61 / 64
61 三国同盟から三すくみへ
しおりを挟む
永禄四年(1561年)二月
年を越し、三河は何とか落ち着いている。
年末年始を安濃津で家族と過ごし、短い休憩を終えた源四郎たちは、船で三河へと戻って来ていた。
黒鍬衆や源四郎たちが、人外の膂力と鉄が豊富に使われた道具で、急ピッチで築城、城下町の建設、街道整備、田畑の開墾を行なっていた。
そこに、三河の領民たちが賦役で参加している。
戦さ続きで貧しく、このままでは飢えて死ぬ者が多く出ただろう三河の領民たちにとって、この賦役は天の救いだった。
税としての賦役ではなく、食料と僅かな銭まで支給されるとあって、三河の領民たちは喜んで参加していた。
また、暴走し兵を挙げた旧松平宗家に連なる者や、今川憎しで北畠家に助力を要請し、素気無く断られた挙句、暴発して滅亡した吉良家が、三河の地から一掃された事により、多少の混乱はあるが、概ね三河の統治は順調だった。
順調じゃないのが、織田家を攻め滅ぼそうと侵攻したものの、当主である今川義元は命からがら逃げるのに成功するも、右手を切り落とされる重傷を負い、武勇で名を馳せた譜代の家臣が幾人も討ち死にしている。
討ち死にしたのは譜代の家臣だけではない。
遠江の井伊家や三河の松平宗家も当主を失っている。
しかも松平宗家に至っては、三河への復帰どころか、今では三河は西も東も北畠家の領地となっている。
もっとも、松平宗家を継ぐ者はなく、三河松平宗家は断絶しているので、北畠家がなくとも復帰どころの話ではないのだが。
三河が対尾張との緩衝地帯、もしくは盾として機能していたものが無くなり、今はそれが遠江と移った。
もともと遠江の国人や豪族たち全てが、今川家に忠誠を誓っているのではなく、侵略され仕方なく従っている者も多い。
特に今川義元は、譜代の家臣と臣従してきた外様の家臣の扱いを明確に差別する事で、譜代の家臣たちの結束を固めてきた。
戦さ場で、最前線に立つのは武士の誉れと言えるだろうが、今回の桶狭間での戦さでは、流石に松平や井伊の損害が大き過ぎた。
まだ重臣と後継のある井伊家はましだろうが、徳川家康になる筈だった当主や主な家臣を亡くした松平宗家は、跡形も無く滅んだのだから。
◇
ここ、駿河の今川館では、右腕を失くした今川義元が、漸く床払いしたところだった。
ただ、圧倒的優位な兵数をもって侵攻したにも関わらず、前線から本陣まで散々に打ち破られ、おまけに義元自身も右腕を失う重傷を負い、命からがら駿河に逃げ落ちた影響は大きく、嘗ての東海一の弓取りと呼ばれた男の姿は、既に其処には無かった。
「父上、お加減は如何ですか?」
「ふん、いい訳ないわ」
随分と痩せた父を見舞ったのは、嫡男の彦五郎(今川氏真)だった。
父を気遣う彦五郎に、不機嫌そうな義元。
義元の頭の中では、どうしてこうなったと、桶狭間から戻ってからずっとその事ばかりがあった。
(北畠家の介入を予見出来なかったのは、我の不覚としか言いようがない。事前に弾正忠と左少将との仲を見落とした)
義元は改めて嫡男の彦五郎を見る。
剣は、塚原卜伝に師事し、それなりの腕なのは知っている。
だが、戦国武将として見た彦五郎は、贔屓目に見ても優れた武将とは言えない。
それこそ、甲斐の武田信玄や三河を制した北畠義具と相対すれば、義元が居なければこの駿河は簡単に喰い尽くされるだろう。
武田・北条・今川と三国同盟を結んではいるが、関東で敵が多い北条は兎も角、武田信玄は同盟を破る事に、爪の先ほどの躊躇しないだろう。
その時、自分が居なければ、駿河は武田に蹂躙されるだろう。
(死ねん。まだ死ねん。今、我が死ねば、今川家が滅ぶやもしれん。……雪斎が生きておれば、この様な事もなかったであろうに……)
このままでは終われない……何処の馬の骨か分からぬ織田弾正忠家に、敗れたままでは名門今川家は終われないと義元は再起を誓う。その強過ぎる名門意識が今川家を没落へと向かわせていると気付かずに。
◇
甲斐 躑躅ヶ崎館
信濃国へと侵攻している武田信玄は、苦虫を噛み潰したような表情をして考え込んでいた。
「お館様、何をお考えですか?」
「……なに、駿河の海が欲しいと思ってな」
「海ですか……、欲しいですな」
「ああ、しかし今川義元がしぶとく生き残ったからな。あれの嫡男の氏真だけなら、迷わず駿河を攻めるのだがな」
「敗れたとはいえ、東海一の弓取りが護る駿河を攻め取るのは難しいでしょうな。我等には信濃や越後もあります故」
「動きたくとも動けんのが歯痒いな。しかし準備は始めるべきだろうな」
「暫し時は掛かるでしょうが、準備に取り掛かります」
会話からも分かるように、信玄や家臣の頭の中には、今川家との同盟などなんの枷にもなっていない。
史実では、今川義元が桶狭間で討たれた後、遠江や駿河を松平元康や武田信玄に侵略された今川家だが、松平家の滅亡と今川義元の生存により、武田・今川・北条の三国同盟が、互いに動きたくとも動けない三すくみの状態となっていた。
年を越し、三河は何とか落ち着いている。
