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サンタヤーナの警句(第四十四話)
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四十四
数日後--。
隆三は春日とともに永田町の衆議院会館内にある権田省吾の事務所を訪れた。黒服の秘書はこの日も黒い背広を着ていた。
「現在各国で中央銀行デジタル通貨(CBDC)の実証実験が行われているのは周知のことと思う。だがこれは先ず国民通貨のデジタル化に関する議論だから、取り合えず脇へ置いておく」
この日の権田は、抽象的な「通貨制度の在り方」から一歩踏み出して、具体的、技術的な話へと転じていった。
「すでにIMFと一部中央銀行との間では、ブロックチェーン技術を用いたクロスボーダー決済の共同研究が進んでいる。これまで国際間の資金決済はSWIFT(国際銀行間通信ネットワーク)が独占的地位を占めてきたが、この組織は“親方日の丸”の体質だから利害が複雑に絡んでどうしても非効率になる」
SWIFTや友好銀行間(コルレス)の直接取引、クレジットカード・ネットワークや送金業者などが手にする送金手数料は、毎年約450億ドルに上るという。ヨーロッパの紛争に絡んでロシアを排除したことで一気に知名度の上がったSWIFTだが、この稚拙な制裁が却って国際決済ネットワークを“分断”の脅威に晒すという致命的な誤りを犯した。
今回の事態が起こる前から、鈍重で手数料の高いSWIFTは利用者たちから不人気だった。このため民間ベンチャー企業らを中心に“脱SWIFT”の動きが粛々と進んでいたという事実がある。それだけに低コストで世界をつなぐ決済網の再構築が喫緊の課題となっている。
「低コストで信頼性の高いクロスボーダー決済の恩恵は、すでに通貨を統一したユーロ圏よりも各国の文化や制度が多岐多様に異なるアジア諸国の方が多く甘受できる。より多様性に富んだこの地域で日本がイニシアチブを取れば、いずれはユーロ圏やその他の世界を取り込むことになるだろう。アメリカは恐らくドルの特権に固執して、最後までネットワークに加わらないかも知れない。だがその頃にはドルの地位など地に落ちている」
権田の野望は果てしなかった。しかし、それは隆三が描く国際通貨体制の改定とは似ても似つかぬ代物だった。
「私は日本が“通貨覇権”を握るなどという野心を抱いたことはありません。通貨の問題は極めて関係諸国の“信認”の上でしか成り立たないというのが私の信条です。日本が独り野心をたくましくなどしたら、まとまる話もまとまらないでしょう」
「これは“国益”なんだよ。IMFだって結局は職員を派遣している母国の利害を代表しているのだし、すべては権益なんだ」
「国益も結構ですが、通貨に“私情”は禁物です。それだけは曲げられません」
隆三は片意地を張る青年のように言い張った。
「君の意見は求めていない。とにかく君にやってもらいたいのは、遠からずやってくる『ドルの危機』に合わせて新たな決済ネットワークへと世論を誘導してもらうことだ」
権田は隆三の意思なんて歯牙にもかけていない--というほど一方的な口調で“命令”した。
「国際通貨制度改革の旗振り役となれば財務大臣の椅子は約束されたも同然だ。その勢いのまま次の総裁選へ打って出る。君の書く記事が権田先生を総理大臣の椅子へと導くんだから、やり甲斐のある話じゃないか」
春日は横目でチラチラ権田のご機嫌伺いをしつつ、隆三を説得した。その姿は急に彼を小さく見せた。
何だ、これは--? 最初から仕組まれていたというのだろうか? なんの因果でこうなったのか--? 隆三は記憶を巡らせたがどこで岐路の選択を誤ったのか、分からなかった。
「国際通貨制度の改革に掛ける権田さんの情熱は、“善意”で受け止めたいと思います。しかし、私はあくまで“私”のやり方でやらせてもらうつもりですこれまで色々とありがとうございました」
そう言って隆三は、深々と頭を下げた。
「おいっ、羽柴……。今さら何を言うんだ!」
春日が慌てて引き留めにかかったが、隆三はまっすぐ出口へと向かった。その背中へ権田が冷淡に投げかけた。
「不思議だと思わないのかね?」
謎かけのような言葉に、隆三の足を止め振り返った。
「はっ」--?
