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第5話 魔物 ①
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──自身の足音すら聞こえない豪雨の中、その少女は路地裏を走っていた。
呼吸をするたびに冷たい雨が、風が口に入る。息を吸うことも吐くこともままならず、さながら溺れるような心地で女は足を動かした。全身はとうに濡れて冷え切り、身に纏う黒のセーラー服とスカートは、濡れてさらにその色味を濃くした。歯の根が合わず、指先が震える。しかしそれは、決して寒さだけのせいではなかった。
少女は、狐面の男に追われていた。
濃紺色の外套。傷のついた白の狐面。軍服を思わせる黒の装束。
闇の中に浮かぶ白い獣の顔。それを認識した途端、少女は逃げた。
勝てない、と一目で見て分かった。
走って逃げた。跳んで逃げた。這って逃げた。隠れて逃げた。
そのどれもが意味を持たなかった。
やがて、迷路のような路地裏に追い込まれ、少女はついに逃げ場のない袋小路へと追いやられた。跳躍し、建物の壁を蹴って逃げるにも、既に力が限界を迎えている。雨脚は未だ強く、ばたばた と地面をうつ水音が脳内に反射する様な気分だった。
「随分と縦横無尽に逃げたものだな。魔物」
「っ……!?」
少女は言葉もなく驚き、後ずさるが、背中には壁しかない。それを破壊する力も、もう無い。体力が無いのではない。彼女には、決定的に魔力が足りていなかった。彼女は激しく呼吸を繰り返しながら口を開いた。
「──ッ!……────!!」
それは、人の言葉ではなかった。
彼女は目を見開く。何故、喋れないのか。何故、言葉が出てこないのか。
……男は何故、私を「魔物」と呼んだ?
「貴様はもう手遅れだ。何の理由でそうなったかは知らんが、最近 魔術師になったばかりだろう? ……魔術師、魔物という言葉も知らんか。貴様からすれば、いきなり『身体能力が上がった』くらいの認識だったのだろう」
狐面の男は一歩、女に近づく。
女は一歩、後ずさる。男は面の裏から告げる。
「魔術師は己の内に潜む魔性を飼いならすため、何らかの方法で魔力を補給し続けなくてはならない。さもなくば、魔性は宿主の体を乗っ取り、作り変える。……師も仲間も持てなかったのは不運だったな」
男は一歩、また近づいた。
少女は怯え切った表情で男を見つめる。薄暗い闇の中、切れかけた電灯の明りが瞬き、逆光のように男の姿を黒く写した。女は悲鳴を……獣のような吠え声を上げる。それが、煌びやかな大通りを歩む只人達に聞こえることは無い。
「超能力者か、マンガの主人公にでもなったような気分だったろう。その力で何人殺した。虐げられていた友の復讐か。善いことだな。貴様がやれば獣害と変わらんし、その友は既に貴様の腹の中だが」
男は歩みを止めない。
少女は顔を手で覆い……指の隙間から瞳を金色に輝かせた。その口角は耳元まで上がり、頬が裂け、さながら狼のように鼻が、口が前に出る。
変わっていくのは顔の構造だけではなかった。紺色の布に覆われた華奢な脚が、腕が、発達途上の若い身体が、獲物を狩り食らうための「獣」の姿へと変わって……否、化けていく。
纏っていたセーラー服は中から膨れ上がる筋肉と毛皮に耐えきれずに裂け、それを窮屈に感じたのか、少女は……少女だった獣は、人間性など捨て去ったかのように、その服を裂いた。
そこに現れたのは、黒の毛皮を纏った人狼だった。
「ッ──アッ、アァ──……!」
その叫びは、泣いているかのようだった。……あるいは、悦びに打ち震える嬌声にも聞こえるだろう。少なくとも、狐面の男は後者と捉えた。男は自身の両の掌を胸の前で合わせる。
「この時代、魔術師から変化した人狼は貴重だ。それも、完全変化とは。生き残ったならば私の猟犬にしてやろう」
男の手が青く光り始め、それが球形の魔力塊を形成していく。
「……──お前は、私のものだ」
その言葉を合図に、人狼の爪と青の光が衝突する。
雷が連続して落ちたかのような破裂音と、骨肉が砕けて焼ける臭いが辺りに立ち込める。だが、それを見る者はいない。そもそもとして感じることもできない只人は兎も角、魔術師でさえも。
その後、その袋小路には何も残らなかった。
裂けた制服も、魔術の痕跡も、何も無い。
雨が止む気配はなく、死者は行方不明、あるいは事故死・自殺として処理され、「魔」の字が「現」に漏れることは無い。
真相も悲嘆も、全ては雨音と共に側溝に流れて消えた。
▽
『明星』にやって来てから一週間。
今日は色々と疲れる日だった。
初めて知ること、初めてやったこと、初めて会った人。色々と初めてだらけの日だった。
