悪役令嬢は死にたくないので、魔王の婚約者になりました

第1章「婚約破棄は突然に」

第2話：去り際の笑み

「――レティシア様！」

　馬車へと向かう途中、背後から叫ぶ声が届く。振り返ると、見慣れた侍女の一人が小走りで駆け寄ってきた。

「どうして何も仰らなかったのですか？　あんな理不尽、黙って受け入れる必要など――！」

　涙を浮かべるその顔を見て、レティシアはほんの少しだけ微笑んだ。

「何も言ったところで、今夜の舞台は変わらなかったわ。私が悪役でなければ、彼らの英雄譚は成立しないもの」

　王太子と“聖女”による新たな時代の幕開け。
　それは、善と悪の構図がはっきりしていなければ、民衆の心を掴めない。
　平民から聖女が現れたという劇的な展開を、人々は喝采をもって迎えたがっている。
　レティシアは、ただその役を“割り当てられた”に過ぎないのだ。

　彼女は馬車の扉に手をかけながら、静かに告げる。

「……これで私も、ようやく“自由”になれたのよ」

「レティシア様……？」

　侍女の不安げな声に、レティシアはかぶりを振った。
　もう、ここに未練はない。
　この腐りきった王国の舞台の上では、真実も誇りも意味を持たない。

　だが、舞台の外――“世界の果て”には、まだ誰も手をつけていない“希望”が眠っている。

「ねえ。クルーゼ……魔王陛下」

　馬車の揺れの中、レティシアはつぶやいた。

「貴方、今もあの谷にいるかしら？　交渉の続きを……今度は、私の方から仕掛けてみたいの」

　彼女の記憶には、一度だけ出会った“魔王”の姿があった。
　他者を値踏みするような鋭い金の瞳。だがその奥には、どこかで誰かを試すような、人間以上に理知的な光があった。

（貴方ならきっと、この茶番を“つまらない”と思うでしょう？）

　ならば手を組もう。
　神の使いと称する偽りの“聖女”に、真の地獄を教えてあげるために――。

　馬車のカーテンの向こうに見える星空は、あまりにも冷たく、そして澄んでいた。