君に咲く花

有箱

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 ガタガタと玄関を通り過ぎる、忙しい音が耳に届く。リビングの机に大きな買い物袋を下ろす音、片付けもせず近付いてくる足音―――――。

「おかえり、シン」

 恒例通りカノンは、次なる行動を見兼ね上体を起こした。完全に起こしきっていない状態にも拘らず、シンが強い力で包み込む。
 薄くなったコートを、身に纏ったまま震えていて、絶え間ない吐息が耳を掠める。

「おつかれさま、いつもありがとう」

 背中に食い込む爪が、精神の混乱を悟らせる。

「…シ、シン、良いよ」

 抱きしめられ苦しい中で発するも、シンは聞こえないのか行動を起こそうとしなかった。

「…シン…?」

 それどころか、震えも呼吸もまだ収まらないのに、急に立ち上がりリビングへと戻って行ってしまったのだ。

「………………え…?」

 カノンは、後姿の消えた扉に向かって、驚きの声をあげる他無かった。



 シンは頭を抱えて、苦しさと戦っていた。
 エルの残した言葉には、はっきりとしない曖昧さがあったが、シンは意味を痛く理解していた。

 このまま傷付け続ければ、いつかカノンは死ぬ。

 前から、想定内に無かった訳ではない。しかし、過剰な想像だと流していたのは事実だ。

 今の時点でも、死に繋げるのは行き過ぎかもしれない。しかし、体か心がおかしくなってしまうのは免れられない、と彼は言っていたのだろう。

 医師である、エルが断言するのだ。
 きっと既に、想像だけで留めてはいけないほど、深刻な状態にあるのだろう。

 シンは、既に追い詰められていた心の中に突きつけられた、大きな問題に対処しきれずに、カッターの刃を無意識に全て突き出した。



「…シン……!」

 気付けばそれは、手の平を突き刺していた。じわじわと、痛みと血が広がってゆく。
 目の前で範囲を広げる赤い血が、少しずつ少しずつ、心を溶かす。

「何してるの!手当て!手当てしなきゃ!」

 うろたえて、涙目で辺りを見回すカノンには目もくれずに、シンは唯、流れるままの血を見詰める。
 だが、すすり泣く声が聞こえて、漸くその顔を上げた。

「…カノン、大丈夫だ」

 嗚咽を鳴らして泣くカノンは、ぎゅっと目を逸らして傷口から目を逸らしている。
 久しぶりに見た様子から、出会った頃を思い出した。

 シンはカッターナイフを勢いよく抜くと、手の平から溢れ出す血を口で塞ぐ。甲から流れ出す血は、右手で押さえつけた。

「…シン、なんで…」

 そう言ったカノンは、ふっと目を閉じると、そのまま床へと姿を消した。



 宙に浮く足が、ゆらゆらと揺れている。小さな椅子が、倒れた状態で向こう側に落ちている。
 全体を見ずとも容易に想像できた場景に、一気に恐怖感と緊張感が背筋を駆け上る。

 見たくないはずの景色から、どうしてか目を背けられず、怖ず怖ずと視線を上げてゆく。
 足の指先から、辿ったその先には――――。


 はっと目覚めると、何時もの無表情で、シンがカノンを見ていた。
 目は覚ましたと自覚しているのに、悪夢の延長上にあるかのように呆然としてしまう。

「大丈夫?」
「…う…」

 カノンは、また泣いてしまっていた。声を形にしようとしても、嗚咽が邪魔して何も出せない。

「どうしたの?」

 カノンは、必死に首を横に振る。血で汚れたシーツの上に、透明の雫が落ちて、薄く色が滲む。

「ごめんね」

 深みも何もない平坦な謝罪は、一見本心には聞こえない。
 しかし、その――――不器用に包帯の巻かれた手の指先が涙を掬う行動から、本心であると伺えた。
 傷を隠す行為が、そう思わせた。



「……シンどうしたの?最近可笑しい…」

 冷静さを取り戻したカノンは、凝視し続けてくるシンから目を逸らす事もなく、尋ねていた。

「ごめん」
「……自分を傷つけるのは止めてよ……そんなの見たくないよ…」

 シンは、必死に訴えてくるカノンから目を逸らしてしまった。視線こそ向けないが、焦点は足の傷へと向かう。

「…お願い、僕を傷つけて…その為に僕がここにいるんだよ…」

 葛藤は消えない。けれど。

「……分かった」

 そこまで傷を見たくない理由が未だに分からず、納得出来ない部分もありながら、シンはカノンの願いならと受け容れた。
 自分にとっても、都合が良いのだ。受け容れない理由は、どこにも――――。

 シンは、今まで別の理由に埋もれて気付かなかった理由の一つに、自分自身唖然としていた。



「…シン、良いよ」

 襟を引き首元を露出させたカノンは、瞳を潤ませ艶っぽい笑顔を宿している。
 シンは、体が震え息があがってしまっている事を、そこで漸く自覚した。

 先は見ない。理由も、今は知らなかった振りをする。
 それで丸く収まるならば、自分にもカノンにもデメリットは無いはずだ。

 シンは、箪笥にあったカッターナイフを手に取り、露にされた首筋に宛がうと、ゆっくり引いた。


 カノンは横で眠りに付いたシンを見詰めながら、一人闇の中考えていた。
 シンが、自身を傷つけるに至った理由を、だ。

 体調不良を気遣って、というシンプルな理由が真っ先に浮かんだが、それは前からよくある事で日常的なひとコマだと言っても過言ではない。

 今更気にするとも思えないし、何より、自傷を見るのが何より嫌いだとシンも知っているはずなのに。
 それなのに、なぜ。

 首筋に触れると、凝固しつつあった血が、少しだけ指先に付着した。
 最終的には答えに辿り着かずに、眠気に負け眠ってしまった。
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