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71. 黒の話
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朝、瞼を開ければ見慣れた天井が視界に入る。
むくり、と起き上がれば途端に頭痛に襲われて、思わずこめかみに手を当てる。これは昨日の自分の落ち度だ。甘んじて受け入れなくては。そう言い聞かせて、部屋の中を見渡す。
そこには、人影もなければ気配すらない。
妙に落胆した気持ちをごまかすように、サイドテーブルへと視線を移した。見慣れないペットボトルの水と頭痛薬が置かれていて、昨日の夜、菊地さんがここにいたことは記憶違いではなかったと安心する。
あらかじめ緩められた蓋に、必要な分量だけ出された薬。その小さな気遣いが、彼らしさを表している。
頭痛薬のパッケージを持ち上げると、その下から1枚のメモ用紙が顔を出した。
「明日、改めて話をしましょう」
見慣れた筆跡に、名前がなくても誰が書いたのかすぐに分かる。
私は小さくため息をつき、天を仰いだ。
もっと、ひどい人でいてくれたならいいのに。
そうすれば、答えなんて簡単なのに。
昨晩、私が改めて話をしようと言ったのは、私だった。驚く菊地さんをよそに、その代わり、素面になった明朝がいい、と付け加えたのも、私だった。彼は全面的に私の希望に寄り添うと言った。
このままここに泊まればいい。
私はそんなバカな提案もした。けれども、彼はなぜだかこれにだけ抵抗した。律儀な人だ。
結局、彼は私が眠るまで傍にいてくれた。この頭痛薬は家にはなかったはずだから、私が寝た後に買いに行ってくれたんだろう。どこまでも菊地さんは、菊地さんだ。
スマートフォンが振動し、メッセージの着信を伝える。
「そろそろ行ってもいいか?」
シンプルな菊地さんからの問いかけに、すぐに了承の返事をした。今日は長い1日になりそうだ。
*************************
この部屋で一緒に食事をしていた時と同じように、並んで座る。目の前に置かれたグラスに、菊地さんは手を伸ばそうともしない。
重い沈黙が、私たちを包んだ。
「中谷が、話したいことを話そう」
それまでずっと無言だった菊地さんが、口を開いた。
「私が、話したいこと」
呟きながら、考える。
自分で話をしようと言っておきながら、何を話せばよいのか分からない。言いたいことはいっぱいあったはずなのに、彼を前にするとそれが何だったのか、忘れてしまった。
「じゃあ、訊きたいことは?」
菊地さんの言葉に、私はゆっくりと頭を巡らせる。
「皓人さんとは、いつから?」
最初に頭に浮かんだことを、そのまま口に出した。
どうしていきなりこんなことを訊いてしまったんだろう、と、声に出してからすぐに後悔した。
「俺の部屋で、高校の時の彼女の話、しただろ? 2人目の彼女に振られて落ち込んでた俺を皓人が励ましてくれて、特別な友達になったって。その特別っていうのが、そういう意味」
静かに、でもはっきりとした声で菊地さんは言った。
「それまでは本当に、ただの男友達だった。それに、男相手に特別な感情を抱いたこともなかった。想像すら、してなかった。すごく好きだった女の子と両想いになれて、付き合いだして、想ってる分だけ尽くすのが、愛だと思ってた。でもそれを拒絶されて、どうしたらいいのか分からなかった。周りの友達みんなに『ダセエ』って言われて、俺も合わせて表面上は笑ってたけど、心では泣いてて。それに唯一気付いてくれたのも、唯一俺を笑わなかったのも、皓人だったんだ。『玄也は愛情深いってことで、いいんじゃない?』って言われた時、なんだか、俺を丸ごと受け入れられた気がして、嬉しかった」