朝に体験したことであるはずなのに、もう「『明星』の扉を潜ったら外にいた」という あの体験は、もうかなり昔のことのように感じられた。
こんなに忙しい日を、「かつての僕」は体験したことがあっただろうか。
そう思うと、また自分が「現」から遠ざかったように感じられた。
それはもう仕方の無いこと。そう自分に言い聞かせはしたが……。
もし、このまま魔術師として活動を続け、その果てに記憶が戻ったとして。
その時に、僕は「元の日常」というものに戻れるのだろうか。
……正直、戻れる気はしない。
家が分かって帰れたとしても、そこに家族がいたとしても、魔力の影響下に無ければ僕の姿を正しく認知はしてくれない。
……いや、もしかしたら、「僕」の捜索願が出されてない現状を見るに、僕のことを知る家族や友人は実は……。
やめよう。考えても気分が沈むだけだ。
むしろ、今は奮起する時。今日、僕達は襲われたのだ。
さらに、シフ……トップが持ってきた『不死殺しの銀』の大量密輸に関する情報。
あの人曰く、
「『明星』は過去に色んな非合法的な企みを阻止してきた実績と因縁があるから、これから色んな仕事が舞い込んでくるし、こちらを狙う不埒な輩も増えるだろう。まぁ、死なないように頑張ろう」
……正直、僕は強い方なのでは? 等と思っていた。
粘土のように治癒する身体。肉体の限界を越えられることによる、高い身体能力。戦いの心得も、魔力の扱い方も、魔術に関する知識も、全て体に叩き込んだ。大抵の相手は、力押しで勝てるはず。あのハトさんとも上手く渡り合えてるんだから……。
その思い上がりを、早いうちに砕くことができたのは、間違いなく幸いだった。
これから、事態は少しずつ、だが確実に剣呑なものになっていくはず。
また襲われることもあるだろう。
……記憶を取り戻せるまで死ぬつもりはない。
それに、『明星』の人達も、死なせるつもりはない。
手の届く人たちは、守りたい。助けたい。
これから手傷は増えるだろうし、過去の自分からはどんどん遠ざかる。
だが、いつか「現」に戻った時のために、この三つは大事にしよう。
……以上。
2049.5.7.SAT.PM9:00。今日の日記、終わり。
▽
トップが現れてから、数日が経った。
僕はこの数日間、体を休めて傷を完璧に癒し、不足していたと分かった魔術のより専門的な知識や技術を学ぶことに専心した。
特にトップによる講義は、最初こそ雑談や関係ない話が多かったように思えたが、いざ「魔術」の話になると、『不死殺しの銀』『身隠しの飴』『内気と外気』『属性魔術』等々……一気に展開される情報量に圧倒されそうになった。当然、専門用語が飛び交うその内容を講義の時に理解できるわけもなく、何とかノートに単語と概要をまとめ、シノさんに詳細を教えてもらうことで内容を頭に入れた。
テスさんの「実践」はよりレベルが上がり、さらにテスさんとも「実戦」を行えるようになった。テスさんの戦い方はハトさんと違い、攻撃の激しさこそ無いものの、一瞬でもテスさんの姿を見失えば既に背後をとられている……魔術師ではなく暗殺者か忍者を相手にしているかのような緊張感のあるものだった。
シャッター街での魔術戦は、背後への回り込みが難しい一本道であったことと、相手に先手を取られたことが大きかったようで、本領の発揮ができてなかったらしい。
「そんな環境では実力が出し切れないってのは本人が分かってそうなのに、何で君に同行したかって、思ってる?」
「いえ、別に……」
「テス君はサポート特化みたいなとこあるからね。魔物も弱めだったし、石壁とかで追い詰めて君に捕まえてもらう算段だったんだろうね~」
「なるほど」
「……君、何かボクに対して『塩』じゃないかい?」
「そりゃあ……はい」
「素直なのいいね。好感度+10点だ」
コツコツ、トコトコ、ゴツゴツ。
三者三様の足音が濡れたアスファルトに鳴り響く。もう5月だというのに、思わず震えてしまうほど空気は冷たく湿っている。雨が上がったばかり、というのもあるだろうが、手入れが行われず、伸び放題になった枝葉が陽の光を遮断しているのも大きいだろう。
忘れ去られた森林公園……もとい、「森林」。草は膝上まで伸びあがり、木々は我先にと枝葉を競うように伸ばす。それを管理する人間は大分前からいなくなったようだ。
そのため、現在この森にいる人間は、僕とトップ。そして、
「おーい! クレイン君! トップ! リスいたよリス!」
僅かに射しこむ木漏れ日を受けて輝く、ハトさんだけだ。
今日は少し肌寒いからか、彼女はいつものブラウスの上にジャケットを羽織り、荒れた道を歩くことも考えて、靴も丈夫そうな茶色のブーツに変えている。僕も今日は靴を防水のそれに履き替えた。トップはあまり変わらない、ベージュを基調としたスタイルだ。軍靴みたいなブーツを履いているため、さっきから落ちている枝を避けもせずベキベキと踏み折っている。
