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サンタヤーナの警句(第二十一話)
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二十一
その晩、隆三は湯船に浸かったまま天井を眺めていた。風呂場の湯気はゆらゆら立ち昇り、やがて消えていく。消えてなくなったはずの湯気がいつの間にか水滴となって天井からポタリと滴り落ちてきた。次の雫が落ちたら上がろう、いやその次の雫で上がろうなどと思う間に、どうやらのぼせてしまったようだった。
灯りの消えたダイニングのテーブルには冷めた夕飯が置いてあった。冷蔵庫から缶ビールを取り出し、明かりも着けずに黙々と箸を動かした。続き間となっているリビングのソファには、妻と娘が陣取ってテレビを眺めていた。画面に映し出されたお笑い芸人が素っ頓狂な声で何かを叫び、下卑た笑いがそれに続いた。
それは極平凡な日常の、あまりに見慣れた光景のひとつに過ぎないはずなのに、どうした訳か今日に限って無性に侘しかった。一つ屋根の下に暮らしながら、交わされない会話、通じない心--。感覚が麻痺してそれを変とも不思議とも思わなかったが、あらためて気づかされた。
これではいけないのだ……。
翌朝、隆三は人が変わったようにテキパキと取材の段取りを組んだ。
特集のメインテーマは「インフレ」だ。井坂が言った通り、インフレには景気の過熱によるデマンドプル・インフレとコストプッシュ・インフレがあり、コストプッシュ・インフレには価格の上昇にともなう価格インフレトともうひとつ、“賃上げ圧力”による賃金インフレがある。しかし欧米と異なり日本はパンデミック後の景気の立ち直りが遅かったから、インフレ要因は輸入価格の上昇に留まっている。今後も“円安”に歯止めがかからず1ドル160円だの180円になれば、スーパーの棚の値札も2度、3度と変わるだろう。そうなれば消費者の生活が成り立たなくなるから、賃上げ要求も高まっていく。そしてアメリカ同様に、賃金とインフレのスパイラルとなるだろう。
だからこそ、いま重要なのは輸入価格を左右する為替の動向なのだ。
「“円安”の背景と今後の見通しについて、主だったエコノミストや市場関係者からコメントをもらおう。今からアンケートでは間に合わないから、電話でもメールでも何でもいい。それを超円安派から穏健派、逆に円高説と並べてみるんだ。その上でもっと深掘りしたい先を絞り込んでインタビューする」
鉾田が出社する前に対象先をリストアップし、連絡先まで調べ上げていた。昔から証券業界の朝は早い。始業時間前にもかかわらず、片っ端から電話を掛けまくった。
そうして勇んで受話器を耳に当てたら、向こう側から「ジリリリリリリリ」とけたたましい音が飛び込んできた。
「ふわ~っ」っと大きく伸びをして目覚ましを止め、時計の針が6時半を指しているのを確かめた。
令和の時代は証券会社にも働き方改革が浸透している。そもそもよその会社から公式コメントをもらうのだから、広報へ依頼をしなければ話は始まらない。隆三独りが臨戦態勢で臨んでも、相手方はまだ営業時間外なのだ。
時計の針が9時を指した。先ずはメディアへの露出の多い外資系証券のアナリストへ白羽の矢を立てた。代表電話から広報の担当へつないでもらうと、同じ部署の女性が出てきて「あいにく担当者は本日午前、在宅勤務をさせていただいております」と答えてきた。だが先方はそつなく「お急ぎでしょうか?」と気をまわしてくれたので、「できれば--」と食い気味の態度を示した。結局、自分の連絡先を伝え、折り返し電話をもらうことで話が着いた。
「こういうときのテレワークってもどかしいよなぁ……。時差通期とかもさ……」
感染者数が増えても減っても、テレワークと時差通勤は“当たり前”という市民権を得た。それを承知の上でついブーたれるのが、この世代の悪いところだ。
「あら、この間は電車が空いて通勤が楽になったって喜んでいたじゃないですか」
パソコンのモニターの向こう側から鉾田の声がするのを期待したが、その席は空だった。
当の鉾田は本日テレワーク。昨日のことがしこりになっていないよう願いつつ、恐る恐るメールを送ってみたら、少なくとも返信の文面だけは尾を引いていないように思えた。まあ実際、尾を引いていたのは鉾田ではなく隆三の方だったのかも知れない。そこで割り切って、メールでコメント依頼をするよう指示を出した。
1時間ほど経って、例の証券会社から連絡が来た。先方の中で話がテレコになっていたようで、「取材は対面をご希望ですか? オンラインですか?」と聞いて来た。取り敢えずコメントのみのつもりだったが、取材を設定してもらえるのなら渡りに船だ。早速、今日の午後のアポイントが取れた。
