7 / 48
第一部
一章(4)
しおりを挟む
時は少し遡り。
ルークが部屋を出て行くのを見て、クラリスはほっと息をついた。そんな様子がどこかおかしかったのか、クスクスと、隣に控えていたエッタが笑う。
「お疲れ様でした、クラリス様」
ありがとう、という言葉の代わりにクラリスは微笑みながら頷き、そしてソファーに深くもたれかかる。だらしない、という自覚はあったが、それだけ疲れていたのだ。元来あまり人前に出ない性格で、人見知りでもあるから、本当に。
そっと瞼を下ろせば、暗闇の中、新しい教育係の紫紺の双眸がこちらを見つめていた。穏やかで、凪いだ湖面のような、閑寂さをたたえた瞳。そこには、いつも向けられていた憐れみや蔑みの色はなくて。
ルーク・アドラン。そっと、口の中で呟いた。もちろん音を発することはないけれど、なんとなくそうしたくて。ゆるりと口元を緩めた。
どうしてだか、彼のことを考えると、言い知れない感情が湧き上がってくる。その感情についてはっきりとはわからないけれど……それほど嫌というわけではなかった。むしろどこか心地よいような、不思議な感情。
目を開き、エッタに視線で合図を送った。何年もともにいる彼女はすぐにその意図に気づき、手のひらを上に向けて差し出してくる。
物心ついたときから、クラリスの会話の手段は相手の手のひらに字を書くことだった。一見簡単そうに見えるが、これが意外と難しい。指の動きと手のひらの感触だけで文字を判別しなければならないし、しかも手のひらにはスペースが限られるため、基本一文字一文字しか書くことができなかった。ゆえに文字を並べて単語を作る過程で、どうしても単語と単語の切れ目がわかりづらくなってしまう。クラリスはなるべく単語の切れ目は文字の切れ目よりも長く指を宙に浮かしているつもりだったが、それはあまり伝わらないらしく、結局クラリスが望むレベルになるほど習得できているのはエッタくらいだった。
丁寧に、だけどなるべく素早く文字を書いていく。
――あの人は、きちんと来てくれるかしら?
「そうですね、おそらく。私自身彼のことを知らないので、断言はできませんが……他の教育係とは違うと思いましたから」
そう言って、エッタは笑う。
クラリスは王女だ。そのためこれまでも、何人もの教育係をつけられたことがある。しかしその誰も、教育係の任を受け、数日通ったあと、クラリスの元へはやって来なくなった。
優秀じゃないから。教えても出世に繋がるとは思えないから、来なくなったのだろう。見捨てたのだろう。
そっと目を伏せた。――そうだと良いわね。そう、エッタの手のひらに書く。
はぁー、と深い息を吐いた。教育係が来なくなるたびに、クラリスの心に傷がつけられる。無力感に苛まれる。
(今度こそ……何とかやっていけたら……)
そうなると良い。いやきっとそうなる、と、心の中で呟く。
あの、まっすぐにこちらを見つめてきた紫紺の瞳を、信じたかった。
それでもなかなか不安が晴れずにいると、「大丈夫ですよ」とエッタが言った。
「きっと、きっと大丈夫です。だってクラリス様は精一杯努力してきたんですもの」
ありがとう、と言う代わりにわずかに口角を持ち上げて頷く。ずっとともにいた彼女に言われると、不思議とそう思えてきた。
――けれどそうはいかなくて。
翌日、朝になってもクラリスの自室にやって来ないルークに不安を覚えていると、昼ごろになってやっと彼から書簡が届いた。エッタが青白い顔でそれを差し出してくる。毒物や危険な物がないか確認するために、封はすでに開けられていた。おそらく中身も見られていて、彼女はそれを把握しているのだろう。
もしかして……という嫌な予感を感じた。わずかに震える指先で、その手紙を受け取る。カサリ、と音が鳴った。
そうっと開けば、そこには調べたいことがあるのでしばらく休む、ということが、貴族らしい修飾を交えて書かれていた。思わず落胆の息をつく。
それは、教育係が来なくなるたびに手紙で言われていた常套句だった。皆この手紙のあと来なくなり、いつの間にか教育係から下ろされているのだ。ということは、彼は昨日の対面だけでクラリスを見限り、教育係をしないことにしたのだろう。
