ぼくのおとうと

有箱

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ぼくとげんじつ

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「ヨウ! 外に出てなさい!」

 怒鳴り声が響いた。窓外を指差した小母さんは、鬼のような顔をしている。

「はい、ごめんなさい」

 今日も、言いつけ通りに出来なかった。炊事も洗濯も、気をつけてはいるが中々完璧にこなせない。まだまだ精進する必要がありそうだ。

『僕も行く』
「ありがとう、キイくん」

 窓から出る僕の後ろを、キイくんは付いてきた。
 キイくんは、いつも僕に寄り添ってくれる。小母さんからの罰も、全て一緒に受けてくれた。

 外に出ると、小母さんが内から鍵を閉めた。冷たい風が、早速体に纏わり付く。塀に覆われた庭からは、景色が全く見えなかった。

「いつもごめんね、痛くない?」

 キイくんの腕部分を見遣る。小さな一箇所だが、皮膚が削れて剥がれていた。僕を庇った結果の傷だ。

『痛くない。ヨウくんは』

 そして、僕の腕にも同じ傷がある。僕の場合は、赤黒い痣と化していた。
 小母さんはいつも、僕を叩けるまで止まらない。本当に怖い人だ。だが、それは全て――。

「大丈夫だよ」
『小母さん、心冷たい』
「ううん、違うよ。小母さんが怒るのは僕の所為だからね。だから冷たくないよ」
『そう』

 庭の土に腰を落とし、膝を抱いた。隙間が減っても、風は容赦なく体温を奪う。白い息が空気に溶けた。

「……寒いね」

 不意に、キイくんが距離を寄せる。そうして無言で肩をぶつけてきた。伝わる温度は冷たい。

『明日、頑張ろう』
「うん!」

 けれど、一緒に居るだけで強くなれた。



 それでも、中々上手くは行かなかった。毎日のように怒られて、殴られた。僕にも傷が増え、ほとんど同じだけキイくんにも傷が出来た。

「キイくん、大分傷が増えちゃったね」

 リードを持ち、数歩先を歩いていたキイくんが止まった。犬の力を物ともせず、振り返って僕を見る。着ている衣類はボロボロだ。

『ヨウくんのは減ってる。不思議』

 破れた場所から覗く配線が、傷の深さを物語る。その姿に、目を背けたくなった。

「僕は怪我しても治るからね。キイくんは治らないの覚えててね」

 今の家に来てから、あからさまに傷が増えた。このままでは、いつか壊れてしまうのでは――そう思わせる早さだ。

『分かった。あ』

 不安を他所に、キイくんが何かに反応した。向かった視線の先を追うと、ニナさんが手を振っていた。マルの尻尾も揺れている。

 キイくんもニナさんが好きなのか、少し早足で駆けて行った。僕も急いで後を追う。

「こんばんは。今日は二人ね。良かったね」
『良かった』
「ニナお姉さんこんばんは! 今日も会えて良かった! 僕この時間が一番好き!」

 溌剌と声をあげると、ニナさんは笑ってくれた。柔らかな笑顔に、癒されて心休まる。
 大好きな時間になったからか、不安は陰に隠れた。

「ありがとう。私も好きよ」
『僕も』

 同じ答えが出た事で、自然と唇が綻ぶ。三人で向かい合って、冷たい手でハイタッチした。



「――そうだ、お家では何もない? 大丈夫?」

 話しながら歩いていると、ニナさんが尋ねてきた。ニナさんも、キイくんの傷を気にしているのかもしれない。

「大丈夫、何時も通りだよ!」
「辛いこととかない? 怪我、また増えてるように見えるけど……」
「こんなの普通だよー!」
「……そう、あ」

 ニナさんは、持っていた鞄を漁りだす。そうして、直ぐに一枚の紙とペンを取り出した。サラサラと何かを記入している。

「何かあったら家に来て」

 差し出されたのは地図だった。ただ、地形の知識が浅い所為で理解は出来ない。

 ニナさんは、地図を折り畳んで僕の前に差し出した。だが、小母さんの言いつけが頭を過ぎる。

「ありがとう。でも、貰っちゃいけないからごめんね」
「これも駄目?」

 ニナさんは、またも苦い顔をした。どうしてそんな顔になるのか、僕にはやっぱり分からなかった。

「うん! じゃあまたね!」

 外灯を超えた曲がり角、手を振り合う。澄み切った空気の中、星空が燦々と輝いていた。



 いつものように洗い物をしていると、付近から甲高い音が鳴り出した。やかんが鳴いている。お湯の沸騰を知らせているのだ。

 悴み、泡だらけになった手を止める。泡を水で流そうとした矢先、声が聞こえた。

『淹れる』
「ありがとう。じゃあ頼むね」

 自ら役を買ったキイくんは、定位置から珈琲豆を取り出した。今から、小母さんリクエストの珈琲を淹れるのだ。

 手順は、既に完璧だ。その方法を伝授してある為、キイくんも完璧に淹れられる。狭いキッチンには、芳しい香りが充満した。

 ゆっくりとドリップした珈琲を、キイくんがリビングに運ぶ。その様子を目で見送り、洗い物を再開した。

 ――だが、その数秒後、突然音と声が響いた。癇癪を起こした小母さんの声と、カップの割れる音だ。

 急いで水を止め、湿った手を服で拭う。慌ててリビングに顔を出すと、床で粉々になったカップが目に入った。

 そして、右目を抑えたキイくんも目に入る。手の隙間からは、少量の水分が滴っていた。

「キイくん!」
「ヨウ! 何やらせてんのよ!」

 何があったのかは分からない。だが、良くない事が起きているのは確かだ。

「小母さんごめんなさい! キイくん大丈夫!? 目に入っちゃったの!?」

 心が酷く焦っている。二人を交互に見ながらも、キイくんのことばかりが頭を飽和した。

『平気。見えない方に入っただけ』

 無事な方の瞳が僕を見る。澄んだ色が、小さな安堵を与えた。

「そんな玩具の心配して気持ち悪い! ヨウ、ここ綺麗にしときなさいよ!」
「……はい」

 小母さんは、厭きれた様子でリビングを出る。勢い良く閉ざされた扉が、轟音を響かせた。

『ねぇ』

 声と同時に、キイくんの手が僕の手に触れた。氷のような冷たさも、今日は気にならない。
 不意に引き寄せられた手は、そのまま瞳に乗せられた。

 水を浴びた瞳は、ほんのりと熱を帯びている。発熱を知り、背筋が凍った。だが。

『ヨウくんみたいに、温かいある』

 その言葉に、恐怖は解けた。

「……本当だ。キイくん、他はどこも可笑しくない?」
『ない。ヨウくん、温かいなった?』
「……うん」

 その温もりは、冷水で悴んだ手に優しく馴染む。その熱が浸透したのか、心まで温められていた。
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