一歩一歩、公園の面影を残す入口から奥の方へと進むたび、木漏れ日は少なくなり、水と新緑の臭いはより濃くなっていく。アスファルトや側溝を覆う石の蓋は苔むしていて、時折鳥や虫の鳴き声と思われる音が聞こえてくる。一応、この公園がある場所は比較的都心に近いところなのだが、それを感じさせない繁茂ぶりだ。
人は寄り付かず、木々と高く伸びた草が様々なものを覆い隠す。
確かに、「廉価銀」の隠し場所としては適しているのかもしれない。
今回、僕達がこの森を訪れた理由は、この森に隠された「廉価銀」を回収しに来た魔術師を拘束することだ
「売り手が隠した品物を、買い手が回収に来る。場所も人気のない森の中。売り手は姿を見せず、買い手はこうして追跡・拘束されるリスクを負う。何とも可哀そうな話だ。捕まえたら慰めてあげよう」
「けれど、本当に来るんですかね? 正直、そこまで廉価銀に価値があるとは思わないんですけど」
「んー、『祓除院』には不死の魔術師が割と多いからかなぁ。クーデター狙ってるのかもよ!」
ハトさんの言葉に、僕は少し驚いた。
「クーデター、ですか?」
「うん! 『祓除院』は色んな魔術師の家系が集まってできた寄合みたいなトコなんだけど、内部での争いも酷くて! 外部のそーいう『悪いひと』にお願いして、他派閥の戦力を削いで自分たちの地位を上げようって算段かも! なら、『悪いひと』側は武器をたくさん持って営業に行くんじゃないかな! ビジネスチャンス!」
……訂正する。結構驚いた。
ハトさんとは実戦での訓練ばかりで、あまり魔術世界のあれこれについて話すことは無かったのだが、正直、彼女に対して そういったことに詳しいという印象は全くなかった。それに、会話自体も短めで簡潔な言葉をよく使うということもあって、ここまで長く話すハトさんを見たのはこれが初めてだった。
目を丸くしてる僕の視線に気づいたのか、ハトさんは、
「ちょっと私のこと、舐めてたんじゃない?」
と、目を細め、イタズラっぽく笑って囁き、僕の顔を覗いた。
その表情に思わず、心臓が跳ねる。申し訳なさと、感心と、驚きと、ときめきと、様々な感情が胸中を巡った。
「いえ、そんなっ…………ハイ」
どうにか訂正しよう、誤魔化そうと言葉を探したが、最終的に口から出たのは「あなたのことを舐めていました」と肯定する言葉だった。最悪だ。本当に。正直、この人にだけは嫌われたくない。不埒だ。どうしよう、どうしようもない。
色んな言葉・感情が脳内を駆け、視界が僅かに揺れ始める。
その様子を見たハトさんは、クスッと笑い、
「素直でいい子! 高感度+100点!」
そう言って、スキップをしながら先へ進んだ。
「…………」
ドッドッドッと心臓がかつてない速度で動いているのが分かる。
ハトさんやテスさんとの実戦でも、目の前に迫った銀の杭をギリギリで止めた時も、こんなに鼓動が高鳴ることは無かった。全身が熱くなり、思わず呆然としてその場に立ち尽くしてしまう。
その様子を見たトップは、
「青春だねぇ。ほら、どんどん青春しなさい。大丈夫、ボクの認識阻害は『飴』舐めるより強力だよ。どんどん話しなさい」
と、からかった。
僕はそれを無視して、先を進むハトさんを追って走った。
青春。恋慕。恋心。
……いや、彼女の優しさに甘えて勘違いをしているだけだ。
素直さが好感触?ただ僕が世間知らずのガキだから優しくしてくれただけだ。
僕は頬を素早く叩き、気持ちを任務の遂行へ切り替えた。
▽
アスファルトに入ったヒビから草が伸びる。ここまでくると、木の根が地下から地面を持ち上げ、アスファルトは土や砂に埋まり、消えかけていた。それはまるで、人間の手の届かない領域がこの先に広がっていることを表すかのようだった。
「魔」と「現」の狭間──もしそれを視覚化するなら、こういった景色だろう。
『明星』の他にも少ないがあるという自治的な魔導組織。『祓除院』はその最たるもの。
そのように考えていたのだが、妙に引っかかることが多い気がした。
廉価銀を回収しに来る魔術師。
その情報を持ってきたのは『祓除院』のエージェントであったが、先ほどのハトさんの話を聞くと、正直うすら寒い感じがしてくる。
恐らくは、この国の中で最も大きな影響力を持つだろう魔導組織の、内部抗争の可能性。前にもテスさんが『祓除院』について「派閥争い」という単語を出していたが、その言葉が一気に実感を持って近づいてきたように感じた。
……果たして、『明星』に仕事を持ってきたそのエージェントは、「どの派閥」の「どういった」思惑の下にやって来たのだろう。
あのミイラめいた殺し屋の雇い主は、本当に『明星』と因縁を持った組織の残党なのか。
僕に手傷を追わせられる廉価銀の武器を持っていたことは、偶然か?