年末年始を安濃津で家族と過ごし、短い休憩を終えた源四郎たちは、船で三河へと戻って来ていた。
黒鍬衆や源四郎たちが、人外の膂力と鉄が豊富に使われた道具で、急ピッチで築城、城下町の建設、街道整備、田畑の開墾を行なっていた。
そこに、三河の領民たちが賦役で参加している。
戦さ続きで貧しく、このままでは飢えて死ぬ者が多く出ただろう三河の領民たちにとって、この賦役は天の救いだった。
税としての賦役ではなく、食料と僅かな銭まで支給されるとあって、三河の領民たちは喜んで参加していた。
また、暴走し兵を挙げた旧松平宗家に連なる者や、今川憎しで北畠家に助力を要請し、素気無く断られた挙句、暴発して滅亡した吉良家が、三河の地から一掃された事により、多少の混乱はあるが、概ね三河の統治は順調だった。
順調じゃないのが、織田家を攻め滅ぼそうと侵攻したものの、当主である今川義元は命からがら逃げるのに成功するも、右手を切り落とされる重傷を負い、武勇で名を馳せた譜代の家臣が幾人も討ち死にしている。
討ち死にしたのは譜代の家臣だけではない。
遠江の井伊家や三河の松平宗家も当主を失っている。
しかも松平宗家に至っては、三河への復帰どころか、今では三河は西も東も北畠家の領地となっている。
もっとも、松平宗家を継ぐ者はなく、三河松平宗家は断絶しているので、北畠家がなくとも復帰どころの話ではないのだが。
三河が対尾張との緩衝地帯、もしくは盾として機能していたものが無くなり、今はそれが遠江と移った。
もともと遠江の国人や豪族たち全てが、今川家に忠誠を誓っているのではなく、侵略され仕方なく従っている者も多い。
特に今川義元は、譜代の家臣と臣従してきた外様の家臣の扱いを明確に差別する事で、譜代の家臣たちの結束を固めてきた。
戦さ場で、最前線に立つのは武士の誉れと言えるだろうが、今回の桶狭間での戦さでは、流石に松平や井伊の損害が大き過ぎた。
まだ重臣と後継のある井伊家はましだろうが、徳川家康になる筈だった当主や主な家臣を亡くした松平宗家は、跡形も無く滅んだのだから。
◇
ここ、駿河の今川館では、右腕を失くした今川義元が、漸く床払いしたところだった。
ただ、圧倒的優位な兵数をもって侵攻したにも関わらず、前線から本陣まで散々に打ち破られ、おまけに義元自身も右腕を失う重傷を負い、命からがら駿河に逃げ落ちた影響は大きく、嘗ての東海一の弓取りと呼ばれた男の姿は、既に其処には無かった。
「父上、お加減は如何ですか?」
「ふん、いい訳ないわ」
随分と痩せた父を見舞ったのは、嫡男の彦五郎(今川氏真)だった。
父を気遣う彦五郎に、不機嫌そうな義元。
義元の頭の中では、どうしてこうなったと、桶狭間から戻ってからずっとその事ばかりがあった。
(北畠家の介入を予見出来なかったのは、我の不覚としか言いようがない。事前に弾正忠と左少将との仲を見落とした)
義元は改めて嫡男の彦五郎を見る。
剣は、塚原卜伝に師事し、それなりの腕なのは知っている。
だが、戦国武将として見た彦五郎は、贔屓目に見ても優れた武将とは言えない。
それこそ、甲斐の武田信玄や三河を制した北畠義具と相対すれば、義元が居なければこの駿河は簡単に喰い尽くされるだろう。
武田・北条・今川と三国同盟を結んではいるが、関東で敵が多い北条は兎も角、武田信玄は同盟を破る事に、爪の先ほどの躊躇しないだろう。
その時、自分が居なければ、駿河は武田に蹂躙されるだろう。
(死ねん。まだ死ねん。今、我が死ねば、今川家が滅ぶやもしれん。……雪斎が生きておれば、この様な事もなかったであろうに……)
このままでは終われない……何処の馬の骨か分からぬ織田弾正忠家に、敗れたままでは名門今川家は終われないと義元は再起を誓う。その強過ぎる名門意識が今川家を没落へと向かわせていると気付かずに。
◇
甲斐 躑躅ヶ崎館
信濃国へと侵攻している武田信玄は、苦虫を噛み潰したような表情をして考え込んでいた。
「お館様、何をお考えですか?」
「……なに、駿河の海が欲しいと思ってな」
「海ですか……、欲しいですな」
「ああ、しかし今川義元がしぶとく生き残ったからな。あれの嫡男の氏真だけなら、迷わず駿河を攻めるのだがな」
「敗れたとはいえ、東海一の弓取りが護る駿河を攻め取るのは難しいでしょうな。我等には信濃や越後もあります故」
「動きたくとも動けんのが歯痒いな。しかし準備は始めるべきだろうな」
「暫し時は掛かるでしょうが、準備に取り掛かります」
会話からも分かるように、信玄や家臣の頭の中には、今川家との同盟などなんの枷にもなっていない。
史実では、今川義元が桶狭間で討たれた後、遠江や駿河を松平元康や武田信玄に侵略された今川家だが、松平家の滅亡と今川義元の生存により、武田・今川・北条の三国同盟が、互いに動きたくとも動けない三すくみの状態となっていた。
応援ありがとうございます!
11
お気に入りに追加
1,319
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる