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サンタヤーナの警句(第六話)
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六
「おまちどうさま。のどぐろの炭火焼でございます」
店の女将が本日のメインディッシュを運んできた。
別名アカムツと呼ばれるこの魚は、かつて飲食店には見向きもされず食卓にすら上ることもなく、地元の漁師は海に放り捨てていたという話を聞いたことがある。それがいつの頃か、誰の仕掛けか知らないが、名前を変えて再起を図ったら突然スターダムに上り詰めた。今ではスポットライトを浴びながら颯爽と赤じゅうたんを闊歩する“高級魚”として鎮座している。
北海道では熊の餌にしかならなかったほっけが大衆酒場でもてはやされ、いつも間にか高級品まで現れたのを思い起こさせる。
「そうだな、何から話そうか……」
井坂はほろ酔い気分の頭を奮い起こすように、しばし考えを巡らした。
「うん……。先ず“円安”ってやつだけど……。ドルはユーロに対してもポンドや人民元に対しても上がっているから、これはあきらかに“ドルの独歩高”だよ」
円安はすなわち、円に対してドルが上がるのだからドル高だ。理屈上はそうなる。
「へぇー、じゃ何でそう言わないの?」
「何でだかね……。ホント、こっちが聞きたいよ。俺なんか会社ン中でそう言ってもさ、みんな苦笑いして『ジジイがまた何か言ってるぜ』って顔されるんだよな!」
井坂は日頃の鬱憤を同期にぶつけるような顔をしてみせた。にもかかわらず、次の瞬間には表情を変え、自分に言い聞かすようにつぶやいた。
「まあ、いろいろあるんだろうなぁ……」
「いろいろって、何が?」
極めて素朴な問い返しだが、腹に何かを抱えている人物に話を促すための、重要な触媒である。こうした掛け合いが会話に潤いをもたらす。
「例えば、黒田降ろしとか……」
「へぇっ、そんなのあんの?」
「例えばだよ、例えばっ……。俺が知る訳ないじゃん。そんなの……」
井坂ははずみで口走ったのを悔いるように、慌てて打ち消した。
「たださ……」
狼狽した彼は落ち着きを取り戻すと、今度はまたしんみりとした顔つきで考え深げに話はじめた。
「普通に考えてさ……、今後の景気後退が懸念される局面で自国の通貨高を喜ぶ国なんて、まず聞いたことがないね。そういう意味では、本当に困っているのは日銀じゃなくて、アメリカの方なんじゃないかな」
井坂はアメリカの誰が困っているとまでは言わなかったが、隆三も「なるほど。確かにそれはそうだろう」と請け合った。
「だけど、何でそれで“ドル高”が“円安”になるの?」
話が横道に逸れかけた。雰囲気に乗ってこのままはぐらかされないよう、隆三は話の筋を元に戻した。
「まあ、単純にドル円が一番うま味があるからじゃないかな。ところがそれにかこつけて日本ダメダメ論を言い散らかして、自分だけいい気になる奴っているじゃん……」
自分が日本人であることなんかすっかり脇へ置いて、まるで外人気取りで上から目線の物言いをしてくる連中を、井坂は極度に蔑んだ。それこそ“島国根性”丸出しではないか--、というのが井坂の弁だった。
「 あくまで憶測なんだけどね……」
そこで井坂は話を区切った。自分なりの考えはあるが、それを他人に披露するには少し勇気が要る。その敷居をまたぐか否かで迷っている様子だった。
「長い目で見れば為替は“実質金利”に寄せてくるって話、聞いたことないか?」
「いや、ゴメン」
そう言われると、隆三は過去の自分の経験がいかに怪しかったかを反省させられる。やはり“餅は餅屋”だ。餅屋になれた井坂を羨ましく思った。
「実際、今年の3月からドル円相場はアメリカの5年もの実質金利にきれいに連動してきたんだ。そういうときは市場参加者がみんなでトレンドに追随するから、金融当局が介入したところで効果は期待できない」
「……」
井坂は相手かまわず一気にまくしたてるような口調で、金融記者らしい知見を語り始めた。
「意外に思えるかもしれないけど、為替の市場が金利で動いている間は相場が荒れているとは言わないんだ。むしろ“凪”なんだよね。凪の間はマスコミがなんと騒ごうと、日銀は沈黙を守っていた……」
話はだんだん難しい方へ向かっている。隆三はなんとか波から振り落とされないようにしがみついた。
「8月に“サマーラリー”と呼ばれる株高があってリスクマネーの動きが活発化したから、ドル円レートもやや円安方向へ下ぶれた。それでもこの基調には沿っていたんだ。流れが変わったのは9月に入ってからなんだよ……」
井坂は頭の中に実質金利や為替レートの動きを思い描きながら持論を展開している。隆三の中にはそれがないから、付いていくのに難渋した。
「実質金利が下降へ転じたにもかかわらず、円安基調がさらに進んだ。ここに“投機”の動きを見て取ったから、すかさず介入を匂わせはじめたんだと思うね。ここから先はかなり神経質な展開になると思うよ……」
「何かさ、今の話を裏付ける資料とかないの? あるなら分けてくれないか」
「フンっ、ただでか?」
そういわれれば二の句も告げない。湯水のごとく取材費を使えればいいが、恐らく無理だろう。そんな会社の体質を熟知しているからこそ、井坂は悪びれもせずに隆三を突き放した。
「そのくらい自分でつくれよ。ネットにいろんなデータが上がっているから、自分で拾うんだよ。楽していいなんか記事書けると思うな!」
隆三は苦笑いするしかなかった。確かに昔はそれが当たり前だった。しかし井坂が今でも職場の部下や後輩に同じような“指導”をしていたとするなら、さぞやパワハラ上司扱いされていることだろう。ひょっとしたら彼もまた、職場に持て余されている身なのかもしれない。
「おまちどうさま。のどぐろの炭火焼でございます」
店の女将が本日のメインディッシュを運んできた。
別名アカムツと呼ばれるこの魚は、かつて飲食店には見向きもされず食卓にすら上ることもなく、地元の漁師は海に放り捨てていたという話を聞いたことがある。それがいつの頃か、誰の仕掛けか知らないが、名前を変えて再起を図ったら突然スターダムに上り詰めた。今ではスポットライトを浴びながら颯爽と赤じゅうたんを闊歩する“高級魚”として鎮座している。
北海道では熊の餌にしかならなかったほっけが大衆酒場でもてはやされ、いつも間にか高級品まで現れたのを思い起こさせる。
「そうだな、何から話そうか……」
井坂はほろ酔い気分の頭を奮い起こすように、しばし考えを巡らした。
「うん……。先ず“円安”ってやつだけど……。ドルはユーロに対してもポンドや人民元に対しても上がっているから、これはあきらかに“ドルの独歩高”だよ」
円安はすなわち、円に対してドルが上がるのだからドル高だ。理屈上はそうなる。
「へぇー、じゃ何でそう言わないの?」
「何でだかね……。ホント、こっちが聞きたいよ。俺なんか会社ン中でそう言ってもさ、みんな苦笑いして『ジジイがまた何か言ってるぜ』って顔されるんだよな!」
井坂は日頃の鬱憤を同期にぶつけるような顔をしてみせた。にもかかわらず、次の瞬間には表情を変え、自分に言い聞かすようにつぶやいた。
「まあ、いろいろあるんだろうなぁ……」
「いろいろって、何が?」
極めて素朴な問い返しだが、腹に何かを抱えている人物に話を促すための、重要な触媒である。こうした掛け合いが会話に潤いをもたらす。
「例えば、黒田降ろしとか……」
「へぇっ、そんなのあんの?」
「例えばだよ、例えばっ……。俺が知る訳ないじゃん。そんなの……」
井坂ははずみで口走ったのを悔いるように、慌てて打ち消した。
「たださ……」
狼狽した彼は落ち着きを取り戻すと、今度はまたしんみりとした顔つきで考え深げに話はじめた。
「普通に考えてさ……、今後の景気後退が懸念される局面で自国の通貨高を喜ぶ国なんて、まず聞いたことがないね。そういう意味では、本当に困っているのは日銀じゃなくて、アメリカの方なんじゃないかな」
井坂はアメリカの誰が困っているとまでは言わなかったが、隆三も「なるほど。確かにそれはそうだろう」と請け合った。
「だけど、何でそれで“ドル高”が“円安”になるの?」
話が横道に逸れかけた。雰囲気に乗ってこのままはぐらかされないよう、隆三は話の筋を元に戻した。
「まあ、単純にドル円が一番うま味があるからじゃないかな。ところがそれにかこつけて日本ダメダメ論を言い散らかして、自分だけいい気になる奴っているじゃん……」
自分が日本人であることなんかすっかり脇へ置いて、まるで外人気取りで上から目線の物言いをしてくる連中を、井坂は極度に蔑んだ。それこそ“島国根性”丸出しではないか--、というのが井坂の弁だった。
「 あくまで憶測なんだけどね……」
そこで井坂は話を区切った。自分なりの考えはあるが、それを他人に披露するには少し勇気が要る。その敷居をまたぐか否かで迷っている様子だった。
「長い目で見れば為替は“実質金利”に寄せてくるって話、聞いたことないか?」
「いや、ゴメン」
そう言われると、隆三は過去の自分の経験がいかに怪しかったかを反省させられる。やはり“餅は餅屋”だ。餅屋になれた井坂を羨ましく思った。
「実際、今年の3月からドル円相場はアメリカの5年もの実質金利にきれいに連動してきたんだ。そういうときは市場参加者がみんなでトレンドに追随するから、金融当局が介入したところで効果は期待できない」
「……」
井坂は相手かまわず一気にまくしたてるような口調で、金融記者らしい知見を語り始めた。
「意外に思えるかもしれないけど、為替の市場が金利で動いている間は相場が荒れているとは言わないんだ。むしろ“凪”なんだよね。凪の間はマスコミがなんと騒ごうと、日銀は沈黙を守っていた……」
話はだんだん難しい方へ向かっている。隆三はなんとか波から振り落とされないようにしがみついた。
「8月に“サマーラリー”と呼ばれる株高があってリスクマネーの動きが活発化したから、ドル円レートもやや円安方向へ下ぶれた。それでもこの基調には沿っていたんだ。流れが変わったのは9月に入ってからなんだよ……」
井坂は頭の中に実質金利や為替レートの動きを思い描きながら持論を展開している。隆三の中にはそれがないから、付いていくのに難渋した。
「実質金利が下降へ転じたにもかかわらず、円安基調がさらに進んだ。ここに“投機”の動きを見て取ったから、すかさず介入を匂わせはじめたんだと思うね。ここから先はかなり神経質な展開になると思うよ……」
「何かさ、今の話を裏付ける資料とかないの? あるなら分けてくれないか」
「フンっ、ただでか?」
そういわれれば二の句も告げない。湯水のごとく取材費を使えればいいが、恐らく無理だろう。そんな会社の体質を熟知しているからこそ、井坂は悪びれもせずに隆三を突き放した。
「そのくらい自分でつくれよ。ネットにいろんなデータが上がっているから、自分で拾うんだよ。楽していいなんか記事書けると思うな!」
隆三は苦笑いするしかなかった。確かに昔はそれが当たり前だった。しかし井坂が今でも職場の部下や後輩に同じような“指導”をしていたとするなら、さぞやパワハラ上司扱いされていることだろう。ひょっとしたら彼もまた、職場に持て余されている身なのかもしれない。
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