……邪推に近く、陰謀論に近い疑問であることは分かっているのだが、『祓除院』、『廉価銀』、『殺し屋』の三つの要素が黒く絡んでいるような気がして、ゾッとした。
「……そういえば当たり前のように流してましたけど、トップは何故、この任務に同行を?」
「いやぁ、『明星』の誇るアタッカー・ハト君と、それと打ち合える新人の大捕り物だよ。間近で観戦しなきゃ損だって。それとも、ボクが何か企んでるとでも?……もしかして、さっきのハト君の話?」
「まぁ、そうですね……ちょっと考えてまして」
「確かに気になることではあるけれど、今のところボクも彼らも怪しいだけだからね。『祓除院』はいつでも怪しいんだ。秘密主義で、同属嫌悪で、所属する奴らが本当に人間なのかも分からない。近現代の魔術師を象徴する様なトコだ。考えすぎたり、踏み込んだりするのはオススメしな──」
そこまで言って、トップはバッと腕を振って僕の進路を遮った。
ハトさんもそれに合わせてその場に止まり、了解したかのように頷いて姿勢を低くした。隠れるのか。僕もそれに倣って姿勢を下げ、姿が高い草に隠れるようにした。勿論トップも屈み、常時、糸のように細められている目を少し開いて、森の奥深くを見つめる。ギラリと、紙でも切れそうなほどに鋭い目だ。
「 魔術師ですか? 」
声を潜めてトップに問う。
「 いや、違う。……魔術師拘束の任務は失敗だ 」
「 まさか、バレて逃げられた? 」
「 いや、正直それよりも状況は悪い」
僕は何があったのかをトップに聞こうとして、森の奥から微かに異音が聞こえるのに気が付いた。
……まず聞こえてきたのは、咀嚼音。人のそれではなく、グチャグチャと、肉を食む獣の音。そして、荒々しい吐息。身を潜めて……獲物の在り方になって分かる、肌をザワザワと粟立てる捕食者の気配。
間違いない。魔物だ。
それも、吐息や気配の感じからして、恐らくは大型。
人の頭部など容易く破壊できるような──。
「ッ……」
どぉっ、と汗が噴き出した。
存在しないカビと埃の香が鼻を撫でる。まだ昼だというのに、僅かに射す木漏れ日を月光のそれと見間違う。傷も無いのに、首がチリチリと痛み始める。
(やばい これ こわい)
理性とは別の何かが、僕の内でざわめき始める。逃げろ、逃げろと囁く。あの大きさの魔物に、一度は殺されたんだ。逃げればいい。勝てはしない。
それは本能のようでいて、理性のようでもあった。獣と人の狭間にある何か。それが、僕を後退させようと必死だった。死にたくないから動け、道連れは御免だ、と。
瞬間、気配が大きくこちらに動いたのを感じた。
銃の照準がこちらを向いた。例えるならば、そういった気配。
「マズイ。二人とも戦闘準備。逃げるのはまず無理だから諦めてね」
トップの冷静な声が耳に届くや否や、地を揺らして気配の主がこちらに突っ込んでくるのを感じた。木々が軋み、根が弾け、土埃が舞う。
「───ォォォオオオオオオオン!」
吠え声あげて現れたそれを、僕は「知っていた」。
記憶ではなく記録。知識の中に、その姿はあった。
狼と人の中間ような姿。太く長い手足と、大型ナイフのような鋭い爪。前に大きく出たマズルに覗く牙は赤く染まり、ボタボタと肉のそれを滴らせている。
その太い首には何者かの所有物であることを示すかのような黒の首輪がつけられ、金色の目は吊り上がり、強い感情に支配されていた。
それは、黒い人狼だった。
森に獣の叫びが響き渡る。
それは、泣いているかのように感じられた。
呼吸をするたびに冷たい雨が、風が口に入る。息を吸うことも吐くこともままならず、さながら溺れるような心地で女は足を動かした。全身はとうに濡れて冷え切り、身に纏う黒のセーラー服とスカートは、濡れてさらにその色味を濃くした。歯の根が合わず、指先が震える。しかしそれは、決して寒さだけのせいではなかった。
少女は、狐面の男に追われていた。
濃紺色の外套。傷のついた白の狐面。軍服を思わせる黒の装束。
闇の中に浮かぶ白い獣の顔。それを認識した途端、少女は逃げた。
勝てない、と一目で見て分かった。
走って逃げた。跳んで逃げた。這って逃げた。隠れて逃げた。
そのどれもが意味を持たなかった。
やがて、迷路のような路地裏に追い込まれ、少女はついに逃げ場のない袋小路へと追いやられた。跳躍し、建物の壁を蹴って逃げるにも、既に力が限界を迎えている。雨脚は未だ強く、ばたばた と地面をうつ水音が脳内に反射する様な気分だった。
