灰かぶり姫の落とした靴は

佐竹りふれ

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70. 黒と心変わり

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「タクシー、走ってなかったんでアプリで呼びました」

 笹山さんの快活な声が聞こえた頃には、私はすっかり靴を履かされ終えて、自分の足で立ち上がっていた。私が転んだりぶつかったりしないように、菊地さんはぴたりと背後にはりついて店の外まで出る。大丈夫だ、とは決して言いきれない足取りの私は、ただその優しさを享受するしかなかった。

「じゃあ、今日はこれで解散にしましょう。中谷さん、飲ませすぎちゃいましたね。申し訳ない」

 そう言って軽く頭を下げる課長に、私はぶんぶんと首を振る。

「いえ、私が調子に乗って飲み過ぎてしまっただけなので。お恥ずかしいところをお見せして、私の方こそ申し訳ないです」

 と言い終えるなり頭を下げようとしたところで、ついつい足元がふらついた。すぐさま菊地さんが私の腰を捕まえる。そんな彼の手に、安心してしまう自分がいる。

「こんな調子なので、中谷はタクシーで帰らせます」
「そうですね、それがいい」

 課長と菊地さんの会話に、申し訳なさが募る。恥ずかしすぎて、その場でシュン、と消えてしまいたいぐらいだ。

「あ、僕、タクシー来るまで中谷さんとここで待ってるんで、お2人はお先にお帰りいただいて」
「いや、お前もそこそこ酔ってるだろ。俺が中谷と待つよ」

 笹山さんの提案にかぶせるようにして、菊地さんが言う。

「でも、タクシー呼んだの僕ですし、3人の中では僕が一番下っ端ですし」
「まあ、そういうのは良いんじゃないですか? 菊地さんがああ言ってるわけですから」

 課長はそう言うと、微笑みながら菊地さんの肩をポン、と叩いた。その微笑の意味に気づけるほど、私の頭は回っていなかった。

「では、また週明けに会社で。今日はお疲れさまでした。それから案件獲得、改めておめでとうございます」

 さわやかな笑顔でそう告げると、課長は笹山さんを半ば引っ張るようにして駅の方へと消えていった。
 
 夜の寒空の下に、私と菊地さんの2人だけが残される。冬も近づいて寒い季節のはずなのに、寒さをあまり感じなかったのは、ずっと隣にある菊地さんの体温のおかげだろう。私を真っ直ぐ立たせるために添えられていたはずの手が、いつの間にか私の腕を優しく擦っていた。
 彼とこんなに近い距離に長くいるのは、久しぶりだ。
 一緒に夜ご飯を食べて、一緒の時間を過ごす。そんな日々が、ずっと続くと思っていたのに。胸がチクリ、と痛む。
 思わず鼻をスン、と鳴らせば、私が寒がっていると勘違いした彼は、腕を擦る力を強くする。こういう優しさは、本当に変わらない。

 無言の時間が続き、ようやくタクシーが目の前に滑り込んでくる。そんなに時間は経っていないはずなのに、なぜか何時間も待っていたかのような錯覚を覚える。

「来たぞ。乗れるか?」

 彼の問いかけに私は頷くと、ゆっくりと自動で開かれた扉の向こうに歩き始める。私がよろけないように、彼の手はずっと腰に添えられている。私は彼の手に導かれるようにしてなんとかシートに潜り込む。扉に寄りかかったまま、菊地さんは私を見下ろしていた。

「じゃあ、気を付けて。家帰ったら、ちゃんと水分補給して」

 心配そうに眉間にしわを寄せたまま早口でまくし立てる彼を、私はボーっと見つめる。
 夜の暗闇と光の加減で妙な影になっていて、彼の表情が妙にぼんやりとして見える。

「それから……その、週明けに、会社で、また」

 そう言いながら、ゆっくりと菊地さんはドアから離れていった。
 それが妙に切なく思えた。
 それっきり、どこか遠くへ行ってしまうような気がした。
 離れていかないで欲しいと、思ってしまった。
 無意識のうちに、私は手を伸ばしてギュッと彼のジャケットの裾を握りしめた。影の中で、菊地さんが私を見つめ返したのが分かった。
 
 じっと、彼の瞳を見つめる。
 何も言わなくても、菊地さんは私の瞳の奥に答えを見つけてくれるはずだから。

 そのまま、意を決したかのように、菊地さんがこちらに近づくのを感じて、私はシートの奥へと体をずらした。彼がさっと乗り込めば、車の扉がスッと閉じられる。

「どちらまでお送りしましょうか?」

 運転手さんの言葉に、私が返答する前に菊地さんが口を開く。私の住所を、淀みなく伝える。まるで、自分の家みたいに。
 それが妙におかしく思えて、つい小さな笑い声が漏れた。
 戸惑ったように彼がこちらに顔を向けたのを無視して、私は彼の肩に頭を預けた。私は酔っぱらっているんだから、これくらいなら許されるだろう、なんて根拠のない言い訳を心のなかで独りごちながら。

 タクシーの中では、特に会話はなかった。
 なぜか菊地さんは私をあやすみたいに、一定のリズムで私の膝をポン、ポン、と優しく叩いた。それが妙に心地よくて、安心できて、うっかり車の中で寝落ちしかけたところで、家にたどり着いた。

 タクシーを降りて、マンションのエントランスを通ってエレベーターに乗って、私の部屋のある階に着いて。私はただ菊地さんに寄りかかっていただけで、すべてがスムーズに進んでいく。
 玄関の扉をくぐるなり、そのまま玄関マットの上に座り込んだ私に、ようやく菊地さんがため息をこぼした。そのため息は決して嫌そうなものではなく、「しょうがないな」という諦めに近いもののように聞こえた。
 玄関の鍵を閉めて、私の靴を脱がせる。自身の靴を脱ごうとしたところで、ピタリ、と菊地さんの動きが止まった。いったいどうしたんだろう? と見上げれば、困ったように私を見つめ返す。

「上がってもいいか?」

 この期に及んでわざわざそう訊ねるところは、律儀を通り越して少し面倒くさい。私が頷けば、安心したように彼は靴を脱ぎ、玄関に上がる。
 流れ作業のように肩を抱かれ、ひざ下に腕が差し込まれると、そのままふわりと体が宙に浮く。お酒の効果でふわふわしていた気持ちと相まって、まるで天国かオアシスにでもいるような気分だ。
 
 私を抱えた菊地さんはそのまま洗面所を通りすぎて脱衣所へと直行する。恐る恐る、私をその場に立たせて、ゆっくりと私の上着をはぎ取っていく。まだ何枚も服を着ているというのに、その行為を妙に意識してしまうのは、私だけだろうか。
 上着を脱がせ終えると、今度は私のジャケットのボタンに彼の指が伸びてくる。たった1つのボタンを外すだけなのに、妙に時間がかかる。その間に、私たちの視線が、偶然絡まった。ゆっくりと上下する彼の喉仏に、私も思わず唾を飲み込んだ。
 互いに視線をそらせずにいるまま、ジャケットが私の身体から離れていく。
 部屋の中に充満する妙な空気に、思わず下唇をかみしめる。その瞬間、彼が私の唇に視線を走らせたのが分かった。自然と伏し目がちになった彼の視線に、私の身体が熱くなる。
 あ、このままじゃ、ダメだ。
 頭の中で、黄色信号が点滅する。

「えっと、ここからは、自分でやるので」

 まるで防衛本能が反応したみたいに、私は咄嗟にそんな言葉を口走っていた。この空気の中でそれができた自分を、褒めたい。

「そう、だよな。うん、あの、俺はあっちで待ってるから、うん」

 まるで魔法が解けて現実に戻ったように、明らかに動揺したような声のまま、菊地さんは慌てたように脱衣所を後にした。扉が閉まったのを確認してから、私は思わずその場にしゃがみこむ。
 危なかった。
 あのまま、空気に流されてしまうかと思った。
 酔った勢いでこれ以上ことをややこしくするのは、絶対に避けたい。心を強く持たないと。私はそう決心して、立ち上がった。

 服を脱ぎ終えて、浴室に足を踏み入れる。
 温かいお湯を浴びながら、身体だけでなく心までほぐされていくのを感じる。心なしか、酔いも醒めてきた気がする。
 
 今、私はどんな状況に置かれているのか。
 今夜、一体何があったのか。
 そして今夜、私は何に気づいてしまったのか。
 改めて、頭の中で反芻する。
 
 泡を流し終えたころには、ある程度の考えがまとまった。蛇口の栓を締めた時、私は1つの決断を下した。

 浴室から出て、タオルや着替えがすべて用意されていることに気づく。私がシャワーを浴びている間に、菊地さんが準備してくれたに違いない。その優しさに、改めて自分の決断の重要さを感じた。
 きっと、この決断を私は後悔しない。
 私は口元に微かな笑みが浮かぶのを感じながら、バスタオルに手を伸ばした。

 着替えを終えてリビングに向かうと、キッチンで佇む菊地さんと目が合った。無言で水の入ったグラスを差し出される。私は躊躇せずにそれを受け取り、中身を飲み干した。

「いろいろと、ありがとうございました」

 そう言いながら、私は着替えを手で示す。少し気まずそうに、菊地さんは頷いた。

「おかげさまで、すっかり酔いも醒めました」

 私の言葉に、菊地さん安心したように頷いた。私も自然と、微笑み返す。
 どちらともなく、再び視線が絡まり合う。そこには、先ほどのような熱は無くて、代わりにあるのは、穏やかな日常だ。
 当たり前のように、菊地さんの手が私の肩にかかったバスタオルへと伸びてきて、そのままタオルで私の髪を撫でる。久々に力強い手でわしゃわしゃと髪を撫でられ、思わずそのまま彼の手にすべてを委ねてしまいそうになる。
 不意に、金沢での一夜を思い出した。
 あの時も私は酔っぱらっていて、菊地さんに面倒を見てもらった。あの時は皓人さんのことでお酒に走ったのだけれども、今夜はそうじゃない。皓人さんにも少し責任はあるけれども、今日酒が進んだのは、菊地さんのせいだ。
 なおも私の髪をタオルでわしゃわしゃと乾かし続ける菊地さんの手に、自分の手を重ねた。ゆっくりとタオルをずらして、彼の瞳をまっすぐに見つめる。

「気が変わりました。話を、しましょう」

 私の唐突な言葉に、彼はゴクリと唾を飲み込んだ。視界の隅に、私のジャケットが、きちんとハンガーに掛けられているのが映った。
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