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【2】
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◇
樹野は上の空で、珈琲をカップに注いでいた。満たされてゆく白い空間を、放心状態で見詰め続ける。
「八坂さん、零れそう!」
「わっ!」
丁度通りかかった同僚に指摘され、何とか零れる前にポットの傾きを戻せた。
樹野は反射的に、恥ずかしさで頬を染め謝罪する。
「上の空だね、大丈夫?」
「…だ、大丈夫です、すみません…」
同僚は下げてきた皿を、流し台に優しく置いた。流し台には、洗浄を待つ皿が何枚も重ねられている。
樹野は、直ぐ横に置いておいたカップにも、コーヒーを注ぎ始めた。今度こそは、注意して。
同僚は洗剤をスポンジに噴射し、皿に擦りつけてゆく。
「八坂さんは考えすぎる性格みたいだから、たまには流してみるのもいいと思うよ。見ててたまに心配になる」
始めて聞いた同僚の意見に、樹野は更に赤面した。
「…わ、私そんなに顔に出てますか…」
「顔に出てるって言うか、態度に出てる?」
「…そ、そうなんですか、すみません…」
樹野は、用意出来た飲み物二つを右手のお盆に乗せ、もう片手には、生クリームがあしらわれたパンケーキが乗ったお盆を持った。
同僚の見解が、引っかかる。
自分ではあまり気付いていなかったが、どうやら自分は悩み事があると態度に表れてしまうらしい。
考えてみれば、よく依仁に心配されていた、気もする。
そうであれば、自分が悩んでいるのは既に悟られているのかもしれない。
そして、心配もさせているかもしれない。
だったら尚更、ちゃんと話した方が良いよね。
樹野は、気持ちに対立して立ちはだかる、自分の自覚している性格に僅かに苛立ちながら、冷蔵庫の前、誰も見ていない場所で小さく溜め息を付いた。
◇
薄く目を開いた鈴夜の、目前に歩が見えた。
歩は、鈴夜の視線が自分を捕らえたのに気付くと、にっこりと微笑む。
「大丈夫かな?」
「…はい、すみません…」
あの後、明灯に支えられ会社の玄関まで来た。予め連絡でも受けていたのか直ぐに歩がやってきて、休憩室へと連れて来て貰い、促されるがまま仮眠を取った。
その流れを、ぼんやりと思い出す。
暫く呆然としていた鈴夜だったが、自分の頭が歩の腿に支えられていると急に自覚した。膝枕、と言うやつだ。
ソファをベッドに、歩を枕にしていたとは恐れ多い。
「す、すみません!」
鈴夜は、勢い良く上体を起こした。
急に頭を振った事により眩暈が襲い、反射的に手の平で頭を支えた。
「だ、大丈夫か?」
「……すみません、折原さん仕事大丈夫ですか…?こんなに付き合ってもらって本当に申し訳ないです…」
「大丈夫だよ、鈴夜くんが思っているほど時間も経っていないしね」
時計を指差され時間を確認し、感覚のずれを知る。随分と眠ったように思えたのだが、実際はそうでもないようだ。
「……良かった」
「……あまり眠れないのかな?」
歩は、悲しげな表情で鈴夜の頭を撫でた。
子ども扱いされている感覚は否めないのだが、それを包めても、やはりこの行為は自分を落ち着かせてくれる。
「………そう…ですね…。実はあまり眠れてないんです…少し心配事があるだけ、なんですが…」
控え目に発言しておいて、不図台詞に聞き覚えがあるのに気付いた。
いつかは忘れてしまったが、随分前、歩が零していた台詞とよく似ている。
あの時の問題は、今はもう解決したのだろうか。
「…そうか、大変そうだな、無理だけはするなよ」
「…はい、有り難うございます…」
鈴夜は配慮を受け容れつつも、無意識に虚勢を張った。
その後鈴夜は無事仕事に―――勿論無理をした状態でだが、復帰する事が出来、定時まで忙しく働いた。
帰りを歩にお願いすると、途中である仕事を止め、快く受け容れてくれた。
肯定はお願いする前から見えていたが、それでもやはり申し訳なさは拭えなかった。
久しぶりに、一人の部屋に帰る気がする。
あの日以降、殆ど淑瑠が側か家に居てくれた為、空しい空気を味わう機会が無かったのだ。
「…ただいまー…」
前は癖だった挨拶をしてみたが、返らない返事の寂しさは深く、改めて自分が守られているのだと感じた。
孤独は、とても怖い。誰かと過ごす事もまた違った恐怖を生むが、それでもやはり誰かが隣にいてくれるというのは、自分にとって守りになっていたようだ。
緊張の糸が解れ、大きく溜め息を吐き椅子に座った時、淑瑠からメールが入った。
[返事が遅くなってごめんね、ちゃんと着いたかな?]
