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05 提案
しおりを挟むはじめて聞く言葉だった。
伯爵令嬢として育て上げられた彼女はいつだって『私』と言っていた。
ドレスの裾(すそ)さばきは堂の入ったもので、申し分ない淑女(レディ)だった。
その彼女がいま『ぼく』と言った。
予想外の言葉に混乱する。
「はぁ。ばかばかしい。
クソ姉貴のせいで、この一年間、殿下とおつきあいさせられて、ぼくだって色々と頭にきてるんですよ。
まあ、あの婚約破棄はそもそも渡りに船ではあったんですけどね」
ぞんざいな口調で足を組む。
そこに伯爵令嬢だったダーナは、もういなかった。
西日に染まった栗色の髪、美しい緋色のドレス、小柄な体躯からはまるで高熱の炎が発せられているかのようだった。
琥珀色の瞳は冷たい光を放ち、美しい眉は不機嫌そうにひそめられている。
(まるで別人だ……)
可憐な唇から激しい言葉がつむがれる。
「クソ姉貴がほかの男とくっつきたいから身代わりにさせられて、王太子殿下から捨てられる。
別にぼくにはどうでもいいんですよ。
これでクソ姉貴が王家を騙した罪で破滅したって。
ただ、殿下のその顔は気にくわない。
好きでもない女を振るんなら、もう少し増しな顔で振ってくださいよ」
愛らしいピンクのルージュが引かれた唇からつばが飛ぶ。
「大体、嘘ついてるのが見え見えなんです。あんな顔で婚約破棄されたら、さも誰かの思惑で婚約解消したと言ったも同然でしょ」
「―ちが……」
「否定しても無駄です。どうせそいつとの戦いにぼくを巻き込まないために婚約破棄したんでしょ?
違うって言うなら証明してくださいよ。今ここで」
理路整然と語られるダーナの言葉に何も言い返せない。
そもそも王家の秘密に関わることなのだ。
叔父との仲違いが知られたら、それだけ彼女に被害が及ぶ可能性がある。
レオンハルトはぐっと口をつぐんだ。
ふん、とダーナが鼻を鳴らす音が聞こえた。
「どうせ建国神話にからんだ話なんでしょ? 先の王弟殿下が色物好きなのは有名な話ですから」
「なっ――! どうしてそれを!?」
顔を上げると、ダーナがニヤリと笑った。
そこでカマを掛けられたと気づく。
「へえ~、やっぱりそうなんだ。ぼくも半信半疑だったんですけど、殿下のその反応を見ると、本当なんですね。あの話」
心臓がどくん、と大きく鳴った。
(――どこまで知って……)
「男色好きで有名な王弟どのが殿下を見るあの目。どうしたって獲物を狙っているように見るのが自然でしょう? しかもあの王弟どのが娼館から買い上げてる男娼が殿下によく似た金髪碧眼とくれば、まあ予想はつきますよ」
ダーナの言葉に顔がこわばる。
(今すぐ逃げなければ……)
これ以上彼女の話を聞いてはいけない。
そう思うのに足は凍り付いたように動かなかった。
「あの分だと、さしもの王弟どのもまだ殿下には手を出していないんですね。意外だなぁ。
それとも王弟どのは好物を最後に取っておくタイプなのかな? ねえ、どうなんです。殿下」
「――き、君には関係ない!」
襟首をつかむ手をほどこうとした瞬間、ダーナが魅力的な言葉を口にした。
それはあまりにも抗いがたい誘惑だった。
「王弟どのが嫌いなんでしょう? 一つだけありますよ。王弟どのに一泡ふかせられる方法」
ダーナの言葉に硬直する。
このまま彼女の手を離すべきか、迷う。
(もしも……もしも本当にそんな方法があるというのなら――)
あの嫌らしい目で見つめられることも、皺(しわ)びた手に体をまさぐられることも無くなるというのなら、賭けたい。
二人きりのティーサロンに長い沈黙が落ちた。
時間にして数秒、いいや数分だったかもしれない。
だがレオンハルトにとってそれは自分の人生を変える決断だった。
唇の震えを必死におさえながら尋ねる。
「その方法とは一体なんだ……?」
ダーナが悪魔のような笑みを浮かべる。
「ぼくと既成事実を作りましょう」
「え……?」
部屋に入ってきた時と同じく、困惑がレオンハルトの体に走った。
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