そう話す菊地さんの表情は、愛おしい、と顔に書いてあるみたいで。本当に皓人さんのことが好きなんだとわかった。でもそれと同時に、その視線は私には見慣れたもので、胸が痛んだ。
今、彼が皓人さんに向けている視線は、私に向けられていたものに似ている。
「一緒に過ごす時間が増えて、自然と距離が近くなって、気づいたら深い仲になっていた。自然に、ゆっくりと。グラデーションみたいに。だから、はっきりいつから付き合い始めた、みたいなのは、正直分からないんだ。周囲は誰も、気づいていなかった。みんな、俺らをただの親友だと思ってた。で、それぞれ別の大学に進学したのをきっかけに、一緒に住み始めたんだ」
その瞬間、それまで落ち着いて話していた菊地さんの瞳が、揺らいだ。
「すべてが順調だと思ってた。俺は皓人が大切で、愛おしかった。そのはずだったのに、俺は大学で、恋に落ちた」
言い終わるや否や、菊地さんはギュッとズボンを握りしめた。
彼がわずかに震えているのが分かって、思わずその手に自分の手を重ねたくなった。付き合っていたら、そうしていただろう。でも、今は……。
「相手は、同じ教養科目を取っている女の子だった。自分でも驚いたよ。俺はそれまで自分のことを、一途で誠実な男だと思い込んでいた。それなのに、恋人以外に恋愛感情を抱くなんて、どうかしてるって。おかしいって。何度も何度も自分を責めて、必死にその感情を捨てようとした」
彼の声音から、もがき苦しむ気持ちが痛いほど伝わってくる。彼の葛藤が手に取るように分かる。なぜならそれは、私が経験したことのある痛みだから。
「でも、無理だった。だから、正直に皓人に告白して謝ったんだ」
だんだんと早口になった菊地さんは、そこで言葉を止めると、不意に私の顔を見上げた。その瞬間が、私たちが本当の意味で今日初めて、目を合わせた瞬間だった。
「そしたらアイツ、なんて言ったと思う? 『ふーん』だって。『ふーん』って。笑っちゃうよな」
そう言って、菊地さんは乾いた笑い声を漏らした。
信じられないような話だけれども、私にはそう言った皓人さんの表情も声のトーンもすべて、容易に想像できてしまう。皓人さんらしい、としか思えなかった。
「恋人が他の人を好きになったって言ってきたら、普通は動揺するなり怒るなりすると思わないか? そう皓人に訊いたらさ、『普通って、何?』って聞き返されちゃって。『玄也のおれへの気持ちが変わってないなら、他にも好きな人ができようと、気にしないけど』って。皓人らしいよな」
菊地さんの言葉に、私は自然と頷いていた。本当に、その通りだ。
「それから少しして、皓人が『複数愛』って概念を教えてくれた。俺は複数愛者なんじゃないかって。最初は否定してたんだけど、だんだんと自分でも受け入れられるようになった。ああ、俺はそういう人間なんだなって」
菊地さんと皓人さんの関係を知ってから、調べなかったわけじゃない。
複数愛。
私も、その結論にたどり着いた。でも、それを容易に受け入れることはできなくて。否定をしながら過ごしてきた。それでも、こうして目の前ではっきり言われると、現実の話として受け入れたいと思えてくるから不思議だ。
「それから、俺と皓人は複数愛の関係性を模索した。実際に何人かと交際してみた」
「それは、その、同じタイプの人限定で?」
「いや、それも手探りだった。最初からお互いに複数愛者だって分かっている状態で交際することもあれば、複数愛者ではない人に事情を説明して、理解してもらってから交際することもあった。女性が相手のことも、男性が相手のこともあった。うまくいった関係もあったけど、すぐに崩壊した関係もたくさんあったよ」
菊地さんの言葉を聞きながら、彼の話に納得する自分がいる一方で、どこか納得できない自分がいた。
「じゃあ、なんで私だったんですか?」
彼の話を聞く前から、ずっと疑問に思っていたことが、ようやく口から飛び出した。
「なんで、私が新しいターゲットになったんですか? やっぱり、北野さんと脇田さんの件ですか?」
どうして、自分がターゲットにされたのか。考えれば考えるほどにくっきりと浮かび上がるのは、私が過去に犯した罪のことだった。
私の問いかけに、菊地さんの瞳が後ろめたそうに曇る。
「そうじゃない、と言いたいけれど、完全に否定はできない。申し訳ない」
頭を下げる菊地さんに、私はなんて返せばよいのかわからなかった。
他の人と違って、彼だけが普通に接し続けてくれたから。その優しさがずっと支えだったのに。それなのに、それがきっかけでこの泥沼に引きずり込まれただなんて。
頭の中がだんだんと白く染まっていく。
「例の噂を耳にして、もしかしたら中谷も複数愛者なんじゃないかって、勝手な期待を抱いた。でもそれは、俺の勝手な願望だった」
耳から入ってくる言葉に、私は泣きたくなるのを必死に堪える。
「ずっと、私を引きずり込もうとしてたんですよね? 『どっちも』でも良いとか、そんなことばっかり言い続けてたのも、私に菊池さんと皓人さんとの関係を受け入れさせるように、洗脳するためですよね?」
一度あふれ出てきた疑問や感情は、留まることを知らなくて。次から次へと、言葉が出てくる。
「そんなつもりはなかった。俺はただ、少しでも中谷が日々を過ごしやすくなればと思っただけで……。でも、無意識のうちにそうしてたのかもしれない」
菊地さんは一向に顔を上げる気配がない。ただその場でじっと、項垂れている。
「勝手な期待だの、願望だの、無意識だの……もう、何をどう考えたらいいのか……」
呟きながら、私も俯いた。膝の上でぎゅっと握りしめた拳の色が、白い。
「ずっと勘違いして、浮かれて、好きになった自分が本当にバカみたい。どこからが計画だったんですか? 何がうそで、何が本当だったんですか? そもそも、本当のことなんてあったんですか?」
言葉を絞り出すのに合わせて、ぽたり、ぽたりと手の甲に滴が落ちてくる。滴が作る円形が、透明な膜の向こうでぐにゃりと歪む。
「今更、何を言っても信じてもらえないと思う」
菊地さんの言葉が、静かに響く。
「でも、はじめから計画してたとか、そんなんじゃないんだ。ただ、俺が勝手に中谷のことを好きになった。そのせいで巻き込んでしまったのは、本当に申し訳ないと思ってる。皓人とのことを黙っていた以外は、俺にとっては全部本気だった。本当に、中谷のことが好きだ。でも、中谷のことを想うなら、それ以上の欲を出すべきじゃなかったんだよな。本当に、ごめん」
椅子を引いた音がしたかと思えば、立ち上がった彼が深々と頭を下げたのが気配で分かった。それでも、私は顔を上げることができなかった。ただ手の甲に池が広がっていくのを、見ていることしかできなかった。
「泣かせるつもりじゃ、なかったんだ。むしろ、俺は中谷の涙を拭ってやれる、そんな存在になりたかった。でも、高望みしすぎだったよな。傷つけて、本当に申し訳ない」
まるで独り言のようにそう言うと、そのまま玄関に向かって歩き始めた彼のつま先が視界に入った。
このまま帰ってしまう。
何か、言わないと。
衝動的に、そう思った。
「あの」
私の言葉に、彼の足が止まった。
「私は、どうすればいいですか?」
間抜けな質問だと、自分でも思った。
「……中谷の望むとおりにすればいい」
まるですべてを丸投げするかのような言葉に、私は困惑することしかできなかった。
「なら、私にどうして欲しいですか?」
言ってから、激しい後悔が私を襲った。こんな状況でどうして、彼の希望なんて聞いてしまったのだろう、と。
「……こんなこと、願う権利はないけど」
重たい沈黙とともに、菊地さんは言葉を続ける。
「もしも許されるなら、俺たち2人を、選んでほしいと思ってる」
その言葉だけを残して、彼は部屋から出て行った。彼がいなくなった瞬間、張り詰めていた糸が途切れたように、私は声を上げて泣き出した。
むくり、と起き上がれば途端に頭痛に襲われて、思わずこめかみに手を当てる。これは昨日の自分の落ち度だ。甘んじて受け入れなくては。そう言い聞かせて、部屋の中を見渡す。
そこには、人影もなければ気配すらない。
妙に落胆した気持ちをごまかすように、サイドテーブルへと視線を移した。見慣れないペットボトルの水と頭痛薬が置かれていて、昨日の夜、菊地さんがここにいたことは記憶違いではなかったと安心する。
あらかじめ緩められた蓋に、必要な分量だけ出された薬。その小さな気遣いが、彼らしさを表している。
頭痛薬のパッケージを持ち上げると、その下から1枚のメモ用紙が顔を出した。
「明日、改めて話をしましょう」
見慣れた筆跡に、名前がなくても誰が書いたのかすぐに分かる。
私は小さくため息をつき、天を仰いだ。
もっと、ひどい人でいてくれたならいいのに。
そうすれば、答えなんて簡単なのに。
昨晩、私が改めて話をしようと言ったのは、私だった。驚く菊地さんをよそに、その代わり、素面になった明朝がいい、と付け加えたのも、私だった。彼は全面的に私の希望に寄り添うと言った。
このままここに泊まればいい。
私はそんなバカな提案もした。けれども、彼はなぜだかこれにだけ抵抗した。律儀な人だ。
結局、彼は私が眠るまで傍にいてくれた。この頭痛薬は家にはなかったはずだから、私が寝た後に買いに行ってくれたんだろう。どこまでも菊地さんは、菊地さんだ。
スマートフォンが振動し、メッセージの着信を伝える。
「そろそろ行ってもいいか?」
シンプルな菊地さんからの問いかけに、すぐに了承の返事をした。今日は長い1日になりそうだ。
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この部屋で一緒に食事をしていた時と同じように、並んで座る。目の前に置かれたグラスに、菊地さんは手を伸ばそうともしない。
重い沈黙が、私たちを包んだ。
「中谷が、話したいことを話そう」
それまでずっと無言だった菊地さんが、口を開いた。
「私が、話したいこと」
呟きながら、考える。
自分で話をしようと言っておきながら、何を話せばよいのか分からない。言いたいことはいっぱいあったはずなのに、彼を前にするとそれが何だったのか、忘れてしまった。
「じゃあ、訊きたいことは?」
菊地さんの言葉に、私はゆっくりと頭を巡らせる。
「皓人さんとは、いつから?」
最初に頭に浮かんだことを、そのまま口に出した。
どうしていきなりこんなことを訊いてしまったんだろう、と、声に出してからすぐに後悔した。
「俺の部屋で、高校の時の彼女の話、しただろ? 2人目の彼女に振られて落ち込んでた俺を皓人が励ましてくれて、特別な友達になったって。その特別っていうのが、そういう意味」
静かに、でもはっきりとした声で菊地さんは言った。
「それまでは本当に、ただの男友達だった。それに、男相手に特別な感情を抱いたこともなかった。想像すら、してなかった。すごく好きだった女の子と両想いになれて、付き合いだして、想ってる分だけ尽くすのが、愛だと思ってた。でもそれを拒絶されて、どうしたらいいのか分からなかった。周りの友達みんなに『ダセエ』って言われて、俺も合わせて表面上は笑ってたけど、心では泣いてて。それに唯一気付いてくれたのも、唯一俺を笑わなかったのも、皓人だったんだ。『玄也は愛情深いってことで、いいんじゃない?』って言われた時、なんだか、俺を丸ごと受け入れられた気がして、嬉しかった」
そう話す菊地さんの表情は、愛おしい、と顔に書いてあるみたいで。本当に皓人さんのことが好きなんだとわかった。でもそれと同時に、その視線は私には見慣れたもので、胸が痛んだ。
今、彼が皓人さんに向けている視線は、私に向けられていたものに似ている。
「一緒に過ごす時間が増えて、自然と距離が近くなって、気づいたら深い仲になっていた。自然に、ゆっくりと。グラデーションみたいに。だから、はっきりいつから付き合い始めた、みたいなのは、正直分からないんだ。周囲は誰も、気づいていなかった。みんな、俺らをただの親友だと思ってた。で、それぞれ別の大学に進学したのをきっかけに、一緒に住み始めたんだ」
その瞬間、それまで落ち着いて話していた菊地さんの瞳が、揺らいだ。
「すべてが順調だと思ってた。俺は皓人が大切で、愛おしかった。そのはずだったのに、俺は大学で、恋に落ちた」
言い終わるや否や、菊地さんはギュッとズボンを握りしめた。
彼がわずかに震えているのが分かって、思わずその手に自分の手を重ねたくなった。付き合っていたら、そうしていただろう。でも、今は……。
「相手は、同じ教養科目を取っている女の子だった。自分でも驚いたよ。俺はそれまで自分のことを、一途で誠実な男だと思い込んでいた。それなのに、恋人以外に恋愛感情を抱くなんて、どうかしてるって。おかしいって。何度も何度も自分を責めて、必死にその感情を捨てようとした」
彼の声音から、もがき苦しむ気持ちが痛いほど伝わってくる。彼の葛藤が手に取るように分かる。なぜならそれは、私が経験したことのある痛みだから。
「でも、無理だった。だから、正直に皓人に告白して謝ったんだ」
だんだんと早口になった菊地さんは、そこで言葉を止めると、不意に私の顔を見上げた。その瞬間が、私たちが本当の意味で今日初めて、目を合わせた瞬間だった。
「そしたらアイツ、なんて言ったと思う? 『ふーん』だって。『ふーん』って。笑っちゃうよな」
そう言って、菊地さんは乾いた笑い声を漏らした。
信じられないような話だけれども、私にはそう言った皓人さんの表情も声のトーンもすべて、容易に想像できてしまう。皓人さんらしい、としか思えなかった。
「恋人が他の人を好きになったって言ってきたら、普通は動揺するなり怒るなりすると思わないか? そう皓人に訊いたらさ、『普通って、何?』って聞き返されちゃって。『玄也のおれへの気持ちが変わってないなら、他にも好きな人ができようと、気にしないけど』って。皓人らしいよな」
菊地さんの言葉に、私は自然と頷いていた。本当に、その通りだ。
「それから少しして、皓人が『複数愛』って概念を教えてくれた。俺は複数愛者なんじゃないかって。最初は否定してたんだけど、だんだんと自分でも受け入れられるようになった。ああ、俺はそういう人間なんだなって」
菊地さんと皓人さんの関係を知ってから、調べなかったわけじゃない。
複数愛。
私も、その結論にたどり着いた。でも、それを容易に受け入れることはできなくて。否定をしながら過ごしてきた。それでも、こうして目の前ではっきり言われると、現実の話として受け入れたいと思えてくるから不思議だ。
「それから、俺と皓人は複数愛の関係性を模索した。実際に何人かと交際してみた」
「それは、その、同じタイプの人限定で?」
「いや、それも手探りだった。最初からお互いに複数愛者だって分かっている状態で交際することもあれば、複数愛者ではない人に事情を説明して、理解してもらってから交際することもあった。女性が相手のことも、男性が相手のこともあった。うまくいった関係もあったけど、すぐに崩壊した関係もたくさんあったよ」
菊地さんの言葉を聞きながら、彼の話に納得する自分がいる一方で、どこか納得できない自分がいた。
「じゃあ、なんで私だったんですか?」
彼の話を聞く前から、ずっと疑問に思っていたことが、ようやく口から飛び出した。
「なんで、私が新しいターゲットになったんですか? やっぱり、北野さんと脇田さんの件ですか?」
どうして、自分がターゲットにされたのか。考えれば考えるほどにくっきりと浮かび上がるのは、私が過去に犯した罪のことだった。
私の問いかけに、菊地さんの瞳が後ろめたそうに曇る。
「そうじゃない、と言いたいけれど、完全に否定はできない。申し訳ない」
頭を下げる菊地さんに、私はなんて返せばよいのかわからなかった。
他の人と違って、彼だけが普通に接し続けてくれたから。その優しさがずっと支えだったのに。それなのに、それがきっかけでこの泥沼に引きずり込まれただなんて。
頭の中がだんだんと白く染まっていく。
「例の噂を耳にして、もしかしたら中谷も複数愛者なんじゃないかって、勝手な期待を抱いた。でもそれは、俺の勝手な願望だった」
耳から入ってくる言葉に、私は泣きたくなるのを必死に堪える。
「ずっと、私を引きずり込もうとしてたんですよね? 『どっちも』でも良いとか、そんなことばっかり言い続けてたのも、私に菊池さんと皓人さんとの関係を受け入れさせるように、洗脳するためですよね?」
一度あふれ出てきた疑問や感情は、留まることを知らなくて。次から次へと、言葉が出てくる。
「そんなつもりはなかった。俺はただ、少しでも中谷が日々を過ごしやすくなればと思っただけで……。でも、無意識のうちにそうしてたのかもしれない」
菊地さんは一向に顔を上げる気配がない。ただその場でじっと、項垂れている。
「勝手な期待だの、願望だの、無意識だの……もう、何をどう考えたらいいのか……」
呟きながら、私も俯いた。膝の上でぎゅっと握りしめた拳の色が、白い。
「ずっと勘違いして、浮かれて、好きになった自分が本当にバカみたい。どこからが計画だったんですか? 何がうそで、何が本当だったんですか? そもそも、本当のことなんてあったんですか?」
言葉を絞り出すのに合わせて、ぽたり、ぽたりと手の甲に滴が落ちてくる。滴が作る円形が、透明な膜の向こうでぐにゃりと歪む。
「今更、何を言っても信じてもらえないと思う」
菊地さんの言葉が、静かに響く。
「でも、はじめから計画してたとか、そんなんじゃないんだ。ただ、俺が勝手に中谷のことを好きになった。そのせいで巻き込んでしまったのは、本当に申し訳ないと思ってる。皓人とのことを黙っていた以外は、俺にとっては全部本気だった。本当に、中谷のことが好きだ。でも、中谷のことを想うなら、それ以上の欲を出すべきじゃなかったんだよな。本当に、ごめん」
椅子を引いた音がしたかと思えば、立ち上がった彼が深々と頭を下げたのが気配で分かった。それでも、私は顔を上げることができなかった。ただ手の甲に池が広がっていくのを、見ていることしかできなかった。
「泣かせるつもりじゃ、なかったんだ。むしろ、俺は中谷の涙を拭ってやれる、そんな存在になりたかった。でも、高望みしすぎだったよな。傷つけて、本当に申し訳ない」
まるで独り言のようにそう言うと、そのまま玄関に向かって歩き始めた彼のつま先が視界に入った。
このまま帰ってしまう。
何か、言わないと。
衝動的に、そう思った。
「あの」
私の言葉に、彼の足が止まった。
「私は、どうすればいいですか?」
間抜けな質問だと、自分でも思った。
「……中谷の望むとおりにすればいい」
まるですべてを丸投げするかのような言葉に、私は困惑することしかできなかった。
「なら、私にどうして欲しいですか?」
言ってから、激しい後悔が私を襲った。こんな状況でどうして、彼の希望なんて聞いてしまったのだろう、と。
「……こんなこと、願う権利はないけど」
重たい沈黙とともに、菊地さんは言葉を続ける。
「もしも許されるなら、俺たち2人を、選んでほしいと思ってる」
その言葉だけを残して、彼は部屋から出て行った。彼がいなくなった瞬間、張り詰めていた糸が途切れたように、私は声を上げて泣き出した。
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