ツチノコ

松山葉

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3ー過去のトラウマ

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駅のホームに入ると、ひんやりした空気に包まれた。
足早に歩くスーツ姿のサラリーマンや制服を着崩した女子高生、くたびれたジャージ姿のおじさん……駅では皆が、自分の目的地へと忙しく行きかっている。

浅野は白線の内側に立ち、自分の電車が来るのを待った。
電車が通過するたびに、列車に押し出された空気が音を立ててホームに流れて入ってくる。
その風で乱れた髪をサッと、かきあげる。
気が付くと、さっきの汗もすっかり乾いてしまった。

大学生になってから、一人で電車に乗るのは今日が初めてだった。
ずっと意地でも自転車やバスを使ったり、時間をかけて歩いたり。どうしても電車に乗る時は、無理にでも理由をつけて、誰かと一緒に乗る。

浅野は一人で電車に乗れなくなった。
あの日から、ちょうど一年が経とうとしていた。

今も、こうして一人で立っていると、あの時の鮮明な映像が目の前を覆うように、黒く滲み始める。
ただ怖い。声も出ない。息を吸うのも苦しいほど、強張る身体。
どこにも逃げ場のない空間。

浅野を過去の恐怖に引き込むのは一瞬で、あまりにも簡単だった。

ハッとして、それらを振り払うようにイヤホンで耳をふさぐ。
新しい空気を胸いっぱいに吸い込んで、深呼吸をした。
ゆっくりと現実の自分へと感覚を取り戻すそうと、気持ちを落ち着かせる。

同じ頃――
片瀬が駅の改札を通り、足を速めていた。
どうしても森岡の言葉を無視できなかったせいだ。

もし、あの事がトラウマになっているなら……

そう考えると、胸が締め付けられるようにザワついた。
もしかすると今日、浅野を見た瞬間からあったのかもしれない。

それは、心配なのか?苛立ちか?それとも違う他の何か?
焦る気持ちが不快で奇妙な感情をさらに駆り立てる。
人を追い越して階段を駆け上がり、ホームに入ると、ちょうど電車が止まっていた。



一年前の初夏――
早朝の優しい日差しとは反対に、通勤ラッシュの車内は身動きも取れないほど息苦しく混み合っていた。

夏用の制服を着た高校生の浅野も、その中で息を殺しながら立っている。
正直、SNSでしか聞いたことがなかった“痴漢”のはなし。

もし自分がそこに居合わせたなら、どうするだろうか?
そんな想像をした時、浅野は自分の強い正義をもって、悪を公にするだろうと考えていた。
まさか、自分にそんな日が来ることも知らずに。

早朝の通勤ラッシュだろうと関係なく、それは起こった。

誰もがスマホ画面に夢中で、浅野の切実な視線に気づくことはなかった。
どうしたらいいのかわからず頭が真っ白になる。
まるで自分が透明人間にでもなったように、世界から切り離されているような感覚だ。

それでも――

絶望と恐怖で怯えていた時、誰かが浅野の腕を掴んだ。

今も、はっきり覚えている。
浅野の腕をひいて、その恐怖の闇からひっぱり出してくれた人がいたことを。
それは悪い記憶に引きずられて、忘れていた記憶だった。
そして、それが一年前の片瀬だったことは知るよしもなかった。



今の自分は、もうあの時の幼いだけの高校生ではない。
冷静に対処する方法を知っているはず。

浅野は空いている車両を探して端の方まで歩いてきたが、ほとんどの席は埋まっていた。
仕方なく、比較的に人がいない車両に乗り込むと、ドアから離れた壁に背を付けるように立った。

はぁ……。
ようやく安心できたように、体の力がゆっくりと抜けて楽になる。
だけど、その安心も束の間
自分の目を疑うような光景を目に飛び込んできた。

ホームのアナウンスが鳴り響く中、さっき別れたはずの片瀬を見つけた。人波をかきわけながら浅野に向かって真っすぐ走って来る。
「!」
こんなに人がいる中で、浅野の目には片瀬だけが鮮明に映った。

その表情は必死なのに、考えることは相変わらず「ドラマでも撮ってるみたい」ということだった。



走り出した電車の中は静寂に包まれ、窓ガラスに写るのは後悔で押しつぶされそうな情けない自分だった。

片瀬は、自分がどんな理由を付ければいいか、考える暇もなかった。
あの大勢の中から浅野を見つけられる保証もなかった。
明らかに気まずそうに、それでも笑顔で話題を振ってくる浅野の姿が、余計に胸に刺さる。

「……」
「……」

浅野はさっきから、自分が何を話しているのかよく分からない。口が動くままに話し続けていた。

森岡先輩は、あのまま無事にタクシーで帰ったそうが、
この人は一体……。
頭の中はプチパニックなうえに、片瀬は無言だった。
自分が話すのをやめると、この空気の重圧に負けて状況がもっと悪くなるように思えた。

それでも片瀬は、曖昧なカラ返事を繰り返すだけ。
話す内容も学部のことや森岡の愚痴くらいしかなく、早々に話題が底をつくと浅野も口を閉ざすしかなかった。
なんでこんなに気を使ってるのか……。妙な緊張感が張り詰めている。

しばらくして、ようやく片瀬が口を開いた。
「大学の先輩として、酔ってる後輩をほっとけなかった」というのが、片瀬の言い分だった。
それからは、浅野も無理に話すのをやめた。

笑顔もないのに、さっきの必死な表情や話す言葉から誠実さを感じるのは、片瀬の言動がどれも自然体だからだろうか?
片瀬は、思っているよりも悪い人ではないのかもしれない。

それから浅野は、その澄んだ瞳の奥のもっと深くにある本性を探そうとするように、ただ静かに片瀬の横顔を見つめた。

この数時間で、片瀬の印象は“伝説のイケメン”というより、得体の知れない変人に変わっていた。

規則正しい電車の音が、夜の街に足跡をつけるように響いている。
その音を聞きながら二人は、さっきよりもずっと穏やかな沈黙に包まれていた。
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