あの人は私を名前で呼ばない

某千尋

文字の大きさ
20 / 28

食事とコーヒー1

しおりを挟む
 仕事を終え、待ち合わせ場所に向かう。あっという間に今日になってしまった。まだ迷いがあり、足が重い。今更キャンセルできないことはわかっている。

 金曜の夜、街は浮かれている。一週間の疲れを癒さんとするサラリーマンたち、夜遊びする若者たち、デートする恋人たち。この中でこんなにも重苦しい気持ちを抱えているのは私だけではないだろうか。そんなしょうもないことを考えつつ足を進めると、待ち合わせ場所には既に相手が待っていた。

「すみません、待たせちゃって」

 声に気付いて振り返った勅使河原さんはふわりと微笑む。優しい笑顔に重苦しい気持ちが少し軽くなる。

「いいえ、さっききたところだよ」

 すっと距離を縮められ、「さ、いこうか」と背に手を回される。あまりに自然な流れだったため流されそうになったところを止めにかかる。

「てっ……勅使河原さん……」

 我ながら情けない声が出た。あの電話からどうしてこうもさらりと距離を縮めてくることができるのか。顔を向けるとやはりそこには優しげな顔があった。

「ごめんね、ちょっとはしゃいじゃった」

 するりと私の背から手が離れていく。驚いたことで会うまでに抱えていた緊張はほぐれたが、違う意味でドギマギする。

 ほどよい距離感で隣を歩きながら他愛もない話をする。勅使河原さんはこの前の電話のことなどなかったかのようだ。促されるまま歩く。

 連れて行かれたお店は、お洒落なダイニングだった。
 ソファテーブルに案内され腰を下ろすと、その柔らかさに一週間の疲れを包み込まれたような気持ちになる。店内を見回すと女性のグループやカップルが目立つ。私たちもカップルのように見えるのだろうなと思った。

「飲み物どうする?」

 メニューを示され、聴き慣れないカクテルを頼むことにする。せっかくお洒落なお店に来たのだから、それに見合うものを頼みたい。勅使河原さんに会うまではあんなに重い気持ちだったにも関わらず、私好みの店にはしゃいだ気持ちになる。

 勅使河原さんは私が悩んでいる間に頼むものを決めていたようで、店員を呼んで飲み物と軽いつまみを頼んだ。

「あの……」

 いくらお店が好みだろうと、私には言わないといけないことがある。気がはやって声を出すと、勅使河原さんがそれを止める。

「この前の話はまた後で。まずは乾杯しよう」

 そう言われると私も何も言えず、提供された青い色のカクテルを手に持ち乾杯する。

「あっ……美味しい」

 口にした瞬間に素直な声が出る。

「ここ、カクテルの種類が豊富で女性に人気らしいよ?せっかくだから色々試してみたら?みずきさん、お酒好きなんでしょ」

「はい、ありがとうございます。普段カクテルはあまり飲まないんですけど……」

「あとそろそろ敬語やめよ?同い年だし」

「あっ……ごめんなさ……ううん、ごめん」

 すっかり勅使河原さんのペースだった。程よいタイミングで届いたおつまみも美味しく、その後も気になる食事を頼みつつお酒も追加する。
 勅使河原さんとの話は楽しく、私はいよいよ自分の話をするタイミングがわからなくなっていた。

 そんな私の様子をわかっているのかいないのか、勅使河原さんは何も気にしていない風である。気付いたらメインも食べ終わっていた。
 このままではいけない、と思い意を決して話そうとするとまた勅使河原さんに遮られる。

「近くに美味しいコーヒーの店があるんだ。話はそこでしよう。このお店で深刻な話をするのはちょっと、ね」

 勅使河原の目線を追うと、窓向きの席で腕を組んでいるカップルや、机越しに顔を近づけて内緒話でもしているかのようなカップルが目に入る。
 確かにここで暗い話をしては営業妨害になりそうだった。

「ここ、デザートも美味しいんだって。せっかくだから食べようよ」

 すっかり勢いをなくした私は半分やけになってデザートを選ぶ。

「……なんだか勅使河原さんには敵わないな」

「褒め言葉かな?」

「さてどうでしょう」

「おっ、言うねぇ」

 余裕のない私と比べてゆったりと構える勅使河原さん。この後の話をうまくできるか、自信がなくなってきた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

25年の後悔の結末

専業プウタ
恋愛
結婚直前の婚約破棄。親の介護に友人と恋人の裏切り。過労で倒れていた私が見た夢は25年前に諦めた好きだった人の記憶。もう一度出会えたら私はきっと迷わない。

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

離婚する両親のどちらと暮らすか……娘が選んだのは夫の方だった。

しゃーりん
恋愛
夫の愛人に子供ができた。夫は私と離婚して愛人と再婚したいという。 私たち夫婦には娘が1人。 愛人との再婚に娘は邪魔になるかもしれないと思い、自分と一緒に連れ出すつもりだった。 だけど娘が選んだのは夫の方だった。 失意のまま実家に戻り、再婚した私が数年後に耳にしたのは、娘が冷遇されているのではないかという話。 事実ならば娘を引き取りたいと思い、元夫の家を訪れた。 再び娘が選ぶのは父か母か?というお話です。

私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない

文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。 使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。 優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。 婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。 「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。 優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。 父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。 嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの? 優月は父親をも信頼できなくなる。 婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。

私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。

石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。 自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。 そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。 好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。 この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。 扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

🥕おしどり夫婦として12年間の結婚生活を過ごしてきたが一波乱あり、妻は夫を誰かに譲りたくなるのだった。

設楽理沙
ライト文芸
 ☘ 累計ポイント/ 180万pt 超えました。ありがとうございます。 ―― 備忘録 ――    第8回ライト文芸大賞では大賞2位ではじまり2位で終了。  最高 57,392 pt      〃     24h/pt-1位ではじまり2位で終了。  最高 89,034 pt                    ◇ ◇ ◇ ◇ 紳士的でいつだって私や私の両親にやさしくしてくれる 素敵な旦那さま・・だと思ってきたのに。 隠された夫の一面を知った日から、眞奈の苦悩が 始まる。 苦しくて、悲しくてもののすごく惨めで・・ 消えてしまいたいと思う眞奈は小さな子供のように 大きな声で泣いた。 泣きながらも、よろけながらも、気がつけば 大地をしっかりと踏みしめていた。 そう、立ち止まってなんていられない。 ☆-★-☆-★+☆-★-☆-★+☆-★-☆-★ 2025.4.19☑~

完結|好きから一番遠いはずだった

七角@書籍化進行中!
BL
大学生の石田陽は、石ころみたいな自分に自信がない。酒の力を借りて恋愛のきっかけをつかもうと意気込む。 しかしサークル歴代最高イケメン・星川叶斗が邪魔してくる。恋愛なんて簡単そうなこの後輩、ずるいし、好きじゃない。 なのにあれこれ世話を焼かれる。いや利用されてるだけだ。恋愛相手として最も遠い後輩に、勘違いしない。 …はずだった。

処理中です...