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63. 白の告白
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一体、何が現実で何がそうでないのか、分からなくなった。目の前で起こった出来事が、現実なのかどうか、脳が正しく理解できなかった。
私にできたのは、ただその場に呆然と立ち尽くすことだけだった。
どうして?
その一言が、頭の中を無数に駆け巡る。受け止めきれない何かに襲われて、もう戻れないと分かっている何かに、心がすがり付く。
どうして?
そう問いたいのに、衝撃が大きすぎて言葉が出ない。何が衝撃だったのかすら、私には分からない。
菊地さんと皓人さんが唇を重ねていた。
そのことを、私はどう解釈すればいいのか、ちっとも分からなかった。
「起きちゃった?」
無言のリビングに、皓人さんの飄々とした声が響いた。恐ろしいくらいにいつもと変わらない。
「珍しいね、茉里ちゃんが途中で起きちゃうの」
そう言いながら、皓人さんはキッチンへと消えていく。一方の菊地さんは、申し訳なさそうな表情のまま、私と目を合わせないように俯いていた。
「とりあえず、水でも飲む?」
皓人さんからグラスを差し出されるも、それに手を伸ばす気にはなれなかった。
一体、何がどうなっているのだろうか。
皓人さんは、私の昔の恋人で、私の今の恋人は菊地さんだ。その菊地さんが皓人さんとキスをしていた。2人は、高校からの親友同士で、ルームメイトで、それで?
浮気?
誰が? 誰と?
頭の中の考えが、いまだにまとまらない。
「水より、お酒の方が良かったかな?」
相変わらず、皓人さんはいつもの調子で語りかける。その言葉に、どう対応するのが正解なのか、分からない。
「玄也、飲む?」
皓人さんは私に差し出していたグラスを、今度は菊地さんに差し出した。彼は皓人さんの方に視線を寄越さないまま、小さく首を振った。「仕方ないな」と呟くと、皓人さんはおもむろにグラスの中身を一気に煽った。
「で?」
無言の空間に、皓人さんの一言がポツン、と落ちる。
視線を上げれば、皓人さんが私を見つめていた。コクン、と小首を傾げて、私になにか話すように促す。昔はときめいて仕方のなかったその仕草に、今はなぜか泣きたくなった。
「さっき、のは……?」
ようやく私が絞り出せたのは、たったこれだけの言葉だった。まだ、頭と心が状況に追い付いていけない。
「さっきのって、キスのこと?」
当たり前のことを答えるみたいに、皓人さんは言う。この状況でどうしてそんなにも平然としていられるのか、私にはちっとも分からなかった。
「どう、して?」
ずっと頭の中をめぐっていた言葉を、私はようやく口から放った。
「どうしてって、そんなの決まってるじゃん。す」
「ごめん」
皓人さんの言葉に、菊地さんの言葉が被さった。その声は、いつもの聞き慣れた耳馴染みの良い低音とは全く異なる、喉から絞り出されたような、苦しそうに震える音だった。
「ごめん。本当にごめん。こんな形で伝えるつもりじゃなかったんだ」
ようやく顔を上げで私を見つめる菊地さんの表情は、やっぱり苦しそうに歪んでいて。私の鼻を、ツーンとした独特の感覚が掠めた。
「そんな、2人ともさ、この世の終わりじゃないんだからさ。こんな時間だし、ちょっと寝てから明日の朝、改めて話さない?」
皓人さんの提案に、「こんな状況で眠れるわけがない」と心のなかで即答した。けれども、それを口に出すだけの気力がなかった。この状況をこの世の終わりのように感じてしまう、自分の弱さが情けない。
「俺は、ここで」
菊地さんはそう言って、すぐそばのソファーを指差した。おそらく、そこで眠るから、ベッドを1人で使って良いということだろう。
私は静かに頷いて、ゆっくりと菊地さんの寝室へと戻っていった。
正直、ここはこんな状況で使いたい部屋じゃない。こんな訳の分からない気持ちで、菊地さんの部屋に寝泊まりするなんて嫌だ。けれども、私には選択肢がなかった。
菊地さんは、一体どういうつもりで……。
考えても、仕方がない。考えても、答えは出ない。分かっているのに、どうしても考えてしまう。
精神的な疲労のせいか、立っているのがしんどくて、仕方なく菊地さんのベッドに横たわる。
裏切られた、という感情が心の中を渦巻いているのに、ベッドや枕から菊地さんの匂いだったり気配だったりを感じて、安心してしまう自分が嫌だった。もう元には戻れないのに、どうしても菊地さんの体温を求めてしまう自分がいて、悔しかった。
絶対に眠れないと思っていたのに、いつの間にか意識を手放していたらしい私は、部屋に射し込む朝日の光で目を覚ました。この場所で初めて迎える朝が、こんな形になるなんて、想像もしていなかった。
これから、どうしよう。
朝に改めて話そう、と皓人さんは言ったけれども、それに従う義理はない。悪夢であって欲しかったとどれだけ願っても、昨晩、目にしたあの光景が真実であることは変わらない。だからこのまま、何も言わずにここから脱出したって良い。
それでも、話を聞きたいと思う私は、愚か者だ。
念のため、いつでもここを出られるように着替えて、荷物をまとめる。洗面所でさっと顔を洗ってから、私は意を決して再びリビングへ向かった。
「おはよう」
リビングに入ると、皓人さんが笑顔で私を出迎えた。珍しく、今日は早く起きていたんだな、とは思うが、何事もなかったかのような笑顔には、やはり違和感を覚える。一方の菊地さんは、険しい表情で椅子に座っている。その正面には、グラスに注がれた青汁が手付かずで置かれていた。
「とりあえず座れば?」
そう言って、皓人さんは菊地さんの斜め向かいの椅子を引いて、私に座るよう促す。しぶしぶ席につけば、私の正面のテーブルにコトリ、と水の入ったグラスが置かれた。ちらり、と菊地さんの方へと視線をやれば、目の下には分かりやすく隈が浮かんでいて、眠れなかったであろうことがありありと分かった。
近いのに、遠い。
おかしな距離感だ。
「で、昨晩のことだけど」
「……浮気って、こと、ですか?」
椅子に座るなり口を開いた皓人さんの言葉に被せるようにして、私は言葉を絞り出した。
菊地さんが答えてくれるのを待ったけれども、彼はまた俯いたまま顔を上げてくれないので、仕方なく皓人さんの方へと視線を移す。
「んー、浮気とは、ちょっと違うのかな?」
皓人さんの答えに、私の頭の中の疑問符が増える。
「二股とも、ちょっと違うし」
「じゃあ、カモフラージュ?」
頭に浮かんだ可能性を、私はすぐに口に出した。この訳の分からない状況を、少しでも理解したかった。
「カモフラージュ? って、何の?」
皓人さんはキョトン、と私を見つめ返した。
「2人が同性愛者で、それを隠すために私と付き合って」
「それは違う」
私の言葉へ被せるようにして、菊地さんは言った。今日、初めて聞いた菊地さんの声だった。
「じゃあ、どういうことなんですか?」
静かなリビングに、私の声が響く。
「俺は、中谷のことが好きだ。でも、皓人のことも、好きなんだ」
「それって、やっぱり二股じゃないですか」
私の言葉に、皓人さんが静かに首を振った。
「おれたちは、同時に複数の人に対して好意を抱くんだ」
「え?」
一体この人は何を言っているんだろう?
思わず、眉間に力が入ってしまう。
同時に複数の人に対して好意を抱く。それは、単に浮気性というのではないだろうか。そう思っているのに、なぜだかそれを口に出せなかった。
「おれも玄也も、同時に複数人を好きになる。同時に複数人と付き合いたいと思う。そういう人間なんだよ」
「そういう人間って……」
皓人さんの言っていることが、頭でも心でも理解できなかった。理解してはいけないような気がした。
「おれは……おれも、玄也のことが好き。でも、茉里ちゃんのことも好き。2人に、恋愛感情がある」
皓人さんの言葉に、私は思わず息を飲んだ。
神様は残酷だ。
皓人さんの口から初めて聞いた「好き」の二文字に、私の思考は一瞬停止しかけた。それは、数ヵ月前まで私が聞きたくて仕方がない言葉だった。その言葉を今、こんな形で聞くことになるなんて。
どう反応したら良いか、分からなかった。
とにかく、パニックだった。
もう、耐えられなかった。
何も考えずに、私はおもむろに立ち上がると、そのまま玄関に向かって走り出した。
こんなこともあるかもしれないと、廊下に出しておいた荷物を途中で引っ付かんだ。慌てたように私の名前を呼ぶ菊地さんの声を聞きながら、玄関へと視線を向ける。
だが、そこにあるはずのものが、無い。
「中谷」
静かに、私の背後で菊地さんが再び私の名前を呼ぶ。それを無視しながら、私は必死になって探した。
そこにあるはずの、私の靴を。
ゆっくりとした、新たな足音が耳に届く。
その音に合わせて、私も背後を振り返った。
腕を組んだ皓人さんが、トン、と壁にもたれ掛かった。
「ごめんね、茉里ちゃん。茉里ちゃんの靴、おれが預かっちゃった」
「おい、それどういうことだよ!」
「玄也はちょっと黙っててくれる?」
菊地さんを押し退けて、皓人さんが私の正面で立ち止まった。
「ねえ、茉里ちゃん。おれはさ、茉里ちゃんもおれたちと一緒なんじゃないかなって思ってるんだ」
「え?」
皓人さんはじっと、私の瞳を見下ろした。その視線からなぜか、私は目を逸らすことができなかった。
「茉里ちゃんも、同時に複数の人を好きになる人なんじゃないかなって」
ドクン。
皓人さんの言葉に、心臓が嫌な音を立てた。
「だってさ、茉里ちゃんは今、玄也のことが好きだけど、おれのことも好きでしょ?」
「そんな、ちが」
「本当に?」
被せるように念押しされて、思わず押し黙ってしまう。
否定しないといけないのに。
否定しないといけないはずなのに、なぜかそれができない。
「私たちは、もう終わったの」
なんとか絞り出した言葉には、説得力の欠片も感じられなかった。
ドクン、ドクン。
心臓が立てる嫌な音は、だんだんと早くなっている。
「じゃあなんでおれがあげた靴、まだ大事に持ってるの?」
まるで鋭いナイフのように、皓人さんの言葉が私の胸に突き刺さる。
何か冷たいものが、背中を伝うのを感じる。本当に何かがあったのかは、分からない。けれども、そう感じたのだ。
「それ、は」
必死に言い訳を考える。
ドク、ドク。
嫌な音は、どんどんと早くなる。
「このあいだ茉里ちゃんの家に言った時、見つけたんだ。あの箱の中に入ってたんでしょ、あの靴」
ドク、ドク、ドク。
皓人さんの言葉は、正しい。
皓人さんからもらったあの靴は、箱に入れた状態で、まだ玄関に置いてある。皓人さんと別れた時、捨てようと思った。あれさえ捨ててしまえば、すべてなかったことにできると思った。皓人さんと過ごした日々なんて、なかったことにできると思った。
だからこそ、捨てられなかった。
私には、捨てられなかった。
捨ててしまったら……皓人さんへの想いもすべて捨ててしまうことになると思ったから。
「茉里ちゃんはさ、シンデレラはどうして靴を残したんだと思う?」
皓人さんの突拍子もない質問に、私は完全に不意を突かれた。気づけば私の左手首は、彼の手中に収まっていた。簡単に振りほどけそうな弱い力だったけれども、その手の冷たさに思わず身がすくんでしまった。
「王子様が、事前に罠を仕掛けたんだよ」
彼の言葉に、ぞわぞわと何かがゆっくり背中を上がっていくのを感じた。
何か、不快なものが。
「階段にピッチを塗っておいたんだ。そうしたら、シンデレラが逃げられなくなると思ったから」
ドク、ドク、ドク、ドク。
なぜだか、知りたくない真実に近づいているんだと、本能的に悟った。知りたくないのに、まるでピッチの塗られた階段に足をからめとられたみたいに、私はその場から動けなかった。
「ずっと言ってあげられなくてごめんね。おれは、茉里ちゃんのことが好きだよ。だから、3人で付き合おう?」
コクリ、と皓人さんが小首を傾げる。その仕草に、もう心臓が張り裂けそうになった。今までに感じたことの無い、無数の感情が入り乱れて、もう何をどう感じたら良いのか、分からなかった。
「もう、選ばなくていいんだよ。おれたちのどっちかを、選ばなくていい」
ちらり、と皓人さんの背後にいる菊地さんへと視線を移す。なんとも言えない、複雑な表情を浮かべている。不安げに揺れる瞳をたたえながら、何か信じられないものを見つめているかのような視線を皓人さんの背中に向けている。
「おれは、茉里ちゃんのことが好き。……たぶん、茉里ちゃんがおれに出会う前から、ね」
その一言で、私は驚いて皓人さんへと視線を戻した。
彼は、いったい何を言おうとしているの?
じりじりと、今度は嫌な汗が背中を滴り落ちる。
「茉里ちゃんは本当に、おれたちの出会いが偶然だと思ってる?」
本当に、偶然だとおもっている、か?
偶然、じゃ、ない?
王子は事前に罠を仕掛けた。
王子がピッチを塗ったから、シンデレラは靴を階段に残した。
シンデレラは、王子に嵌められた。
私も、嵌められた?
咄嗟に私は腕を引いて、皓人さんに掴まれた手を振り払った。玄関を見渡して、手近なスニーカーに手を伸ばす。
「まだ話は終わってないよ」
大急ぎでスニーカーに足を突っ込む私の手を、再び皓人さんが掴もうとする。その彼の手を、菊地さんが後ろから引っ張った。
どうにか靴ひもを結び終えた私は、そのまま振り返らずに玄関の扉を開ける。
必死に、逃げ出した。
エレベーターに乗り込む直前、一瞬だけ私は背後を確認した。誰かが私を追いかけてくる気配は、なかった。
私にできたのは、ただその場に呆然と立ち尽くすことだけだった。
どうして?
その一言が、頭の中を無数に駆け巡る。受け止めきれない何かに襲われて、もう戻れないと分かっている何かに、心がすがり付く。
どうして?
そう問いたいのに、衝撃が大きすぎて言葉が出ない。何が衝撃だったのかすら、私には分からない。
菊地さんと皓人さんが唇を重ねていた。
そのことを、私はどう解釈すればいいのか、ちっとも分からなかった。
「起きちゃった?」
無言のリビングに、皓人さんの飄々とした声が響いた。恐ろしいくらいにいつもと変わらない。
「珍しいね、茉里ちゃんが途中で起きちゃうの」
そう言いながら、皓人さんはキッチンへと消えていく。一方の菊地さんは、申し訳なさそうな表情のまま、私と目を合わせないように俯いていた。
「とりあえず、水でも飲む?」
皓人さんからグラスを差し出されるも、それに手を伸ばす気にはなれなかった。
一体、何がどうなっているのだろうか。
皓人さんは、私の昔の恋人で、私の今の恋人は菊地さんだ。その菊地さんが皓人さんとキスをしていた。2人は、高校からの親友同士で、ルームメイトで、それで?
浮気?
誰が? 誰と?
頭の中の考えが、いまだにまとまらない。
「水より、お酒の方が良かったかな?」
相変わらず、皓人さんはいつもの調子で語りかける。その言葉に、どう対応するのが正解なのか、分からない。
「玄也、飲む?」
皓人さんは私に差し出していたグラスを、今度は菊地さんに差し出した。彼は皓人さんの方に視線を寄越さないまま、小さく首を振った。「仕方ないな」と呟くと、皓人さんはおもむろにグラスの中身を一気に煽った。
「で?」
無言の空間に、皓人さんの一言がポツン、と落ちる。
視線を上げれば、皓人さんが私を見つめていた。コクン、と小首を傾げて、私になにか話すように促す。昔はときめいて仕方のなかったその仕草に、今はなぜか泣きたくなった。
「さっき、のは……?」
ようやく私が絞り出せたのは、たったこれだけの言葉だった。まだ、頭と心が状況に追い付いていけない。
「さっきのって、キスのこと?」
当たり前のことを答えるみたいに、皓人さんは言う。この状況でどうしてそんなにも平然としていられるのか、私にはちっとも分からなかった。
「どう、して?」
ずっと頭の中をめぐっていた言葉を、私はようやく口から放った。
「どうしてって、そんなの決まってるじゃん。す」
「ごめん」
皓人さんの言葉に、菊地さんの言葉が被さった。その声は、いつもの聞き慣れた耳馴染みの良い低音とは全く異なる、喉から絞り出されたような、苦しそうに震える音だった。
「ごめん。本当にごめん。こんな形で伝えるつもりじゃなかったんだ」
ようやく顔を上げで私を見つめる菊地さんの表情は、やっぱり苦しそうに歪んでいて。私の鼻を、ツーンとした独特の感覚が掠めた。
「そんな、2人ともさ、この世の終わりじゃないんだからさ。こんな時間だし、ちょっと寝てから明日の朝、改めて話さない?」
皓人さんの提案に、「こんな状況で眠れるわけがない」と心のなかで即答した。けれども、それを口に出すだけの気力がなかった。この状況をこの世の終わりのように感じてしまう、自分の弱さが情けない。
「俺は、ここで」
菊地さんはそう言って、すぐそばのソファーを指差した。おそらく、そこで眠るから、ベッドを1人で使って良いということだろう。
私は静かに頷いて、ゆっくりと菊地さんの寝室へと戻っていった。
正直、ここはこんな状況で使いたい部屋じゃない。こんな訳の分からない気持ちで、菊地さんの部屋に寝泊まりするなんて嫌だ。けれども、私には選択肢がなかった。
菊地さんは、一体どういうつもりで……。
考えても、仕方がない。考えても、答えは出ない。分かっているのに、どうしても考えてしまう。
精神的な疲労のせいか、立っているのがしんどくて、仕方なく菊地さんのベッドに横たわる。
裏切られた、という感情が心の中を渦巻いているのに、ベッドや枕から菊地さんの匂いだったり気配だったりを感じて、安心してしまう自分が嫌だった。もう元には戻れないのに、どうしても菊地さんの体温を求めてしまう自分がいて、悔しかった。
絶対に眠れないと思っていたのに、いつの間にか意識を手放していたらしい私は、部屋に射し込む朝日の光で目を覚ました。この場所で初めて迎える朝が、こんな形になるなんて、想像もしていなかった。
これから、どうしよう。
朝に改めて話そう、と皓人さんは言ったけれども、それに従う義理はない。悪夢であって欲しかったとどれだけ願っても、昨晩、目にしたあの光景が真実であることは変わらない。だからこのまま、何も言わずにここから脱出したって良い。
それでも、話を聞きたいと思う私は、愚か者だ。
念のため、いつでもここを出られるように着替えて、荷物をまとめる。洗面所でさっと顔を洗ってから、私は意を決して再びリビングへ向かった。
「おはよう」
リビングに入ると、皓人さんが笑顔で私を出迎えた。珍しく、今日は早く起きていたんだな、とは思うが、何事もなかったかのような笑顔には、やはり違和感を覚える。一方の菊地さんは、険しい表情で椅子に座っている。その正面には、グラスに注がれた青汁が手付かずで置かれていた。
「とりあえず座れば?」
そう言って、皓人さんは菊地さんの斜め向かいの椅子を引いて、私に座るよう促す。しぶしぶ席につけば、私の正面のテーブルにコトリ、と水の入ったグラスが置かれた。ちらり、と菊地さんの方へと視線をやれば、目の下には分かりやすく隈が浮かんでいて、眠れなかったであろうことがありありと分かった。
近いのに、遠い。
おかしな距離感だ。
「で、昨晩のことだけど」
「……浮気って、こと、ですか?」
椅子に座るなり口を開いた皓人さんの言葉に被せるようにして、私は言葉を絞り出した。
菊地さんが答えてくれるのを待ったけれども、彼はまた俯いたまま顔を上げてくれないので、仕方なく皓人さんの方へと視線を移す。
「んー、浮気とは、ちょっと違うのかな?」
皓人さんの答えに、私の頭の中の疑問符が増える。
「二股とも、ちょっと違うし」
「じゃあ、カモフラージュ?」
頭に浮かんだ可能性を、私はすぐに口に出した。この訳の分からない状況を、少しでも理解したかった。
「カモフラージュ? って、何の?」
皓人さんはキョトン、と私を見つめ返した。
「2人が同性愛者で、それを隠すために私と付き合って」
「それは違う」
私の言葉へ被せるようにして、菊地さんは言った。今日、初めて聞いた菊地さんの声だった。
「じゃあ、どういうことなんですか?」
静かなリビングに、私の声が響く。
「俺は、中谷のことが好きだ。でも、皓人のことも、好きなんだ」
「それって、やっぱり二股じゃないですか」
私の言葉に、皓人さんが静かに首を振った。
「おれたちは、同時に複数の人に対して好意を抱くんだ」
「え?」
一体この人は何を言っているんだろう?
