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《55》五感すべてで(4)

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「今月末で会社を退社して、そのままきもの学院の長になる予定だったんだけど、急遽予定が変わって、海外で開催される着物ミュージアムの最高責任者になることになったんだ。初めて海外で日本の伝統的な着物を発表する機会で……こんな名誉のある任に就かせてもらえるなんて、ありがたい話だ」

 急に海外という言葉が出てきて、ひゅと息を呑む。

「海外って、どこですか……?」
「ロンドンだよ」
「ロン、ドン……」

 日本から遠い国名を出されて、心がざわついてしまう。

「ミュージアムの開催自体は三か月程度なんだけど、準備期間を含めて一年ほど海外で過ごすことになると思う。駆け足にはなってしまうけど、籍を入れて瑛美も一緒についてきてくれないか?」

 てっきり退社後は学院長の任に就くと思っていた瑛美は、驚きで言葉が出ない。
 多大な情報をこの短時間で処理しきれなかった。

「少し……考える時間をいただいてもいいですか?」
「もちろん。急に決まったものだから、突然でごめん。でも、俺は瑛美とずっと一緒にいたいと思ってる。その気持ちは変わらないから」

 手を取られて大和の指が薬指の宝石を撫ぜる。「これは俺の想いと覚悟だから」と言われて余計に心臓が握り潰されそうになった。

 大和に自宅まで送ってもらって別れる。
 ところどころ黒ずんでいる白壁の小さなマンションの中に入り、階段をのぼる。

 狭いワンルームの部屋に戻って着物を脱いで、お風呂に入っていると、少しずつプロポーズされたのだと実感が湧いてくる。

(どうしよう、どうしたらいいの……)

 ぶくぶくと湯船に頭まで浸かる。
 好きな人から真っ直ぐな愛情を伝えられてプロポーズをされて、この世で一番の幸せ者のはずなのに……この胸のしこりはなんだろうか。

 すぐに「はい」と頷けない自分。
 嬉しいはずなのに、全力で喜べない矛盾。
 もやもやと影のようにまとわりつく黒い感情。

 どれだけ体を洗っても湯を浴びても流れない汚れ。
 今まで見て見ぬふりをしてきたそれは、いつの間にか小さな瑛美をすっぽりと覆うほどの影になっていた。

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