鈴夜は文字を追いながら、今までの淑瑠との日々を思い返していた。
考えてみれば、ずっとずっと自分の事ばかり気にかけていてくれた気がする。
鈴夜は湧き上がる気持ちを、そっとメッセージに込めた。
[今家に着いたよ。淑兄いつもありがとう、淑兄が居てくれて本当に良かった(^^)]
◇
依仁は長引いた仕事を終え、車に乗り込もうとしている所だった。
不意に感じた気配に振り向く。が何もない。有るのは、まだ中から賑やかな声を響かせる、灯りの灯った事務所だけだ。
今日一日で、何度か似たような気配を感じた気がする。だが、何度振り向いても誰もいないのだ。
気の所為かと軽く流し、依仁は車に乗り込んだ。
樹野は上の空で、珈琲をカップに注いでいた。満たされてゆく白い空間を、放心状態で見詰め続ける。
「八坂さん、零れそう!」
「わっ!」
丁度通りかかった同僚に指摘され、何とか零れる前にポットの傾きを戻せた。
樹野は反射的に、恥ずかしさで頬を染め謝罪する。
「上の空だね、大丈夫?」
「…だ、大丈夫です、すみません…」
同僚は下げてきた皿を、流し台に優しく置いた。流し台には、洗浄を待つ皿が何枚も重ねられている。
樹野は、直ぐ横に置いておいたカップにも、コーヒーを注ぎ始めた。今度こそは、注意して。
同僚は洗剤をスポンジに噴射し、皿に擦りつけてゆく。
「八坂さんは考えすぎる性格みたいだから、たまには流してみるのもいいと思うよ。見ててたまに心配になる」
始めて聞いた同僚の意見に、樹野は更に赤面した。
「…わ、私そんなに顔に出てますか…」
「顔に出てるって言うか、態度に出てる?」
「…そ、そうなんですか、すみません…」
樹野は、用意出来た飲み物二つを右手のお盆に乗せ、もう片手には、生クリームがあしらわれたパンケーキが乗ったお盆を持った。
同僚の見解が、引っかかる。
自分ではあまり気付いていなかったが、どうやら自分は悩み事があると態度に表れてしまうらしい。
考えてみれば、よく依仁に心配されていた、気もする。
そうであれば、自分が悩んでいるのは既に悟られているのかもしれない。
そして、心配もさせているかもしれない。
だったら尚更、ちゃんと話した方が良いよね。
樹野は、気持ちに対立して立ちはだかる、自分の自覚している性格に僅かに苛立ちながら、冷蔵庫の前、誰も見ていない場所で小さく溜め息を付いた。
◇
薄く目を開いた鈴夜の、目前に歩が見えた。
歩は、鈴夜の視線が自分を捕らえたのに気付くと、にっこりと微笑む。
「大丈夫かな?」
「…はい、すみません…」
あの後、明灯に支えられ会社の玄関まで来た。予め連絡でも受けていたのか直ぐに歩がやってきて、休憩室へと連れて来て貰い、促されるがまま仮眠を取った。
その流れを、ぼんやりと思い出す。
暫く呆然としていた鈴夜だったが、自分の頭が歩の腿に支えられていると急に自覚した。膝枕、と言うやつだ。
ソファをベッドに、歩を枕にしていたとは恐れ多い。
「す、すみません!」
鈴夜は、勢い良く上体を起こした。
急に頭を振った事により眩暈が襲い、反射的に手の平で頭を支えた。
「だ、大丈夫か?」
「……すみません、折原さん仕事大丈夫ですか…?こんなに付き合ってもらって本当に申し訳ないです…」
「大丈夫だよ、鈴夜くんが思っているほど時間も経っていないしね」
時計を指差され時間を確認し、感覚のずれを知る。随分と眠ったように思えたのだが、実際はそうでもないようだ。
「……良かった」
「……あまり眠れないのかな?」
歩は、悲しげな表情で鈴夜の頭を撫でた。
子ども扱いされている感覚は否めないのだが、それを包めても、やはりこの行為は自分を落ち着かせてくれる。
「………そう…ですね…。実はあまり眠れてないんです…少し心配事があるだけ、なんですが…」
控え目に発言しておいて、不図台詞に聞き覚えがあるのに気付いた。
いつかは忘れてしまったが、随分前、歩が零していた台詞とよく似ている。
あの時の問題は、今はもう解決したのだろうか。
「…そうか、大変そうだな、無理だけはするなよ」
「…はい、有り難うございます…」
鈴夜は配慮を受け容れつつも、無意識に虚勢を張った。
その後鈴夜は無事仕事に―――勿論無理をした状態でだが、復帰する事が出来、定時まで忙しく働いた。
帰りを歩にお願いすると、途中である仕事を止め、快く受け容れてくれた。
肯定はお願いする前から見えていたが、それでもやはり申し訳なさは拭えなかった。
久しぶりに、一人の部屋に帰る気がする。
あの日以降、殆ど淑瑠が側か家に居てくれた為、空しい空気を味わう機会が無かったのだ。
「…ただいまー…」
前は癖だった挨拶をしてみたが、返らない返事の寂しさは深く、改めて自分が守られているのだと感じた。
孤独は、とても怖い。誰かと過ごす事もまた違った恐怖を生むが、それでもやはり誰かが隣にいてくれるというのは、自分にとって守りになっていたようだ。
緊張の糸が解れ、大きく溜め息を吐き椅子に座った時、淑瑠からメールが入った。
[返事が遅くなってごめんね、ちゃんと着いたかな?]
鈴夜は文字を追いながら、今までの淑瑠との日々を思い返していた。
考えてみれば、ずっとずっと自分の事ばかり気にかけていてくれた気がする。
鈴夜は湧き上がる気持ちを、そっとメッセージに込めた。
[今家に着いたよ。淑兄いつもありがとう、淑兄が居てくれて本当に良かった(^^)]
◇
依仁は長引いた仕事を終え、車に乗り込もうとしている所だった。
不意に感じた気配に振り向く。が何もない。有るのは、まだ中から賑やかな声を響かせる、灯りの灯った事務所だけだ。
今日一日で、何度か似たような気配を感じた気がする。だが、何度振り向いても誰もいないのだ。
気の所為かと軽く流し、依仁は車に乗り込んだ。
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