灰かぶり姫の落とした靴は

佐竹りふれ

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61. 黒のルームメイト

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「自由な奴だよ。あんなに自由気ままに過ごせるのは、ある意味、才能だと思う」

 前にルームメイトについて、確かに菊地さんはこう語った。その言葉は、まさに彼を説明するのにふさわしい表現だと、今なら分かる。
 けれども、こんな偶然が起こりうるのだろうか。
 こんな、地獄のような偶然が。

「中谷、紹介する。俺のルームメイトの、末田皓人」

 靴を脱ぎ終えて玄関を上がった菊地さんは、そう言うと脇に避けるように立つ。そのお陰で、私と皓人さんの間を遮るものがなくなり、ダイレクトに彼と向き合うことになった。
 ここは、どう反応するのが正解なんだろう?
 関係を説明するべきなのか、それとも「はじめまして」と言ってしまって、他人のふりをするべきなのか。でもそれって、嘘をつく、ということだし……。
 頭のなかで必死に考えを巡らせる私に、皓人さんは小首を傾げる。私の好きだった、あの動作だ。

「てか、知り合いだよ?」

 まだ結論が出せずに悶々とする私をよそに、あっさりと、皓人さんはそう言い放った。
 驚きのあまり、息をするのを忘れそうになる。

「え?」
「茉里ちゃんでしょ? おれ、知り合いだよ。ビックリしたー。世間って狭いね」

 皓人さんはあっけらかんとそう言うと、カラカラと笑う。ビックリしたと言うものの、ちっとも驚いていなさそうで、相変わらず飄々としている。

「じゃあ、ちょっと早いけど、鍋の支度はじめちゃうね」

 言うが早いか、皓人さんは腕まくりをしながら、恐らくリビングがあるのだろう扉の向こうへ、さっさと消えていった。
 呆気に取られたまま取り残された私は、まだ玄関で靴を履いたままだ。目の前で起こった出来事を、脳が処理できていない。

「あ、ごめん、スリッパ出すわ」

 取りあえず落ち着こう、と息を吐き出したタイミングで、菊地さんが慌てたように、私の前にスリッパを差し出した。お礼を言いながら私がそれを履く間、彼は何も言わなかった。皓人さんとはどういう知り合いなのか、と訊ねられるかと思っていたから、拍子抜けしてしまった。

「えっと、この入ってすぐの右がトイレで、その先のこの扉の向こうが洗面所と浴室。で、廊下の正面扉の向こうがリビングとキッチンとダイニング」

 私がスリッパを履いている間に、菊地さんは手早く説明し始める。

「それから、この、左の扉が、俺の部屋、です」

 菊地さんの声が、微かに震えたのが分かった。まだ、緊張しているのだろうか? 彼がこんなにも不安そうになるなんて、部屋にいったいどんな秘密を隠しているのかと、こちらも身構えてしまいそうになる。

「これは、俺の部屋に置いとくから、中谷は洗面所使う?」

 菊地さんからの問いかけに、私は頷いた。私を彼の部屋から遠ざけようとしているのかな、と感じ取って、その話題には触れないことにした。私だって触れて欲しくない話題ができたばかりだ。そこを無理に触れようとは思わない。
 洗面所に入り、蛇口を捻る。正面の鏡の横の棚には、歯磨き粉が2つ。見慣れたパッケージだか、色が違う。ワインレッドじゃなくて、黄色と、ゴールド。

「ああ、それ、なんかヨーロッパ出張の土産物だとかなんとか」

 声がしたと同時に、鏡に並ぶ菊地さんの姿。いつもと変わらないはずなのに、鏡を通してだからなのか、なんだか雰囲気が違って見える。
 
「野郎2人でお揃いの歯磨き粉って、ちょっと気持ち悪いよな」

 笑いながら、菊地さんは私にタオルを差し出す。心なしか、先程よりはリラックスしたような様子に、少しばかり安心する。

「そんなことないですよ。仲良しって感じで、いいじゃないですか」

 そう答えながらも、私の胸中は複雑だ。この歯磨き粉がもう1本あることを、きっと菊地さんは知らない。私と、皓人さんの関係を知らないみたいに。鏡を見なくても、自分が浮かべている笑顔が引きつっているのが分かった。

「そうかな? 俺のは右側のゴールドの方だから、中谷もこっち使って」

 菊地さんの言葉にうなずきながら、私はそっと脇に退いて彼と場所を交換する。

「なんかね、バラっぽい独特な風味なんだけど、中谷も嫌いじゃないと思う」

 手を洗いながら、菊地さんは言う。鏡越しに目が合って、私はとっさに作り笑いを浮かべた。

「楽しみです」

 無難に答えながらも、頭の中はこの後どうするか、という考えでいっぱいだった。他人のふりをする必要はない。でも、元カレだって紹介するのもなんだか気が引ける。皓人さんが何を考えているのかも、分からないし。
 俯きながら、私は思わず下唇をかみしめた。そんな私の右手を、菊地さんの温かい手が包み込む。

「お待たせ」

 そう言って彼は私の手を引いて、皓人さんの待っているであろうリビングへと誘導していく。
 扉を開ければもうすでに良い匂いが充満していて、心の緊張の糸が、少しだけほどけていく。

「お、来たね」

 菜箸を持って私たちを迎える皓人さんの姿は、どこか新鮮だ。

「いきなりで悪いんだけど、茉里ちゃん、白菜お願いしてもいい?」

 まるで当たり前の日常の一部であるかのように、皓人さんは言った。今日という日が、一緒に過ごしていたあの日々の延長かのように。

「料理、上手なんでしょ?」

 私がどうすればいいのか分からないでいるのを分かってか、皓人さんは言いながら挑発的な視線を投げてくる。ちらり、と菊地さんを見上げれば、彼もまた不安そうな視線で私を見下ろしていて、ここは私が覚悟を決めなければ、と瞬時に思った。

「分かりました。手伝います」

 菊地さんに大丈夫だ、と頷いてから、私は皓人さんの隣に並んだ。

「それ、ざっくり切っちゃって」

 皓人さんの指示に従って、包丁を手に取ると私は準備を進めていく。

「俺は、何を手伝えばいい?」
「んー、じゃあテーブル拭いといて」

 2人の会話を、不思議そうな瞳で見つめる。
 今の彼氏と前の彼氏が会話しているなんて場面、出くわしたことがないから変な感じだ。今の彼氏と今の彼氏が会話する、なんていうもっとおかしな場面に出くわしたことならばあるけれども。嫌な過去を思い出して、思わずため息が漏れ出る。

「敬語なんだね」

 ぽつり、と皓人さんがつぶやく。
 その言葉を、私は聞こえないふりをした。

「テーブル拭いた。次は?」
「んー、じゃあ座っといて」

 皓人さんの言葉に、菊地さんの方へと振り返れば、あからさまに拗ねた表情で言われた通り座っていて、その様子がなんだか愛おしくて、今度は思わず笑みがこぼれてしまった。

「ごめんね、アイツ役立たずで」

 何気なく私の隣に並んで、皓人さんは言った。なんだか気まずくてつい距離を置きたくなってしまう。

「菊地さんのことを役立たずだなんていう人、初めてですよ」

 そう答えながら、どうにか自然に距離を置こうと努める。でも、それすらも見透かしているかのような視線を投げられ、居心地が悪い。

「ふーん、会社じゃあ頼りにされてるってこと?」
「そうですよ。上司も先輩も、同期も後輩も、みんな菊地さんのことを頼りにしてます。男性社員からも、女性社員からも人気があって、慕われてますし、大事なプロジェクトも任されてて、菊地さんがいなかったらみんな困っちゃいますよ」

 思わず熱が入って語ってしまったことに気づき、私は慌てて口を閉じる。この状況、やはり気まずい。

「ふーん」

 私とは対照的に、皓人さんはそんな気の抜けた返事をすると、菊地さんをキッチンへと手招きする。

「これ、持ってって」

 文字通り、顎で指示を出すと、菊地さんは素直に言われた通りのお皿をテーブルへと運んでいく。私の中での、きっちりとしたしっかり者なイメージな菊地さんと、ゆるくて自由なイメージの皓人さんのこの関係は、なんだか奇妙に思えた。

 準備が終わり、3人でテーブルを囲む。私と菊地さんは並んで座り、その正面に皓人さんがドカリ、と座る。やはり、気まずい。

「じゃ、食べよっか。いただきまーす」

 そう言うなり、皓人さんは肉に手を伸ばす。この場はもうすっかり、彼のペースだ。

「いただきます」

 そう言って、お箸を伸ばし始めた菊地さんに倣って、私も「いただきます」と呟いてからお箸を手に取った。

「あ、今日はおれのおごりだからね。おれのおごりだから、今日はお肉」

 はふはふと肉をほお張りながら、皓人さんは言った。

「そういう担当、みたいなのがあるんですか?」

 私の問いかけに、菊地さんは少し考えるようなそぶりを見せる。その間、皓人さんは気ままに肉を口に運んでいた。

「明確に担当、って決めてるわけじゃないけど、皓人が肉好きで、俺は割と魚が好きだから、一緒に飯食う時はなんとなく決まってる感じかな。おごってやるから、今日は魚だ! みたいな。祝い事とかの場合は、逆だけど」
「へえ、そうなんですね」

 気まずさを拭えないまま、会話は進んでいく。

「でもさ、折角おれのお祝いだからって玄也ひろやが肉おごってくれてもさ、普段そんなに肉にこだわりないから、そんなに美味しくなかったりするんだよね」
「おい、それはお互い様だろ。お前が選ぶ寿司屋だって、いまいちな時あるし、だいたいこういうのは、気持ちが大事なんだから」
「気持ちも大事だけど、やっぱりおいしい方が嬉しくない?」