権田は何の感情も籠らない凍った目で隆三を見つめ返し、含み笑いを込めた口調で言い放った。
「君や井坂君のような“虫けら”ごときの書いた記事が、急に世間で持て囃されるなんて、不思議だとは思わないのかね--と聞いたんだ」
これまでの出来ごとはすべて、権田や春日が裏で糸を引いていたというのか--。権田の言葉には捨て台詞以上、脅迫未満の威圧が籠っていた。それだけ言うと、権田はもう用はないといった風に顔をそむけた。
数日後--。
隆三は春日とともに永田町の衆議院会館内にある権田省吾の事務所を訪れた。黒服の秘書はこの日も黒い背広を着ていた。
「現在各国で中央銀行デジタル通貨(CBDC)の実証実験が行われているのは周知のことと思う。だがこれは先ず国民通貨のデジタル化に関する議論だから、取り合えず脇へ置いておく」
この日の権田は、抽象的な「通貨制度の在り方」から一歩踏み出して、具体的、技術的な話へと転じていった。
「すでにIMFと一部中央銀行との間では、ブロックチェーン技術を用いたクロスボーダー決済の共同研究が進んでいる。これまで国際間の資金決済はSWIFT(国際銀行間通信ネットワーク)が独占的地位を占めてきたが、この組織は“親方日の丸”の体質だから利害が複雑に絡んでどうしても非効率になる」
SWIFTや友好銀行間(コルレス)の直接取引、クレジットカード・ネットワークや送金業者などが手にする送金手数料は、毎年約450億ドルに上るという。ヨーロッパの紛争に絡んでロシアを排除したことで一気に知名度の上がったSWIFTだが、この稚拙な制裁が却って国際決済ネットワークを“分断”の脅威に晒すという致命的な誤りを犯した。
今回の事態が起こる前から、鈍重で手数料の高いSWIFTは利用者たちから不人気だった。このため民間ベンチャー企業らを中心に“脱SWIFT”の動きが粛々と進んでいたという事実がある。それだけに低コストで世界をつなぐ決済網の再構築が喫緊の課題となっている。
「低コストで信頼性の高いクロスボーダー決済の恩恵は、すでに通貨を統一したユーロ圏よりも各国の文化や制度が多岐多様に異なるアジア諸国の方が多く甘受できる。より多様性に富んだこの地域で日本がイニシアチブを取れば、いずれはユーロ圏やその他の世界を取り込むことになるだろう。アメリカは恐らくドルの特権に固執して、最後までネットワークに加わらないかも知れない。だがその頃にはドルの地位など地に落ちている」
権田の野望は果てしなかった。しかし、それは隆三が描く国際通貨体制の改定とは似ても似つかぬ代物だった。
「私は日本が“通貨覇権”を握るなどという野心を抱いたことはありません。通貨の問題は極めて関係諸国の“信認”の上でしか成り立たないというのが私の信条です。日本が独り野心をたくましくなどしたら、まとまる話もまとまらないでしょう」
「これは“国益”なんだよ。IMFだって結局は職員を派遣している母国の利害を代表しているのだし、すべては権益なんだ」
「国益も結構ですが、通貨に“私情”は禁物です。それだけは曲げられません」
隆三は片意地を張る青年のように言い張った。
「君の意見は求めていない。とにかく君にやってもらいたいのは、遠からずやってくる『ドルの危機』に合わせて新たな決済ネットワークへと世論を誘導してもらうことだ」
権田は隆三の意思なんて歯牙にもかけていない--というほど一方的な口調で“命令”した。
「国際通貨制度改革の旗振り役となれば財務大臣の椅子は約束されたも同然だ。その勢いのまま次の総裁選へ打って出る。君の書く記事が権田先生を総理大臣の椅子へと導くんだから、やり甲斐のある話じゃないか」
春日は横目でチラチラ権田のご機嫌伺いをしつつ、隆三を説得した。その姿は急に彼を小さく見せた。
何だ、これは--? 最初から仕組まれていたというのだろうか? なんの因果でこうなったのか--? 隆三は記憶を巡らせたがどこで岐路の選択を誤ったのか、分からなかった。
「国際通貨制度の改革に掛ける権田さんの情熱は、“善意”で受け止めたいと思います。しかし、私はあくまで“私”のやり方でやらせてもらうつもりですこれまで色々とありがとうございました」
そう言って隆三は、深々と頭を下げた。
「おいっ、羽柴……。今さら何を言うんだ!」
春日が慌てて引き留めにかかったが、隆三はまっすぐ出口へと向かった。その背中へ権田が冷淡に投げかけた。
「不思議だと思わないのかね?」
謎かけのような言葉に、隆三の足を止め振り返った。
「はっ」--?
権田は何の感情も籠らない凍った目で隆三を見つめ返し、含み笑いを込めた口調で言い放った。
「君や井坂君のような“虫けら”ごときの書いた記事が、急に世間で持て囃されるなんて、不思議だとは思わないのかね--と聞いたんだ」
これまでの出来ごとはすべて、権田や春日が裏で糸を引いていたというのか--。権田の言葉には捨て台詞以上、脅迫未満の威圧が籠っていた。それだけ言うと、権田はもう用はないといった風に顔をそむけた。
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