兄の彼女/弟の彼女

逢波弦

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弟の彼女

2.弟の彼女⑥

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放課後の教室。
俺とクラスの子は、いつも通り机を合わせてお喋りに興じてた。貸し借りしてたレコードの感想や音楽のこと、お互いの私生活や友人のことを次々と話す。
相変わらずクラス内では受験モードの雰囲気が漂っていたが、この子との放課後のひとときは俺にとって凄くリフレッシュ出来る時間でもあった。
お互い、受験勉強は第一優先で、そっちに支障が出ない程度にレコードの貸し借りやお喋りをする約束だった。

彼女のリクエストや、俺が聴かせたい曲があるから「レコード借りたい」とまた兄にお願いした。
すると「俺の許可取んなくていいから、好きに取れよ」と不機嫌そうに言われた。

兄は、俺とクラスの子が一緒にいるのを目撃してから、あからさまに態度が変わった。
何かに苛立っているような、焦っているような表情を見せていて、けどその感情を俺に直接伝えては来なかった。
土日の行為は相変わらず続いていたけど、兄からの誘いがない週は、俺から何か行動を起こすことはしなかった。

「でも本田くん、本当色んな盤持ってるよね。レコードって結構高いのに」
彼女は机の上に広げられたレコードの一つを手に取って、しげしげと眺めた。
「まあ、小学校からお年玉でちまちま買ってたし。それに兄ちゃんのも混ざってるから」

兄の話題を出すと、彼女の目がキラリと輝いた。
「それ!ずっと聞きたかったんだけど、音楽のこと話せるお兄さんって凄くない!?」
「え、そう?」
「いいなぁ…うちなんて全然音楽好きな人いないから」
クラスの子はしょげた様子でレコードが入った紙ジャケットの端を指で弄りだした。

そういえば彼女は前に、自分が長女で上に兄弟もいないから、兄や姉が欲しかったと呟いていた。だから、上の兄弟への憧れもあって、この反応なんだろう。

「まー…共通の話題があるのは良いけど、無愛想だし、怒ると怖いよ」
「えーそうなんだ」
「小学生の時もさ、兄ちゃんのトロフィー壊して焦ったんだけど。でもノリでくっつけて知らんぷりしてたら、なんも言われなかった」
「何それ!ノリでくっつくんだ」
あははと朗らかに笑ってくれた彼女を見て、心が和む。

「…あ、でもあん時は優しかったな」
そうポツリと呟くと、向かいの彼女の目がこちらに向いた。

「俺、中学生までサッカー少年団入っててさ」
「うんうん」
「毎日真面目に通ってたんだけど、急にサボりたくなった時があって」


――まだ日が高く昇っていた、放課後。
6年間使い倒したランドセルを背負いながら、俺は道端の小石を所在なさげに蹴りながら歩いていた。

毎週木曜は少年団のバスが停まるバス停に向かう。
けれどその日は何故か、足がバス停の方向に向かなくて、家へ帰る道を真っ直ぐ歩いた。
バスが通る道じゃないとは知っていたけど、偶々少年団のチームメイトに会って、
「本田、今日どうしたん?」なんて言われたら嫌だったから、道中はずっと俯いていた。

別に大きな理由があるわけじゃなかった。
チームメイトとも上手くやってたし、いじめられてるとか、レギュラーになれなかったとか明確なことがあったわけじゃない。
急に何だか行きたくなくなって、練習をサボった。
日が照ってるコンクリートを一歩ずつ進む。気持ちはいやに逸るのに、足の進みはのろいまま、小石をずっと蹴っていた。

日が差し込む、誰もいない家にバタバタと帰ってきて、自室に篭った。
両親には何となく言いたくなかった。
激しく怒られはしないだろうけど、叱られたり嗜められるだろうと思ったから。
何も考えたくなくて、布団に包まって目をつぶった。

暫くしてノックの音がして、兄の声がした。
取り戻した意識で布団から這い出ると、部屋はすっかり暗くなっていた。
「入るよ」と声をかけられて、そのままドアが開いた。

塾帰りだったのか、学ラン姿のままの兄は、俺がいるベッドに腰を下ろした。
ベッドが軋み、兄分の重さを象ってマットレスが沈む。
何か言われると思っていたが、兄は何も喋らなかった。

沈黙に耐えきれなくて、俺から言葉を放った。
「あのさ…怒んないの?」
兄はしばらく間を開けて、うん、とだけ零した。

横にいる兄の横顔を盗み見ると、いつもの無愛想な表情と変わらない。
けれど、その顔には俺に対する過度な心配だとか、俺の感情を慮るような態度は無くて、そんなことが逆に気を楽にしてくれた。

手持ち無沙汰になって、横にある布団を手で弄っていると、兄は俺の頭を軽く撫でた。
「そんな気にすんなよ」
少し微笑んだ口と、優しさの滲んだ目尻。
大きな掌から伝わる体温と、自分の横に並ぶ一回り大きい背丈。

なんだか急に堪らなくなって、視線を下に向け、兄ちゃんには分かんないよ。と呟いた。
別に泣くつもりもなかったのに、声が震えて恥ずかしかった。
横の温もりは、そうだな、とだけ言葉を返してきた。
「母さん達、心配してるから降りて来いよ」と声を掛けられ、無言で頷く。
そのまま兄は俺の部屋を後にして、階段を降りていった。

その日、胸の辺りがじわじわと熱くて、何故か寝床に入っても寝付けなかった。
夕方寝ちゃったから、風呂入んの遅かったから、とかそれなりの理由は見つけてた。
けど、瞼を強くつむっても、兄のいつもと違う優し気な表情と、大きな掌の感触が忘れられなくて、熱い息を吐いた。
(兄ちゃん)

後から聞いたら兄もよく習い事をサボっていたらしく、なんならその習い事の月謝もくすねてお小遣いにしていたらしい。
良くやるよと呆れつつ、俺もそれぐらい気楽に構えてても良いかと、自分の呑気さに拍車が掛かった出来事でもあった。

――当時は、あの夜の自分の感情が分からなかった。
けど、今振り返って確信した。

俺、兄ちゃんのことが好きなんだ。
兄としてではなく、1人の男として。

だからあの日。
兄とその彼女と廊下で鉢合わせて、兄の部屋で情事の痕跡を見つけた時も。
自分でも訳がわからなくなって、兄に背伸びをしてキスをして、行為をせがんだ。
あの時は無我夢中で、兄が誰かのものになることが、兄が誰かを強く求めることが耐えられなかった。

自分にとって兄が特別なように、兄にとっても俺が特別になりたかった。


「お兄さんのこと、好きなんだね」
目の前に座り、微笑む彼女に真っ直ぐな瞳でそう言われる。
そんな彼女の発言に、どきりとする。
恋愛的な意図で言ったわけじゃないと分かっていても、何だか核心を突かれたようだった。

否定するのも違う気がしたから、素直にうんと頷いた。
クラスの子は優し気に顔を緩めて、嬉しそうにしていた。
(なんで俺の兄ちゃんの話で、この子が嬉しそうなんだろう)と不思議だった。

少し恥ずかしくなって、机の上のレコードに目を落とす。
俺が買ったレコードと、兄ちゃんのレコードが混ぜこぜになって置かれている。

兄のことは、――好きだ。
けど、だからこそ、このままじゃいけないとも実感してる。

「あのさ…」
顔を上げてクラスの子を見つめる。彼女はきょとんとした表情をしていた。
窓際からそよいだ風が、やわらかく教室の中へ流れ込んできた。

「今度の土日って空いてる?」
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