思わず、眉間に力が入ってしまう。
同時に複数の人に対して好意を抱く。それは、単に浮気性というのではないだろうか。そう思っているのに、なぜだかそれを口に出せなかった。
「おれも玄也も、同時に複数人を好きになる。同時に複数人と付き合いたいと思う。そういう人間なんだよ」
「そういう人間って……」
皓人さんの言っていることが、頭でも心でも理解できなかった。理解してはいけないような気がした。
「おれは……おれも、玄也のことが好き。でも、茉里ちゃんのことも好き。2人に、恋愛感情がある」
皓人さんの言葉に、私は思わず息を飲んだ。
神様は残酷だ。
皓人さんの口から初めて聞いた「好き」の二文字に、私の思考は一瞬停止しかけた。それは、数ヵ月前まで私が聞きたくて仕方がない言葉だった。その言葉を今、こんな形で聞くことになるなんて。
どう反応したら良いか、分からなかった。
とにかく、パニックだった。
もう、耐えられなかった。
何も考えずに、私はおもむろに立ち上がると、そのまま玄関に向かって走り出した。
こんなこともあるかもしれないと、廊下に出しておいた荷物を途中で引っ付かんだ。慌てたように私の名前を呼ぶ菊地さんの声を聞きながら、玄関へと視線を向ける。
だが、そこにあるはずのものが、無い。
「中谷」
静かに、私の背後で菊地さんが再び私の名前を呼ぶ。それを無視しながら、私は必死になって探した。
そこにあるはずの、私の靴を。
ゆっくりとした、新たな足音が耳に届く。
その音に合わせて、私も背後を振り返った。
腕を組んだ皓人さんが、トン、と壁にもたれ掛かった。
「ごめんね、茉里ちゃん。茉里ちゃんの靴、おれが預かっちゃった」
「おい、それどういうことだよ!」
「玄也はちょっと黙っててくれる?」
菊地さんを押し退けて、皓人さんが私の正面で立ち止まった。
「ねえ、茉里ちゃん。おれはさ、茉里ちゃんもおれたちと一緒なんじゃないかなって思ってるんだ」
「え?」
皓人さんはじっと、私の瞳を見下ろした。その視線からなぜか、私は目を逸らすことができなかった。
「茉里ちゃんも、同時に複数の人を好きになる人なんじゃないかなって」
ドクン。
皓人さんの言葉に、心臓が嫌な音を立てた。
「だってさ、茉里ちゃんは今、玄也のことが好きだけど、おれのことも好きでしょ?」
「そんな、ちが」
「本当に?」
被せるように念押しされて、思わず押し黙ってしまう。
否定しないといけないのに。
否定しないといけないはずなのに、なぜかそれができない。
「私たちは、もう終わったの」
なんとか絞り出した言葉には、説得力の欠片も感じられなかった。
ドクン、ドクン。
心臓が立てる嫌な音は、だんだんと早くなっている。
「じゃあなんでおれがあげた靴、まだ大事に持ってるの?」
まるで鋭いナイフのように、皓人さんの言葉が私の胸に突き刺さる。
何か冷たいものが、背中を伝うのを感じる。本当に何かがあったのかは、分からない。けれども、そう感じたのだ。
「それ、は」
必死に言い訳を考える。
ドク、ドク。
嫌な音は、どんどんと早くなる。
「このあいだ茉里ちゃんの家に言った時、見つけたんだ。あの箱の中に入ってたんでしょ、あの靴」
ドク、ドク、ドク。
皓人さんの言葉は、正しい。
皓人さんからもらったあの靴は、箱に入れた状態で、まだ玄関に置いてある。皓人さんと別れた時、捨てようと思った。あれさえ捨ててしまえば、すべてなかったことにできると思った。皓人さんと過ごした日々なんて、なかったことにできると思った。
だからこそ、捨てられなかった。
私には、捨てられなかった。
捨ててしまったら……皓人さんへの想いもすべて捨ててしまうことになると思ったから。
「茉里ちゃんはさ、シンデレラはどうして靴を残したんだと思う?」