「随分と縦横無尽に逃げたものだな。魔物」
「っ……!?」
少女は言葉もなく驚き、後ずさるが、背中には壁しかない。それを破壊する力も、もう無い。体力が無いのではない。彼女には、決定的に魔力が足りていなかった。彼女は激しく呼吸を繰り返しながら口を開いた。
「──ッ!……────!!」
それは、人の言葉ではなかった。
彼女は目を見開く。何故、喋れないのか。何故、言葉が出てこないのか。
……男は何故、私を「魔物」と呼んだ?
「貴様はもう手遅れだ。何の理由でそうなったかは知らんが、最近 魔術師になったばかりだろう? ……魔術師、魔物という言葉も知らんか。貴様からすれば、いきなり『身体能力が上がった』くらいの認識だったのだろう」
狐面の男は一歩、女に近づく。
女は一歩、後ずさる。男は面の裏から告げる。
「魔術師は己の内に潜む魔性を飼いならすため、何らかの方法で魔力を補給し続けなくてはならない。さもなくば、魔性は宿主の体を乗っ取り、作り変える。……師も仲間も持てなかったのは不運だったな」
男は一歩、また近づいた。
少女は怯え切った表情で男を見つめる。薄暗い闇の中、切れかけた電灯の明りが瞬き、逆光のように男の姿を黒く写した。女は悲鳴を……獣のような吠え声を上げる。それが、煌びやかな大通りを歩む只人達に聞こえることは無い。
「超能力者か、マンガの主人公にでもなったような気分だったろう。その力で何人殺した。虐げられていた友の復讐か。善いことだな。貴様がやれば獣害と変わらんし、その友は既に貴様の腹の中だが」
男は歩みを止めない。
少女は顔を手で覆い……指の隙間から瞳を金色に輝かせた。その口角は耳元まで上がり、頬が裂け、さながら狼のように鼻が、口が前に出る。
変わっていくのは顔の構造だけではなかった。紺色の布に覆われた華奢な脚が、腕が、発達途上の若い身体が、獲物を狩り食らうための「獣」の姿へと変わって……否、化けていく。
纏っていたセーラー服は中から膨れ上がる筋肉と毛皮に耐えきれずに裂け、それを窮屈に感じたのか、少女は……少女だった獣は、人間性など捨て去ったかのように、その服を裂いた。
そこに現れたのは、黒の毛皮を纏った人狼だった。
「ッ──アッ、アァ──……!」
その叫びは、泣いているかのようだった。……あるいは、悦びに打ち震える嬌声にも聞こえるだろう。少なくとも、狐面の男は後者と捉えた。男は自身の両の掌を胸の前で合わせる。
「この時代、魔術師から変化した人狼は貴重だ。それも、完全変化とは。生き残ったならば私の猟犬にしてやろう」
男の手が青く光り始め、それが球形の魔力塊を形成していく。
「……──お前は、私のものだ」
その言葉を合図に、人狼の爪と青の光が衝突する。
雷が連続して落ちたかのような破裂音と、骨肉が砕けて焼ける臭いが辺りに立ち込める。だが、それを見る者はいない。そもそもとして感じることもできない只人は兎も角、魔術師でさえも。
その後、その袋小路には何も残らなかった。
裂けた制服も、魔術の痕跡も、何も無い。
雨が止む気配はなく、死者は行方不明、あるいは事故死・自殺として処理され、「魔」の字が「現」に漏れることは無い。
真相も悲嘆も、全ては雨音と共に側溝に流れて消えた。
▽
『明星』にやって来てから一週間。
今日は色々と疲れる日だった。
初めて知ること、初めてやったこと、初めて会った人。色々と初めてだらけの日だった。
朝に体験したことであるはずなのに、もう「『明星』の扉を潜ったら外にいた」という あの体験は、もうかなり昔のことのように感じられた。
こんなに忙しい日を、「かつての僕」は体験したことがあっただろうか。
そう思うと、また自分が「現」から遠ざかったように感じられた。
それはもう仕方の無いこと。そう自分に言い聞かせはしたが……。
もし、このまま魔術師として活動を続け、その果てに記憶が戻ったとして。
その時に、僕は「元の日常」というものに戻れるのだろうか。
……正直、戻れる気はしない。
家が分かって帰れたとしても、そこに家族がいたとしても、魔力の影響下に無ければ僕の姿を正しく認知はしてくれない。
……いや、もしかしたら、「僕」の捜索願が出されてない現状を見るに、僕のことを知る家族や友人は実は……。
やめよう。考えても気分が沈むだけだ。
むしろ、今は奮起する時。今日、僕達は襲われたのだ。
さらに、シフ……トップが持ってきた『不死殺しの銀』の大量密輸に関する情報。
あの人曰く、
「『明星』は過去に色んな非合法的な企みを阻止してきた実績と因縁があるから、これから色んな仕事が舞い込んでくるし、こちらを狙う不埒な輩も増えるだろう。まぁ、死なないように頑張ろう」
……正直、僕は強い方なのでは? 等と思っていた。
粘土のように治癒する身体。肉体の限界を越えられることによる、高い身体能力。戦いの心得も、魔力の扱い方も、魔術に関する知識も、全て体に叩き込んだ。大抵の相手は、力押しで勝てるはず。あのハトさんとも上手く渡り合えてるんだから……。
その思い上がりを、早いうちに砕くことができたのは、間違いなく幸いだった。
これから、事態は少しずつ、だが確実に剣呑なものになっていくはず。
また襲われることもあるだろう。
……記憶を取り戻せるまで死ぬつもりはない。
それに、『明星』の人達も、死なせるつもりはない。
手の届く人たちは、守りたい。助けたい。
これから手傷は増えるだろうし、過去の自分からはどんどん遠ざかる。
だが、いつか「現」に戻った時のために、この三つは大事にしよう。
……以上。
2049.5.7.SAT.PM9:00。今日の日記、終わり。
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トップが現れてから、数日が経った。
僕はこの数日間、体を休めて傷を完璧に癒し、不足していたと分かった魔術のより専門的な知識や技術を学ぶことに専心した。
特にトップによる講義は、最初こそ雑談や関係ない話が多かったように思えたが、いざ「魔術」の話になると、『不死殺しの銀』『身隠しの飴』『内気と外気』『属性魔術』等々……一気に展開される情報量に圧倒されそうになった。当然、専門用語が飛び交うその内容を講義の時に理解できるわけもなく、何とかノートに単語と概要をまとめ、シノさんに詳細を教えてもらうことで内容を頭に入れた。
テスさんの「実践」はよりレベルが上がり、さらにテスさんとも「実戦」を行えるようになった。テスさんの戦い方はハトさんと違い、攻撃の激しさこそ無いものの、一瞬でもテスさんの姿を見失えば既に背後をとられている……魔術師ではなく暗殺者か忍者を相手にしているかのような緊張感のあるものだった。
シャッター街での魔術戦は、背後への回り込みが難しい一本道であったことと、相手に先手を取られたことが大きかったようで、本領の発揮ができてなかったらしい。
「そんな環境では実力が出し切れないってのは本人が分かってそうなのに、何で君に同行したかって、思ってる?」
「いえ、別に……」
「テス君はサポート特化みたいなとこあるからね。魔物も弱めだったし、石壁とかで追い詰めて君に捕まえてもらう算段だったんだろうね~」
「なるほど」
「……君、何かボクに対して『塩』じゃないかい?」
「そりゃあ……はい」
「素直なのいいね。好感度+10点だ」
コツコツ、トコトコ、ゴツゴツ。
三者三様の足音が濡れたアスファルトに鳴り響く。もう5月だというのに、思わず震えてしまうほど空気は冷たく湿っている。雨が上がったばかり、というのもあるだろうが、手入れが行われず、伸び放題になった枝葉が陽の光を遮断しているのも大きいだろう。
忘れ去られた森林公園……もとい、「森林」。草は膝上まで伸びあがり、木々は我先にと枝葉を競うように伸ばす。それを管理する人間は大分前からいなくなったようだ。
そのため、現在この森にいる人間は、僕とトップ。そして、
「おーい! クレイン君! トップ! リスいたよリス!」
僅かに射しこむ木漏れ日を受けて輝く、ハトさんだけだ。
今日は少し肌寒いからか、彼女はいつものブラウスの上にジャケットを羽織り、荒れた道を歩くことも考えて、靴も丈夫そうな茶色のブーツに変えている。僕も今日は靴を防水のそれに履き替えた。トップはあまり変わらない、ベージュを基調としたスタイルだ。軍靴みたいなブーツを履いているため、さっきから落ちている枝を避けもせずベキベキと踏み折っている。
一歩一歩、公園の面影を残す入口から奥の方へと進むたび、木漏れ日は少なくなり、水と新緑の臭いはより濃くなっていく。アスファルトや側溝を覆う石の蓋は苔むしていて、時折鳥や虫の鳴き声と思われる音が聞こえてくる。一応、この公園がある場所は比較的都心に近いところなのだが、それを感じさせない繁茂ぶりだ。
人は寄り付かず、木々と高く伸びた草が様々なものを覆い隠す。
確かに、「廉価銀」の隠し場所としては適しているのかもしれない。
今回、僕達がこの森を訪れた理由は、この森に隠された「廉価銀」を回収しに来た魔術師を拘束することだ
「売り手が隠した品物を、買い手が回収に来る。場所も人気のない森の中。売り手は姿を見せず、買い手はこうして追跡・拘束されるリスクを負う。何とも可哀そうな話だ。捕まえたら慰めてあげよう」
「けれど、本当に来るんですかね? 正直、そこまで廉価銀に価値があるとは思わないんですけど」
「んー、『祓除院』には不死の魔術師が割と多いからかなぁ。クーデター狙ってるのかもよ!」
ハトさんの言葉に、僕は少し驚いた。
「クーデター、ですか?」
「うん! 『祓除院』は色んな魔術師の家系が集まってできた寄合みたいなトコなんだけど、内部での争いも酷くて! 外部のそーいう『悪いひと』にお願いして、他派閥の戦力を削いで自分たちの地位を上げようって算段かも! なら、『悪いひと』側は武器をたくさん持って営業に行くんじゃないかな! ビジネスチャンス!」
……訂正する。結構驚いた。
ハトさんとは実戦での訓練ばかりで、あまり魔術世界のあれこれについて話すことは無かったのだが、正直、彼女に対して そういったことに詳しいという印象は全くなかった。それに、会話自体も短めで簡潔な言葉をよく使うということもあって、ここまで長く話すハトさんを見たのはこれが初めてだった。
目を丸くしてる僕の視線に気づいたのか、ハトさんは、
「ちょっと私のこと、舐めてたんじゃない?」
と、目を細め、イタズラっぽく笑って囁き、僕の顔を覗いた。
その表情に思わず、心臓が跳ねる。申し訳なさと、感心と、驚きと、ときめきと、様々な感情が胸中を巡った。
「いえ、そんなっ…………ハイ」
どうにか訂正しよう、誤魔化そうと言葉を探したが、最終的に口から出たのは「あなたのことを舐めていました」と肯定する言葉だった。最悪だ。本当に。正直、この人にだけは嫌われたくない。不埒だ。どうしよう、どうしようもない。
色んな言葉・感情が脳内を駆け、視界が僅かに揺れ始める。
その様子を見たハトさんは、クスッと笑い、
「素直でいい子! 高感度+100点!」
そう言って、スキップをしながら先へ進んだ。
「…………」
ドッドッドッと心臓がかつてない速度で動いているのが分かる。
ハトさんやテスさんとの実戦でも、目の前に迫った銀の杭をギリギリで止めた時も、こんなに鼓動が高鳴ることは無かった。全身が熱くなり、思わず呆然としてその場に立ち尽くしてしまう。
その様子を見たトップは、
「青春だねぇ。ほら、どんどん青春しなさい。大丈夫、ボクの認識阻害は『飴』舐めるより強力だよ。どんどん話しなさい」
と、からかった。
僕はそれを無視して、先を進むハトさんを追って走った。
青春。恋慕。恋心。
……いや、彼女の優しさに甘えて勘違いをしているだけだ。
素直さが好感触?ただ僕が世間知らずのガキだから優しくしてくれただけだ。
僕は頬を素早く叩き、気持ちを任務の遂行へ切り替えた。
▽
アスファルトに入ったヒビから草が伸びる。ここまでくると、木の根が地下から地面を持ち上げ、アスファルトは土や砂に埋まり、消えかけていた。それはまるで、人間の手の届かない領域がこの先に広がっていることを表すかのようだった。
「魔」と「現」の狭間──もしそれを視覚化するなら、こういった景色だろう。
『明星』の他にも少ないがあるという自治的な魔導組織。『祓除院』はその最たるもの。
そのように考えていたのだが、妙に引っかかることが多い気がした。
廉価銀を回収しに来る魔術師。
その情報を持ってきたのは『祓除院』のエージェントであったが、先ほどのハトさんの話を聞くと、正直うすら寒い感じがしてくる。
恐らくは、この国の中で最も大きな影響力を持つだろう魔導組織の、内部抗争の可能性。前にもテスさんが『祓除院』について「派閥争い」という単語を出していたが、その言葉が一気に実感を持って近づいてきたように感じた。
……果たして、『明星』に仕事を持ってきたそのエージェントは、「どの派閥」の「どういった」思惑の下にやって来たのだろう。
あのミイラめいた殺し屋の雇い主は、本当に『明星』と因縁を持った組織の残党なのか。
僕に手傷を追わせられる廉価銀の武器を持っていたことは、偶然か?