 2人のやり取りを、私は苦笑しながら眺める。さすが高校の頃からの付き合いというだけあって、仲が良いのが伝わってくる。こんな風に菊地さんがリラックスして軽口をたたいているのは、珍しい光景だ。菊地さんが「玄也」と下の名前で呼ばれるところを見るのは初めてで、新鮮な感じもする。
 なんだか、菊地さんが普通の男の子に見えるのだ。
 彼の新たな一面がみられて、なんだか嬉しくも愛おしくもある。
 けれども、その相手が皓人さんだということが、何とも気まずい。
 
「ねえ、茉里ちゃんもそう思わない?」

 唐突に話を振られて、私は驚いて目を見開く。

「お祝い事は気持ちだって言ってもさ、やっぱりおいしい方が嬉しいよね?」

 何気ない質問のように、皓人さんは問いかける。
 こういう話の振り方は心臓に悪いから、勘弁してほしい。
 
「でも、やっぱり相手を祝いたいっていう気持ちが一番大事なんじゃないですかね?」

 無理やり笑顔を作りながら、私は答える。
 そんな私の様子に気づいてなのか、そっと私の太ももあたりに菊地さんの手が乗る。決して厭らしい雰囲気はなく、単純にそばにいることを伝えるだけのようなその体温に、少しばかりの安心を覚える。
 ここで話題が変わる、なんて私の期待もむなしく、皓人さんが再び口を開く。

「えー。茉里ちゃんさ、彼氏だからって玄也の味方してるだけじゃない? それとも、玄也に遠慮してるの?」

 無神経とも思える皓人さんの言葉に、私の表情が思わずこわばる。
 わざと、なのだろうか。
 いつもと変わらない皓人さんの表情を正面に、ついつい下唇をかみしめてしまう。その瞬間、ポンポン、と菊地さんの手が、私の太ももを優しく叩いた。まるで、安心しろ、とでもいうかのように。

「皓人」

 ため息交じりに菊地さんは言うと、おもむろに鍋から肉を掬い上げ、そのまま皓人さんのお皿の中に入れる。

「分かったよ」

 あきらめたように皓人さんは言うと、新たに自分の皿へと追加された肉を無言で口に運んだ。どうやらこれが、この2人の休戦協定のようなものなのだろうか。ちらり、と菊地さんの方へ視線を向ければ、口パクで「ごめん」と伝えられて、私はただ微笑み返すことしかできなかった。
 これ以降も食べ進めながら、何度も皓人さんの奔放な言葉に惑わされたものの、なんとか大きな問題に発展することはなくやり過ごすことができた。

 食事が終わると、菊地さんが食器を洗いにキッチンへ立つというので、私も手伝いと称してその隣に並んだ。皓人さんと座ってテレビを見ていてもいい、とも言われたが、この状況でそれは避けたかった。菊地さんの隣を離れない私の様子を見ても、彼はそれ以上何も言ってこなかった。
 無言で食器を洗う菊地さんを横目に、私の頭の中をいくつもの疑問と違和感が占領する。中でも大きな疑問符が浮かんでいるのが、菊地さんのこの態度だ。今日の彼はいつもよりも静かで、何も訊いてこない。いつももっとおしゃべりで、些細な疑問もすぐに口に出してしまう人なのに。
 そんな彼が、私と皓人さんのことを何も訊いてこないなんて、どう考えてもおかしい。

「あの」

 お皿についた洗剤を洗い流しながら、菊地さんは一瞬だけ私に視線をよこした。

「ん?」

 続きの言葉を発しようとしない私に、彼は優しい声音で続きを促す。

「あの、私と、あき、末田さんのこと、なんですけど」

 思わず「皓人さん」と呼びそうになったところを、慌てて「末田さん」と言い換える。彼氏である菊地さんを名字で呼んでいるのに、皓人さんを下の名前で呼ぶのは間違っていると思った。
 まあ、もはや何が間違っているのかは、よく分からなく思えてきたのだが。

「いいよ、言わなくて」

 菊地さんの思いがけない言葉に、私は顔を上げた。
 蛇口をひねって私を見下ろす菊地さんは、いつもの優しい表情を浮かべている。それなのに、この違和感は何だろう?

「分かってるから、いいよ」

 そう言って、菊地さんは私の頭を撫でようとしたけれども、手が濡れていることに気づいて、すぐに手を引っ込めてしまった。その仕草に、心の中でモヤモヤが募っていく。

「これ終わったら、な」

 食器洗いを再開する前の言葉は、まぎれもなく菊地さんのものだ。菊地さんの、菊地さんらしいセリフだ。けれども、その前のセリフは、菊地さんのものじゃない。菊地さんの口から発せられたけれども、それは、皓人さんのセリフだ。
 本来ならば安心する言葉だろう。話したくないことを追及されずに済んだのだから。それなのに私の頭と心の中には、強い違和感と疑問符、そしてモヤモヤが山のように募っていくだけだった。
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