皓人さんの突拍子もない質問に、私は完全に不意を突かれた。気づけば私の左手首は、彼の手中に収まっていた。簡単に振りほどけそうな弱い力だったけれども、その手の冷たさに思わず身がすくんでしまった。
「王子様が、事前に罠を仕掛けたんだよ」
彼の言葉に、ぞわぞわと何かがゆっくり背中を上がっていくのを感じた。
何か、不快なものが。
「階段にピッチを塗っておいたんだ。そうしたら、シンデレラが逃げられなくなると思ったから」
ドク、ドク、ドク、ドク。
なぜだか、知りたくない真実に近づいているんだと、本能的に悟った。知りたくないのに、まるでピッチの塗られた階段に足をからめとられたみたいに、私はその場から動けなかった。
「ずっと言ってあげられなくてごめんね。おれは、茉里ちゃんのことが好きだよ。だから、3人で付き合おう?」
コクリ、と皓人さんが小首を傾げる。その仕草に、もう心臓が張り裂けそうになった。今までに感じたことの無い、無数の感情が入り乱れて、もう何をどう感じたら良いのか、分からなかった。
「もう、選ばなくていいんだよ。おれたちのどっちかを、選ばなくていい」
ちらり、と皓人さんの背後にいる菊地さんへと視線を移す。なんとも言えない、複雑な表情を浮かべている。不安げに揺れる瞳をたたえながら、何か信じられないものを見つめているかのような視線を皓人さんの背中に向けている。
「おれは、茉里ちゃんのことが好き。……たぶん、茉里ちゃんがおれに出会う前から、ね」
その一言で、私は驚いて皓人さんへと視線を戻した。
彼は、いったい何を言おうとしているの?
じりじりと、今度は嫌な汗が背中を滴り落ちる。
「茉里ちゃんは本当に、おれたちの出会いが偶然だと思ってる?」
本当に、偶然だとおもっている、か?
偶然、じゃ、ない?
王子は事前に罠を仕掛けた。
王子がピッチを塗ったから、シンデレラは靴を階段に残した。
シンデレラは、王子に嵌められた。
私も、嵌められた?
咄嗟に私は腕を引いて、皓人さんに掴まれた手を振り払った。玄関を見渡して、手近なスニーカーに手を伸ばす。
「まだ話は終わってないよ」
大急ぎでスニーカーに足を突っ込む私の手を、再び皓人さんが掴もうとする。その彼の手を、菊地さんが後ろから引っ張った。
どうにか靴ひもを結び終えた私は、そのまま振り返らずに玄関の扉を開ける。
必死に、逃げ出した。
エレベーターに乗り込む直前、一瞬だけ私は背後を確認した。誰かが私を追いかけてくる気配は、なかった。
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キャラ文芸
旧題:国を追われた巫女見習いは、隣国の後宮で二重に花開く
☆4月上旬に書籍発売です。たくさんの応援をありがとうございました!☆ 植物を慈しむ巫女見習いの凛月には、二つの秘密がある。それは、『植物の心がわかること』『見目が変化すること』。
そんな凛月は、次期巫女を侮辱した罪を着せられ国外追放されてしまう。
心機一転、紹介状を手に向かったのは隣国の都。そこで偶然知り合ったのは、高官の峰風だった。
峰風の取次ぎで紹介先の人物との対面を果たすが、提案されたのは後宮内での二つの仕事。ある時は引きこもり後宮妃(欣怡)として巫女の務めを果たし、またある時は、少年宦官(子墨)として庭園管理の仕事をする、忙しくも楽しい二重生活が始まった。
仕事中に秘密の能力を活かし活躍したことで、子墨は女嫌いの峰風の助手に抜擢される。女であること・巫女であることを隠しつつ助手の仕事に邁進するが、これがきっかけとなり、宮廷内の様々な騒動に巻き込まれていく。
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