その晩、隆三は湯船に浸かったまま天井を眺めていた。風呂場の湯気はゆらゆら立ち昇り、やがて消えていく。消えてなくなったはずの湯気がいつの間にか水滴となって天井からポタリと滴り落ちてきた。次の雫が落ちたら上がろう、いやその次の雫で上がろうなどと思う間に、どうやらのぼせてしまったようだった。
灯りの消えたダイニングのテーブルには冷めた夕飯が置いてあった。冷蔵庫から缶ビールを取り出し、明かりも着けずに黙々と箸を動かした。続き間となっているリビングのソファには、妻と娘が陣取ってテレビを眺めていた。画面に映し出されたお笑い芸人が素っ頓狂な声で何かを叫び、下卑た笑いがそれに続いた。
それは極平凡な日常の、あまりに見慣れた光景のひとつに過ぎないはずなのに、どうした訳か今日に限って無性に侘しかった。一つ屋根の下に暮らしながら、交わされない会話、通じない心--。感覚が麻痺してそれを変とも不思議とも思わなかったが、あらためて気づかされた。
これではいけないのだ……。
翌朝、隆三は人が変わったようにテキパキと取材の段取りを組んだ。
特集のメインテーマは「インフレ」だ。井坂が言った通り、インフレには景気の過熱によるデマンドプル・インフレとコストプッシュ・インフレがあり、コストプッシュ・インフレには価格の上昇にともなう価格インフレトともうひとつ、“賃上げ圧力”による賃金インフレがある。しかし欧米と異なり日本はパンデミック後の景気の立ち直りが遅かったから、インフレ要因は輸入価格の上昇に留まっている。今後も“円安”に歯止めがかからず1ドル160円だの180円になれば、スーパーの棚の値札も2度、3度と変わるだろう。そうなれば消費者の生活が成り立たなくなるから、賃上げ要求も高まっていく。そしてアメリカ同様に、賃金とインフレのスパイラルとなるだろう。
だからこそ、いま重要なのは輸入価格を左右する為替の動向なのだ。
「“円安”の背景と今後の見通しについて、主だったエコノミストや市場関係者からコメントをもらおう。今からアンケートでは間に合わないから、電話でもメールでも何でもいい。それを超円安派から穏健派、逆に円高説と並べてみるんだ。その上でもっと深掘りしたい先を絞り込んでインタビューする」
鉾田が出社する前に対象先をリストアップし、連絡先まで調べ上げていた。昔から証券業界の朝は早い。始業時間前にもかかわらず、片っ端から電話を掛けまくった。
そうして勇んで受話器を耳に当てたら、向こう側から「ジリリリリリリリ」とけたたましい音が飛び込んできた。
「ふわ~っ」っと大きく伸びをして目覚ましを止め、時計の針が6時半を指しているのを確かめた。
令和の時代は証券会社にも働き方改革が浸透している。そもそもよその会社から公式コメントをもらうのだから、広報へ依頼をしなければ話は始まらない。隆三独りが臨戦態勢で臨んでも、相手方はまだ営業時間外なのだ。
時計の針が9時を指した。先ずはメディアへの露出の多い外資系証券のアナリストへ白羽の矢を立てた。代表電話から広報の担当へつないでもらうと、同じ部署の女性が出てきて「あいにく担当者は本日午前、在宅勤務をさせていただいております」と答えてきた。だが先方はそつなく「お急ぎでしょうか?」と気をまわしてくれたので、「できれば--」と食い気味の態度を示した。結局、自分の連絡先を伝え、折り返し電話をもらうことで話が着いた。
「こういうときのテレワークってもどかしいよなぁ……。時差通期とかもさ……」
感染者数が増えても減っても、テレワークと時差通勤は“当たり前”という市民権を得た。それを承知の上でついブーたれるのが、この世代の悪いところだ。
「あら、この間は電車が空いて通勤が楽になったって喜んでいたじゃないですか」
パソコンのモニターの向こう側から鉾田の声がするのを期待したが、その席は空だった。
当の鉾田は本日テレワーク。昨日のことがしこりになっていないよう願いつつ、恐る恐るメールを送ってみたら、少なくとも返信の文面だけは尾を引いていないように思えた。まあ実際、尾を引いていたのは鉾田ではなく隆三の方だったのかも知れない。そこで割り切って、メールでコメント依頼をするよう指示を出した。
1時間ほど経って、例の証券会社から連絡が来た。先方の中で話がテレコになっていたようで、「取材は対面をご希望ですか? オンラインですか?」と聞いて来た。取り敢えずコメントのみのつもりだったが、取材を設定してもらえるのなら渡りに船だ。早速、今日の午後のアポイントが取れた。
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