ママだいすきだよ

有箱

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何かが崩れていく

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「幼稚園行ってくるね」

 夢現を彷徨っていた脳に、最後に入ってきたのはそんな囁きだった。唐突な報告に驚いて飛び起きる。

「えっ、ちょっと待って一緒に……」

 さすがに、一人で行かせては親失格だ。そんな思いをバネに体を起こしたものの、機敏には動けなかった。

「大丈夫、マコ行けるよ。だからママはお休みしてて。じゃあ行ってきまーす!」

 バタバタと騒ぐ小さな足音が、扉の閉まる音と共に消える。
 呆気なく取り残され、再び脱力した。

 仕事を始めて、約八ヶ月が経つ。職務に関しては随分と慣れた。だが、裏腹に疲れや焦りが湧いてきて、正直な話、気の休まる時間が無かった。

 想定してはいたが、簡単に給料は上がらない。ギリギリの生活に変化は訪れない。
 それどころか、疲れの所為で出来ない事が増え、気持ちが落ち込んでいる。最近は休みを取得する力さえ失せ、行事の参加も疎かになっていた。

 マコには、本当に無理ばかりさせている。
 今では冷凍おかずの調理法も覚え、洗濯物まで畳めるようになった。わがままの数も減って、私を気遣っているのが目に見えた。

 不自由はさせたくないと思っていたのに。これでは親失格だ。

「……とりあえず、今日も仕事頑張ろ……」

 持ち上げた体は、鉛のように重かった。



 衣類を畳みながら転寝していると、服の袖が引っ張られた。振り向くと、パジャマ姿のマコが目を擦りながら立っていた。

「ねぇママ、金色のクレヨンが欲しい……」

 恐らく寝る直前に思い立ったのだろう、大きな欠伸まで繰り出した。

「金色の? 黄色じゃ駄目?」
「うん、金色が良いの……」

 そう言えば、マコが物をねだるのは久しぶりな気がする。天使の絵でも描きたいのかもしれない。

 直ぐにでも買ってあげたかったが、事情が回答を邪魔した。マコを傷つけないよう、伝える為の柔らかい言葉を手繰る。

「分かったよ。でも、この間お店行ったばかりだからまた今度ね」

 実は、生活用品を売る店――私たちは、食べ物のない店と呼んでいる――は徒歩圏内にない。車で走れば存在するが、生憎所有していなかった。

 だから月に一度、電車で買い出しに行っていたのだが、つい先日行ったばかりだったのだ。

「今すぐ欲しい!」

 事情を露ほども知らないマコは、真剣に訴えてくる。だが、濁すことしか出来なかった。仕事帰りにでも行けば良いのに、遠出を体が拒否している。

「ごめんね、今度まで我慢してね」

 困り笑いで断ると、マコは無言で頷いた。その瞳は暗かった。
 どうしようもない申し訳なさが立ち込めたが、抗う術もなくただ飲み込んだ。



 休憩時間になり携帯を確認すると、幼稚園から一本の電話が入っていた。

 その通知に、心配から来る焦りと、中抜けを求められるかもしれないとの嫌悪感が湧き、蟠る。だが即刻折り返した。

「……もしもし。直ぐに出られなくてすみません。お電話なんだったでしょうか?」

 緊張気味に問うと、聞き覚えのある先生の声が聞こえた。迎えに行くと、いつも見送ってくれる先生だ。

『こちらこそ突然すみません。何か一大事があったわけではないのですが、少しお伝えしたいことがありまして』

 仕事柄のはっきりとした口調は、内容を読ませない。しかし、敢えて掛けてくるくらいだ。特別な要件である事に違いはないだろう。

「……はい」
『マコちゃんから何かお話は聞いていますか?』

 加えてこれだ。嫌な予感しかしない。

「いえ、何も……いつも通りですが」
『そうですか。実はマコちゃん、幼稚園で嫌なことを言われていまして。その主な内容がお弁当やご家庭のことなんです』

 さらりと語られた内容は衝撃的だった。そんな素振り全く見せなかったのに。
 ――いや、私がマコを見ていなかっただけか。

『お母さんがお仕事大変なのは分かっているのですが、マコちゃんの為にもう少し頑張ってもらえませんか? 行事の参加なども、可能な限りして頂けたらと思うのですが』

 先生の言葉が、胸にずしりと圧し掛かった。そのまま沈み込み、心を押し潰してゆく。

「……はい、分かりました。態々すみませんでした……」

 電話が切れた時、私は泣いていた。



 幼稚園からの帰り道、手を繋いで帰る。けれども終始無言で、何かを尋ねることは出来なかった。

 そう言えば、最近あまりマコと話をしていない。本を読む習慣も廃れ、半ば別々で生活していた。

 愛しい愛しい娘なのに。守るべき存在なのに。

「……今日は金曜日だね。久しぶりに天使さんの本を読もうか」
「読んでくれるの!? 嬉しい!」

 マコは、体の全てで喜びを表現した。煌く瞳を見るのは、随分と久々な気がする。

「……あと、明日からはちゃんとお弁当頑張るね」

 誓いを兼ねた発言を耳に、マコはきょとんと瞳を丸くした。だが、純粋に嬉しかったのだろう、再び笑った。

 この子の為に頑張らなきゃ。だって私は母親なのだから。
 頑張るのは当然のことなのだから。

 笑顔を前に、自分に言い聞かせた。心の中は、霧が掛かったようにくすんでいたけれど。
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