……邪推に近く、陰謀論に近い疑問であることは分かっているのだが、『祓除院』、『廉価銀』、『殺し屋』の三つの要素が黒く絡んでいるような気がして、ゾッとした。
「……そういえば当たり前のように流してましたけど、トップは何故、この任務に同行を?」
「いやぁ、『明星』の誇るアタッカー・ハト君と、それと打ち合える新人の大捕り物だよ。間近で観戦しなきゃ損だって。それとも、ボクが何か企んでるとでも?……もしかして、さっきのハト君の話?」
「まぁ、そうですね……ちょっと考えてまして」
「確かに気になることではあるけれど、今のところボクも彼らも怪しいだけだからね。『祓除院』はいつでも怪しいんだ。秘密主義で、同属嫌悪で、所属する奴らが本当に人間なのかも分からない。近現代の魔術師を象徴する様なトコだ。考えすぎたり、踏み込んだりするのはオススメしな──」
そこまで言って、トップはバッと腕を振って僕の進路を遮った。
ハトさんもそれに合わせてその場に止まり、了解したかのように頷いて姿勢を低くした。隠れるのか。僕もそれに倣って姿勢を下げ、姿が高い草に隠れるようにした。勿論トップも屈み、常時、糸のように細められている目を少し開いて、森の奥深くを見つめる。ギラリと、紙でも切れそうなほどに鋭い目だ。
「 魔術師ですか? 」
声を潜めてトップに問う。
「 いや、違う。……魔術師拘束の任務は失敗だ 」
「 まさか、バレて逃げられた? 」
「 いや、正直それよりも状況は悪い」
僕は何があったのかをトップに聞こうとして、森の奥から微かに異音が聞こえるのに気が付いた。
……まず聞こえてきたのは、咀嚼音。人のそれではなく、グチャグチャと、肉を食む獣の音。そして、荒々しい吐息。身を潜めて……獲物の在り方になって分かる、肌をザワザワと粟立てる捕食者の気配。
間違いない。魔物だ。
それも、吐息や気配の感じからして、恐らくは大型。
人の頭部など容易く破壊できるような──。
「ッ……」
どぉっ、と汗が噴き出した。
存在しないカビと埃の香が鼻を撫でる。まだ昼だというのに、僅かに射す木漏れ日を月光のそれと見間違う。傷も無いのに、首がチリチリと痛み始める。
(やばい これ こわい)
理性とは別の何かが、僕の内でざわめき始める。逃げろ、逃げろと囁く。あの大きさの魔物に、一度は殺されたんだ。逃げればいい。勝てはしない。
それは本能のようでいて、理性のようでもあった。獣と人の狭間にある何か。それが、僕を後退させようと必死だった。死にたくないから動け、道連れは御免だ、と。
瞬間、気配が大きくこちらに動いたのを感じた。
銃の照準がこちらを向いた。例えるならば、そういった気配。
「マズイ。二人とも戦闘準備。逃げるのはまず無理だから諦めてね」
トップの冷静な声が耳に届くや否や、地を揺らして気配の主がこちらに突っ込んでくるのを感じた。木々が軋み、根が弾け、土埃が舞う。
「───ォォォオオオオオオオン!」
吠え声あげて現れたそれを、僕は「知っていた」。
記憶ではなく記録。知識の中に、その姿はあった。
狼と人の中間ような姿。太く長い手足と、大型ナイフのような鋭い爪。前に大きく出たマズルに覗く牙は赤く染まり、ボタボタと肉のそれを滴らせている。
その太い首には何者かの所有物であることを示すかのような黒の首輪がつけられ、金色の目は吊り上がり、強い感情に支配されていた。
それは、黒い人狼だった。
森に獣の叫びが響き渡る。
それは、泣いているかのように感じられた。
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