声なし王女と教育係

白藤結

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第一部

一章(4)

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 時は少し遡り。
 ルークが部屋を出て行くのを見て、クラリスはほっと息をついた。そんな様子がどこかおかしかったのか、クスクスと、隣に控えていたエッタが笑う。

「お疲れ様でした、クラリス様」

 ありがとう、という言葉の代わりにクラリスは微笑みながら頷き、そしてソファーに深くもたれかかる。だらしない、という自覚はあったが、それだけ疲れていたのだ。元来あまり人前に出ない性格で、人見知りでもあるから、本当に。
 そっと瞼を下ろせば、暗闇の中、新しい教育係の紫紺の双眸がこちらを見つめていた。穏やかで、凪いだ湖面のような、閑寂さをたたえた瞳。そこには、いつも向けられていた憐れみや蔑みの色はなくて。

 ルーク・アドラン。そっと、口の中で呟いた。もちろん音を発することはないけれど、なんとなくそうしたくて。ゆるりと口元を緩めた。
 どうしてだか、彼のことを考えると、言い知れない感情が湧き上がってくる。その感情についてはっきりとはわからないけれど……それほど嫌というわけではなかった。むしろどこか心地よいような、不思議な感情。

 目を開き、エッタに視線で合図を送った。何年もともにいる彼女はすぐにその意図に気づき、手のひらを上に向けて差し出してくる。

 物心ついたときから、クラリスの会話の手段は相手の手のひらに字を書くことだった。一見簡単そうに見えるが、これが意外と難しい。指の動きと手のひらの感触だけで文字を判別しなければならないし、しかも手のひらにはスペースが限られるため、基本一文字一文字しか書くことができなかった。ゆえに文字を並べて単語を作る過程で、どうしても単語と単語の切れ目がわかりづらくなってしまう。クラリスはなるべく単語の切れ目は文字の切れ目よりも長く指を宙に浮かしているつもりだったが、それはあまり伝わらないらしく、結局クラリスが望むレベルになるほど習得できているのはエッタくらいだった。

 丁寧に、だけどなるべく素早く文字を書いていく。

 ――あの人は、きちんと来てくれるかしら?
「そうですね、おそらく。私自身彼のことを知らないので、断言はできませんが……他の教育係とは違うと思いましたから」

 そう言って、エッタは笑う。
 クラリスは王女だ。そのためこれまでも、何人もの教育係をつけられたことがある。しかしその誰も、教育係の任を受け、数日通ったあと、クラリスの元へはやって来なくなった。
 優秀じゃないから。教えても出世に繋がるとは思えないから、来なくなったのだろう。見捨てたのだろう。

 そっと目を伏せた。――そうだと良いわね。そう、エッタの手のひらに書く。
 はぁー、と深い息を吐いた。教育係が来なくなるたびに、クラリスの心に傷がつけられる。無力感に苛まれる。

(今度こそ……何とかやっていけたら……)

 そうなると良い。いやきっとそうなる、と、心の中で呟く。
 あの、まっすぐにこちらを見つめてきた紫紺の瞳を、信じたかった。
 それでもなかなか不安が晴れずにいると、「大丈夫ですよ」とエッタが言った。

「きっと、きっと大丈夫です。だってクラリス様は精一杯努力してきたんですもの」

 ありがとう、と言う代わりにわずかに口角を持ち上げて頷く。ずっとともにいた彼女に言われると、不思議とそう思えてきた。



 ――けれどそうはいかなくて。
 翌日、朝になってもクラリスの自室にやって来ないルークに不安を覚えていると、昼ごろになってやっと彼から書簡が届いた。エッタが青白い顔でそれを差し出してくる。毒物や危険な物がないか確認するために、封はすでに開けられていた。おそらく中身も見られていて、彼女はそれを把握しているのだろう。
 もしかして……という嫌な予感を感じた。わずかに震える指先で、その手紙を受け取る。カサリ、と音が鳴った。

 そうっと開けば、そこには調べたいことがあるのでしばらく休む、ということが、貴族らしい修飾を交えて書かれていた。思わず落胆の息をつく。
 それは、教育係が来なくなるたびに手紙で言われていた常套句だった。皆この手紙のあと来なくなり、いつの間にか教育係から下ろされているのだ。ということは、彼は昨日の対面だけでクラリスを見限り、教育係をしないことにしたのだろう。

 はぁ、と、自然と重たいため息がこぼれた。今まで教育係となって、けれど結局辞めていった人たちだって、一日も教えることなく去っていったことはなかった。それだけに今回こんなふうに辞められてしまい、ひどく悲しく、つらくなる。目頭が熱くなり、じんわりと涙が滲んだ。

「クラリス様……」と、エッタが悲痛な声で呼びかけてきた。心配をかけまいと無理に笑顔を浮かべたけれど、どうも歪なような気がする。自分の顔が見れないから、わからないけれど。
 エッタがより顔を歪めた。それを見て、作り笑いを浮かべながらいつものように手を出させる。

 ――大丈夫よ。

 そう、文字で書いたけれど。
 それはどこか、自分に言い聞かせているような気がしてならなかった。

 ――わたしは大丈夫。ちょっと巡り合わせが悪かっただけよ。きっとそう。

 どんどん言葉を重ねていくけれど、エッタの表情は変わらなかった。むしろそうするたびに泣きそうに歪んでいくような。
 なんとかしようとひたすら文字を手のひらに書いていたけれど、やがて「……クラリス様」と呼ばれ、そっと、文字を書いていた右手を取られた。柔らかな温もりがじんわりと伝わってくる。

「取り繕わなくたって、大丈夫です。本当はどう思っているのですか?」

 その言葉に、どっと涙が溢れてきて。

 ――わたしって、そんなに出来損ないなのかな。

 エッタが息を呑む音が聞こえた……気がした。周囲を気にする余裕などなかったから、わからないけど。クラリスはただひたすら、差し出された手のひらに感情を書き連ねる。

 ――わたしは頑張ってるつもりなのに、皆離れていってしまう。わたしが父さまの娘なのに、エリオットが次期国王だって言われてる。どうして、どうしてわたしは話せないのよ! 話せさえすれば、こんな〝欠陥品〟の体に生まれなければ、わたしは胸を張って父さまと母さまの娘だって言えるのに!

 涙で視界が濡れていて、もうほとんど何も判別できなかった。それくらい感情的になって、泣いてしまっていた。
 クラリスは指を手のひらから離すと、その手でそばにあったクッションを力強く抱きしめる。悲しくて、つらくて、悔しくて、恨めしくて。ただひたすら、涙をこぼすことしかできなかった。
 音の伴わない啼泣ていきゅうだった。
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