隠遁薬師は山に在り

あつき

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人との境界

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 町から帰ると、アキは旅籠へと向かった。市では珍しい着物に目を輝かせていたが、欲しがったのは小さい貝殻が連なった腕輪だった。
 薄紅色の貝に恋の相手の名を告げると、叶うのだと売り子が言っていた。それで決めたのだろう。
 自分は、鮫の皮を買った。ざらざらしていて、滑り止めになる。小刀の柄に巻いてもいいし、鑢としても使える。硬いものを粉にしたいときに使うのだと聞いて、真っ先に琉璃の顔が浮かんだ。彼が使いたいと言うなら、土産にしてもいいだろう。
 まだ夕方だ。山には入れる。
 慣れた獣道を掻き分けて、藪の中を行く。
 琉璃の庵に通じる道は、細くて荒れている。きっと自分以外に通るものがいないからだ。
「おうい」
 小さな庵は、今日も細い煙が上っていた。声をかけて重い暖簾を押し上げると、日の暮れて薄暗くなった庵の中で、琉璃が一人で湯を沸かしていた。炭の火だけが、赤く光っている。
「呼んでおらんぞ」
 こちらには目もくれない。履物を脱いで、そのまま上がりこむ。囲炉裏に近づいても、湯の中には何も入っていない。
「見せたいものがあって来た。なあ、お前はこういうものを使うか?」
 布袋から、鮫の皮を取り出す。受け取る気配はないので、眼前までずいと差し出した。囲炉裏のかすかな光で、ざらついた皮の表面がよく見える。
「……鮫皮か。使ったことはない」
「じゃあ、使え」
 座った琉璃の傍らへ、畳んだ皮を置く。彼は訝しげに見て、手をつけようとはしない。
「要らないか」
 聞くと、ようやく手を伸ばす。
「俺が使うものをお前が知っているのが、薄気味悪くてかなわない」
 そう言って、皮を持ち上げると傍らの籠の中へ入れた。手土産が彼のものになったのを見届けて、妙に嬉しかった。
「今から何か作るのか」
 鉄鍋に煮えている湯を示すと、琉璃はその中へ乾いた葉を数枚、放り投げた。気持ちのいい、植物の香りが立った。
「身体を拭いて寝るところだ。さっさと帰れ」
 これが琉璃の湯浴みなのか。そう思うと、つい、手を出したくなる。
 囲炉裏を回ってそばへ行こうとすると、琉璃がじろりと睨みつけてきた。
「お前は本当に数寄者だな」
「嫌か」
「嫌だ」
 彼の痩せた頬へ、そろりと指を伸ばす。暖かくも冷たくもない、乾いた肌だ。
 それでも、なぜだか触れたくなる。
「――直ぐ止めろよ、寝たい」
 琉璃はそう言って、投げやりに羽織を脱いだ。


 暗がりで、後ろから彼を抱いた。
 膝の上に乗せて揺すると、くぐもった声が漏れた。
 細い背中に浮いた骨に舌を這わすと、かすかに震えた。
「ん…、ァ…」
 歯を立ててみると、鼻から漏らすような息を吐いた。顔が見られないのに、どんな表情をしているのか、わかる。眉根を寄せて少しだけ苦しそうに、口を開いて喘ぐのだ。
 腰を抱いて支えながら、琉璃に尋ねる。
「なあ琉璃よ、お前は人の心を操る薬も作れるのか」
 琉璃は、肌を震わせながら、ちらりと振り返った。鼠色の髪の隙間から覗く目が、艶っぽく光っていた。
「ああ。……誰に聞いた、そんな話」
「町の薬師のお婆だ。お前のことを知っていた」
 琉璃は目を伏せる。
「おれは知らんな」
「そうか。……今、その薬を使っているか?」
 薄い腹をまさぐる。すぐに内臓を掴めてしまいそうな、肉のない身体。
「意味がわからん」
 腹の皮をつねると、うめいた。うなじに唇を寄せて、吸う。
「お前に会うと、無性にこうしたくなるんだ。惚れ薬でも焚いてはいまいな」
 身体の奥を突きながら囁く。どうしていつも抱いてみたくなるのか、不思議だった。しかし琉璃は、喘ぎながらも、一笑に伏した。
「酔狂な真似はせん」
 それに、自分も笑って返す。
「そう思う」
 使う意味もなければ、そもそも作る理由もなかろう。
 琉璃の背を撫で、時折吸いながら、生白い首筋を舐める。治りかけた、山犬の噛み跡が、うっすらと目に入る。
「獣はこんな光景なのか」
 この男を四足にさせて、覆い被さって貪るのは、どんな心地なのだろうか。身体の尺が足りなくて、惜しいばかりだ。
 長い髪を掻き分けると、耳が見えた。それへ触れようとして、小さな黒い点を見つける。
「琉璃、お前は耳の後ろにほくろがあるな」
 暗がりの中で、そんなものを見つけて喜んでいると、琉璃が呆れたように言う。
「お前にもあるぞ、知らないか」
 驚いて、思わず自分の耳に手を当てる。
「お前の肩で寝たときに、見えたぞ」
 ぼそりと言われて、寝たままの琉璃を抱いたことを思い出す。
「今日は寝てしまわないんだな」
「こんな体勢ではな」
 そう返されれば、くすくす笑うしかない。事を終えるために、彼の身体を掴んで、穿つことに集中した。


 ひとしきり楽しむと、琉璃はむすりと黙って、熱い湯に浸した布で自分の身体を清め始める。
 こちらをちらりとも見ない横顔が、早く帰れと訴えているのを痛いほど感じる。
 自分も着物を調えながら、琉璃の身支度を見守る。彼が横になるのを見届けたら、帰ろうと思った。
「……琉璃、お前はどうして里に降りてこない。一人では辛いこともあるだろう」
 改めて聞いてみると、不思議だった。
 人が嫌いで、一人が良いと言って、山で暮らすこの男も、そろそろいい歳のはずだ。
 琉璃は、こちらに目だけ向けてきた。
「お前、おれのことを知らんのか」
 ぼそりと問われた。名も身体も知っている相手に、おかしなことを聞くものだ。
「よく知っているはずだ。俺が何を知らないんだ」
 問い返すと、莫迦にしたような笑いが返ってきた。
「はは、村の連中は隅から隅までおれを知っていると思っていたが、違うたか」
 琉璃の目が、暗がりの中できらきらと光る。
 きれいでも、美しくもなかった。
 恐ろしい、蛇のような光だった。
「――おれは人を殺した。人の中では生きられんさ」
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