はぁ、と、自然と重たいため息がこぼれた。今まで教育係となって、けれど結局辞めていった人たちだって、一日も教えることなく去っていったことはなかった。それだけに今回こんなふうに辞められてしまい、ひどく悲しく、つらくなる。目頭が熱くなり、じんわりと涙が滲んだ。
「クラリス様……」と、エッタが悲痛な声で呼びかけてきた。心配をかけまいと無理に笑顔を浮かべたけれど、どうも歪なような気がする。自分の顔が見れないから、わからないけれど。
エッタがより顔を歪めた。それを見て、作り笑いを浮かべながらいつものように手を出させる。
――大丈夫よ。
そう、文字で書いたけれど。
それはどこか、自分に言い聞かせているような気がしてならなかった。
――わたしは大丈夫。ちょっと巡り合わせが悪かっただけよ。きっとそう。
どんどん言葉を重ねていくけれど、エッタの表情は変わらなかった。むしろそうするたびに泣きそうに歪んでいくような。
なんとかしようとひたすら文字を手のひらに書いていたけれど、やがて「……クラリス様」と呼ばれ、そっと、文字を書いていた右手を取られた。柔らかな温もりがじんわりと伝わってくる。
「取り繕わなくたって、大丈夫です。本当はどう思っているのですか?」
その言葉に、どっと涙が溢れてきて。
――わたしって、そんなに出来損ないなのかな。
エッタが息を呑む音が聞こえた……気がした。周囲を気にする余裕などなかったから、わからないけど。クラリスはただひたすら、差し出された手のひらに感情を書き連ねる。
――わたしは頑張ってるつもりなのに、皆離れていってしまう。わたしが父さまの娘なのに、エリオットが次期国王だって言われてる。どうして、どうしてわたしは話せないのよ! 話せさえすれば、こんな〝欠陥品〟の体に生まれなければ、わたしは胸を張って父さまと母さまの娘だって言えるのに!
涙で視界が濡れていて、もうほとんど何も判別できなかった。それくらい感情的になって、泣いてしまっていた。
クラリスは指を手のひらから離すと、その手でそばにあったクッションを力強く抱きしめる。悲しくて、つらくて、悔しくて、恨めしくて。ただひたすら、涙をこぼすことしかできなかった。
音の伴わない啼泣だった。
ルークが部屋を出て行くのを見て、クラリスはほっと息をついた。そんな様子がどこかおかしかったのか、クスクスと、隣に控えていたエッタが笑う。
「お疲れ様でした、クラリス様」
ありがとう、という言葉の代わりにクラリスは微笑みながら頷き、そしてソファーに深くもたれかかる。だらしない、という自覚はあったが、それだけ疲れていたのだ。元来あまり人前に出ない性格で、人見知りでもあるから、本当に。
そっと瞼を下ろせば、暗闇の中、新しい教育係の紫紺の双眸がこちらを見つめていた。穏やかで、凪いだ湖面のような、閑寂さをたたえた瞳。そこには、いつも向けられていた憐れみや蔑みの色はなくて。
ルーク・アドラン。そっと、口の中で呟いた。もちろん音を発することはないけれど、なんとなくそうしたくて。ゆるりと口元を緩めた。
どうしてだか、彼のことを考えると、言い知れない感情が湧き上がってくる。その感情についてはっきりとはわからないけれど……それほど嫌というわけではなかった。むしろどこか心地よいような、不思議な感情。
目を開き、エッタに視線で合図を送った。何年もともにいる彼女はすぐにその意図に気づき、手のひらを上に向けて差し出してくる。
物心ついたときから、クラリスの会話の手段は相手の手のひらに字を書くことだった。一見簡単そうに見えるが、これが意外と難しい。指の動きと手のひらの感触だけで文字を判別しなければならないし、しかも手のひらにはスペースが限られるため、基本一文字一文字しか書くことができなかった。ゆえに文字を並べて単語を作る過程で、どうしても単語と単語の切れ目がわかりづらくなってしまう。クラリスはなるべく単語の切れ目は文字の切れ目よりも長く指を宙に浮かしているつもりだったが、それはあまり伝わらないらしく、結局クラリスが望むレベルになるほど習得できているのはエッタくらいだった。
丁寧に、だけどなるべく素早く文字を書いていく。
――あの人は、きちんと来てくれるかしら?
