせば、うっすらと目を開けた菊地さんと目が合った。
「おはよ」
そう呟く声は心なしか掠れていて、なんだか色気を感じる。人を朝っぱらから火照らせる天才だな、と思いながら、私は笑顔を返した。
「なんか、悩み事?」
問いかけながら、彼は繋がれた手を自身の口許へと持っていく。
「そんなんじゃないですけど」
我ながら、歯切れの悪い答えだと思った。手の甲に触れる菊地さんの唇が、私に続きを促す。
「んー、誰かと過ごした思い出のある部屋で1人になると、無性に切なくなるな、と」
ポツリ、ポツリ、と私は語った。
「その誰かが、もう戻ってこないって分かっていたら、余計に。両親の時がそうだったし、菊地さんが家に来ない時も、そんな風に思えちゃう時があるんです」
話しながら、私は寝返りを打って完全に菊地さんの方へと向き直った。
「もしかして、元彼の心配してる?」
菊地さんの答えは私が全く予想していなかったもので。驚きのあまり、私は言葉を失ってしまう。
どうして彼は、こうも簡単に、私の気持ちを理解できるんだろうか。どうして彼には、私が話していない本音まで、すべて分かってしまうんだろうか。例えそれが彼にとって、不快な内容だったとしても。
「まず大前提。俺は、中谷の前から自らの意志でいなくなったりしない。中谷が俺を求めてくれる限り、俺は絶対に戻ってくる」
そう言って、菊地さんはゆっくりと私を抱き寄せる。トクン、トクン、というお互いの心臓の音が、心地よい。
「ご両親のことは、本当に残念だったと思う。でも、中谷がご両親を失ったことと、中谷の元彼が中谷を失ったことは、全然違う話だから。ご両親のことは、中谷にはなんの落ち度もない。突然神様が、2人を中谷の前から奪った。でも、中谷が彼の前を去ったのには、その元彼にも落ち度が合ったわけだろ? だから、中谷が何かしらの負い目を感じる必要もないし、彼と自分の過去を比べる必要もない。な?」
菊地さんの言葉に、私はゆっくりと頷いた。
やっぱり、彼だ。
彼しかいない。
菊地さん以上に私を理解してくれる人はいない。
そう思っているのに、どうして玄関先での皓人さんの声が、耳から離れないんだろう?
それから私たちは、久々の休日だからとベッドでゆっくりした後、徐々に起き出した。菊地さんの家には、夕方ごろに向かう予定になっている。
「忘れ物ない? まあ、あってもマンションの一階がコンビニだから、大抵はなんとかなると思うけど」
菊地さんがそう言うのを聞きながら、私は荷物を確認する。
いきなり泊まりで、という提案には面食らったが、菊地さんがここに泊まっている頻度を考えると、なんだか妥当に思えてしまい、いつの間にか頷いていた。
着替えにスキンケア用品、メイク道具などが入っているのを確認する。
「タオルは用意してあるし、歯ブラシもこの間買っといたし」
菊地さんも一緒になって、必要なものを確認する。
「あ、歯磨き粉は俺ので良いよね?」
「はい」
「じゃあ、大丈夫じゃない?」
そう問われて、私も頷く。
2人で手を繋いで家を出て、鍵を締める。いつの間にかお泊まりセットは菊地さんが持ってくれていて、そのさりげなさと優しさに、自然と笑顔が溢れる。
「なんか、緊張します」
駅までの道のりを歩きながら、私は呟いた。
「うん、俺も」
いつもの冗談かと思って顔を上げれば、菊地さんの表情は固くて。本当に緊張しているのが分かった。
「自分の家なのに、ですか? やっぱり、ルームメイトさんは私のことを良く思っていないんじゃ」
「いや、そうじゃない!」
動揺する私を、菊地さんが慌てて制止する。
「そうじゃなくて。……中谷に嫌われないか、心配で緊張してる」
俯き加減に、菊地さんは言った。その言葉の意味が、私にはよく分からなかった。
「私が、菊地さんのルームメイトさんを嫌わないかって、ことですか?」
「いや、そうじゃなくて」
珍しく、菊地さんは私から目を逸らした。
菊地さんみたいに、私も彼の考えていることがすぐに分かったらいいのに。どうして私は、彼の考えが読めないんだろうか。どうして私は、こんな時、簡単に彼を安心させてあげられないんだろうか。
マイナスな思考が、首をもたげてくる。
「ほら、家ってさ、その人を表すっていうか、隠しきれない本性が反映されている、っていうだろ? だから、中谷に幻滅されたらどうしようって、思って」
不安げな表情で苦笑する菊地さんにどう反応したら良いのか分からなくて、私はとりあえず、繋いでいる手に力を込めた。
「大丈夫です。菊地さんに幻滅なんて、するわけないじゃないですか」
そう言って笑顔を向ければ、菊地さんも一応は笑い返してくれた。けれども、完全に緊張を取ることはできなくて。でもそれは私も同じで、2人してお揃いの緊張した表情で、電車を降りた。
「本当に、夕飯の材料は買ってこなくて大丈夫なんですよね?」
菊地さんの住むマンションのエントランスホールを横切りながら、私は問いかけた。
想像していたよりもずっと新しくてキレイな空間に、なんだか別の意味で緊張してしまう。ツヤツヤと光るタイルは、滑って転んでしまいそうなほどの光沢だ。
「うん。材料はもう全部用意してあるって言ってたし、ま、鍋だからそんな凝ったことするわけじゃないし」
「私、今シーズン初鍋です」
「俺も。まあ、まだ秋だしね。なんだっけ、あの、なんかカタカナの鍋を使うって言ってた」
そんな会話をしながら、エレベーターで上昇する。上に上がっているはずなのに、胃だけ地上に置いてきたみたいな、妙な緊張感だ。
「それってもしかして、タジン鍋ですか?」
「そうそう、そんな感じの名前のやつ」
答えながら、菊地さんはポケットを探り、鍵を取り出した。気が付けばもう、扉の前だ。
ここが、菊地さんの家。
思わずゴクリ、と唾を飲み込む。
ガチャリ、と菊地さんが鍵を回して、ゆっくりと扉を開く。
「ただいま」
先に入った菊地さんの背後から玄関に入ると、不意に視界に飛び込んできた靴に、なんだか既視感を覚えた。
カチャ、と廊下の向こうの扉が開く音の後、静かな足音が耳に入る。私の背後で、玄関の扉が閉まった。
「あ、もう着いた?」
耳馴染んでしまった、鼻にかかった声が、私の鼓膜を震わせる。
そんなわけない。
ありえない。
そんな偶然、ありえない。
絶対に、おかしい。
私はゆっくりと顔を上げて、菊地さんの向こうに立つその人の姿を、視界に捉えた。いつものように飄々とした笑顔を浮かべた、皓人さんがそこにいた。
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