「そうですね、おそらく。私自身彼のことを知らないので、断言はできませんが……他の教育係とは違うと思いましたから」
そう言って、エッタは笑う。
クラリスは王女だ。そのためこれまでも、何人もの教育係をつけられたことがある。しかしその誰も、教育係の任を受け、数日通ったあと、クラリスの元へはやって来なくなった。
優秀じゃないから。教えても出世に繋がるとは思えないから、来なくなったのだろう。見捨てたのだろう。
そっと目を伏せた。――そうだと良いわね。そう、エッタの手のひらに書く。
はぁー、と深い息を吐いた。教育係が来なくなるたびに、クラリスの心に傷がつけられる。無力感に苛まれる。
(今度こそ……何とかやっていけたら……)
そうなると良い。いやきっとそうなる、と、心の中で呟く。
あの、まっすぐにこちらを見つめてきた紫紺の瞳を、信じたかった。
それでもなかなか不安が晴れずにいると、「大丈夫ですよ」とエッタが言った。
「きっと、きっと大丈夫です。だってクラリス様は精一杯努力してきたんですもの」
ありがとう、と言う代わりにわずかに口角を持ち上げて頷く。ずっとともにいた彼女に言われると、不思議とそう思えてきた。
――けれどそうはいかなくて。
翌日、朝になってもクラリスの自室にやって来ないルークに不安を覚えていると、昼ごろになってやっと彼から書簡が届いた。エッタが青白い顔でそれを差し出してくる。毒物や危険な物がないか確認するために、封はすでに開けられていた。おそらく中身も見られていて、彼女はそれを把握しているのだろう。
もしかして……という嫌な予感を感じた。わずかに震える指先で、その手紙を受け取る。カサリ、と音が鳴った。
そうっと開けば、そこには調べたいことがあるのでしばらく休む、ということが、貴族らしい修飾を交えて書かれていた。思わず落胆の息をつく。
それは、教育係が来なくなるたびに手紙で言われていた常套句だった。皆この手紙のあと来なくなり、いつの間にか教育係から下ろされているのだ。ということは、彼は昨日の対面だけでクラリスを見限り、教育係をしないことにしたのだろう。
はぁ、と、自然と重たいため息がこぼれた。今まで教育係となって、けれど結局辞めていった人たちだって、一日も教えることなく去っていったことはなかった。それだけに今回こんなふうに辞められてしまい、ひどく悲しく、つらくなる。目頭が熱くなり、じんわりと涙が滲んだ。
「クラリス様……」と、エッタが悲痛な声で呼びかけてきた。心配をかけまいと無理に笑顔を浮かべたけれど、どうも歪なような気がする。自分の顔が見れないから、わからないけれど。
エッタがより顔を歪めた。それを見て、作り笑いを浮かべながらいつものように手を出させる。
――大丈夫よ。
そう、文字で書いたけれど。
それはどこか、自分に言い聞かせているような気がしてならなかった。
――わたしは大丈夫。ちょっと巡り合わせが悪かっただけよ。きっとそう。
どんどん言葉を重ねていくけれど、エッタの表情は変わらなかった。むしろそうするたびに泣きそうに歪んでいくような。
なんとかしようとひたすら文字を手のひらに書いていたけれど、やがて「……クラリス様」と呼ばれ、そっと、文字を書いていた右手を取られた。柔らかな温もりがじんわりと伝わってくる。
「取り繕わなくたって、大丈夫です。本当はどう思っているのですか?」
その言葉に、どっと涙が溢れてきて。
――わたしって、そんなに出来損ないなのかな。
エッタが息を呑む音が聞こえた……気がした。周囲を気にする余裕などなかったから、わからないけど。クラリスはただひたすら、差し出された手のひらに感情を書き連ねる。
――わたしは頑張ってるつもりなのに、皆離れていってしまう。わたしが父さまの娘なのに、エリオットが次期国王だって言われてる。どうして、どうしてわたしは話せないのよ! 話せさえすれば、こんな〝欠陥品〟の体に生まれなければ、わたしは胸を張って父さまと母さまの娘だって言えるのに!
涙で視界が濡れていて、もうほとんど何も判別できなかった。それくらい感情的になって、泣いてしまっていた。
クラリスは指を手のひらから離すと、その手でそばにあったクッションを力強く抱きしめる。悲しくて、つらくて、悔しくて、恨めしくて。ただひたすら、涙をこぼすことしかできなかった。
音の伴わない啼泣だった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
年増令嬢と記憶喪失
くきの助
恋愛
「お前みたいな年増に迫られても気持ち悪いだけなんだよ!」
そう言って思い切りローズを突き飛ばしてきたのは今日夫となったばかりのエリックである。
ちなみにベッドに座っていただけで迫ってはいない。
「吐き気がする!」と言いながら自室の扉を音を立てて開けて出ていった。
年増か……仕方がない……。
なぜなら彼は5才も年下。加えて付き合いの長い年下の恋人がいるのだから。
次の日事故で頭を強く打ち記憶が混濁したのを記憶喪失と間違われた。
なんとか誤解と言おうとするも、今までとは違う彼の態度になかなか言い出せず……
ベルガー子爵領結婚騒動記
文月黒
恋愛
その日、王都より遠く離れたベルガー子爵領は、俄かに浮き足立っていた。
何せ、ついに領民一同が待ち望んでいたベルガー子爵の結婚相手がやって来るのだ。
ちょっとだけ(当領比)特殊な領地の強面領主に嫁いで来たのは、王都の男爵家の末娘・マリア。
だが、花嫁は領主であるベルンハルトの顔を見るなり泣き出してしまった。
最悪な顔合わせをしてしまったベルンハルトとマリア。
慌てるベルンハルトの腹心の部下ヴォルフとマリアの侍女ローザ。
果たしてベルガー子爵領で彼らは幸せを掴めるのか。
ハピエン確定のサクッと読めるギャグ寄り恋愛ものです。
今宵、薔薇の園で
天海月
恋愛
早世した母の代わりに妹たちの世話に励み、婚期を逃しかけていた伯爵家の長女・シャーロットは、これが最後のチャンスだと思い、唐突に持ち込まれた気の進まない婚約話を承諾する。
しかし、一か月も経たないうちに、その話は先方からの一方的な申し出によって破談になってしまう。
彼女は藁にもすがる思いで、幼馴染の公爵アルバート・グレアムに相談を持ち掛けるが、新たな婚約者候補として紹介されたのは彼の弟のキースだった。
キースは長年、シャーロットに思いを寄せていたが、遠慮して距離を縮めることが出来ないでいた。
そんな弟を見かねた兄が一計を図ったのだった。
彼女はキースのことを弟のようにしか思っていなかったが、次第に彼の情熱に絆されていく・・・。
完結 愚王の側妃として嫁ぐはずの姉が逃げました
らむ
恋愛
とある国に食欲に色欲に娯楽に遊び呆け果てには金にもがめついと噂の、見た目も醜い王がいる。
そんな愚王の側妃として嫁ぐのは姉のはずだったのに、失踪したために代わりに嫁ぐことになった妹の私。
しかしいざ対面してみると、なんだか噂とは違うような…
完結決定済み
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
人狼な幼妻は夫が変態で困り果てている
井中かわず
恋愛
古い魔法契約によって強制的に結ばれたマリアとシュヤンの14歳年の離れた夫婦。それでも、シュヤンはマリアを愛していた。
それはもう深く愛していた。
変質的、偏執的、なんとも形容しがたいほどの狂気の愛情を注ぐシュヤン。異常さを感じながらも、なんだかんだでシュヤンが好きなマリア。
これもひとつの夫婦愛の形…なのかもしれない。
全3章、1日1章更新、完結済
※特に物語と言う物語はありません
※オチもありません
※ただひたすら時系列に沿って変態したりイチャイチャしたりする話が続きます。
※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる