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【2】
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◇
鈴夜は蒼い顔のまま、会社に来ていた。勿論淑瑠に咎められたが、迷惑を恐れ、こうして出てきたのだ。
辿り着いた時には歩は居らず、戻ってきたのは懸命に勤務に励んでいる時点でだった。
「…鈴夜くん、大丈夫か?」
後ろ姿だけで気分の降下を感じ取ったのか、歩は通りすぎようとする足を止め声をかけてくれていた。
「……大丈夫です」
「顔蒼いな、熱ないか?」
歩は手の平を、鈴夜の額に宛てた。鈴夜は反応したが、行動が決まらず硬直する。
「やっぱり、少し医務室に行った方がいい」
「………でも、仕事が…」
「大丈夫、体が優先だよ」
「…はい…じゃあ少し、行ってきます…」
歩の寛大で優しい台詞を聞きながら、鈴夜はまた、かけてしまった迷惑に心を沈めていた。
医務室に置いてあった体温計で熱を測ると、温度は38度に達していた。
朝から気だるさと吐き気はあったが、精神的な物だと勘違いしてしまっていた。
「あれー鈴夜くん、どうしたの?」
鼓動が跳ねた。強張る体の向かいに、勇之が詰め掛けてくる。毎度、計っているのかと訝るくらい奇妙なタイミングだ。
「あれ?辛そうだね」
勇之の右手が伸びてきて、鈴夜は思わず目を瞑ってしまった。
だが、右手が柔らかく触れたのは頬だった。
「やっぱり、顔火照ってる」
警戒が一時的に通り過ぎ、ゆっくりと瞼を開く。
直ぐ先に勇之の視線が待っていて、鈴夜は即座に逸らした。
「…そんなに僕の事怖い…?」
頬に触れていた指先が、首筋を軽く押す。緊張が、脈を早くする。
「…怖がってるね…そりゃそうか…でもまだ誰にも言っていないみたいだね…まぁまだこの間の事だから当たり前かぁ」
勇之は鈴夜の背首に手を回し、その頭を近づけた。
耳元で、静かな静かな囁きが落ちる。
「…どこまで頑張れるかな…?」
勇之は、恐怖に苛まれ呆然とする鈴夜を放置し、笑顔のまま医務室を出て行った。
「………勇之君がここにいるとは珍しいな…って鈴夜くんどうかしたか?辛いのか?」
別の声にゆっくりと顔をあげると、目の前で心配そうに自分を見る歩が目に映った。
「………折原さん…何でもないですよ、ほらこの通り…!」
泣きたい気持ちを押し殺し、縋りたい気持ちを閉じ込めて、鈴夜は作り笑いで腰を上げる。
だが、体が上手く意志を反映せず、歩に身を預けるような形で倒れこんでしまった。
◇
明灯は、合流した勇之の雰囲気がどこか楽しげな事に気付いた。
「…どこ行ってたの?」
勇之は質問に疑問しながらも、当然であるかの如く答えを述べる。
「どこって商談だけど」
「他を聞いているんだよ」
深く内容を掘り下げられ、勇之は漸く自分の行動が淡く見破られていると知った。
「別に」
明灯は大して追求する気も無かったのか、軽く流し足を踏み出す。
「…そう。次行くよ」
勇之は、秘密裏で行われた鈴夜との出来事を、脳内で再度描き、にっこりと笑った。
◇
依仁は、音もない空しい個人部屋で思いに耽っていた。時々やってくる同僚達は、その度上手く交わし、早めに帰宅させた。
墓参りの夜が、脳内から離れない。事件に巻き込まれる事が、こんなにも恐怖だったとは知らなかった。
確かに、恨まれる理由も理解出来るけれど。
依仁は、新たに生まれた思いを胸に、両手を翳し手に残る感覚を思い起こしていた。
そして、その思いと目的をぶつけ合い、また深い葛藤を始めた。
◇
目覚めると病院にいた。見慣れた天井が直ぐに把握させた。そして、その視界に歩が現れた。
「鈴夜くん良かった…!全然起きる気配が無かったから心配したよ…!本当に良かった!」
鈴夜は呆然としながら、歩の安堵に満ちた顔を見詰める。
「…とりあえず先生を呼ぶよ」
そう言うと歩は、ナースを呼び寄せる為、設置された受話器に手をかけた。
歩から目を逸らし、何気なく見た窓の外が仄かな闇に染まっていて、起床早々かけられた言葉の意味を理解する。
「直ぐに来てくれるみたいだよ」
続いて、シャツのままの歩を見て、仕事を中抜けさせてしまっている事態に多大な罪悪感を抱いた。
「………折原さん、お仕事…」
「良いんだよ、調子はどうかな?」
それ以上何も言えなくて、唯尋ねられるがままに答えを弱い声で零す。
「……大分良くなりました…」
「そうか、良かった」
「………ご迷惑おかけしました…」
歩の手が伸びてきて、額上部から頭頂部を優しく撫でた。温もりに安堵してしまう。
「気にしなくていい。じゃあ安心もした事だし戻ろうかな」
「…はい、有り難うございました…」
扉の閉まる音と引き換えに静寂が落ちた部屋で、複雑に圧し掛かる気持ちが雫として零れ落ちる。
だが扉の外から、歩と、恐らく待機していた淑瑠の声が聞こえてきて、反射的に涙を呑んだ。
「…鈴夜、入るね…?」
淑瑠が、根を詰めたような顔で入室してきた。自分が齎したものだと考え、心を痛める。
「……ごめん…」
「…謝らないで、それより調子大丈夫?」
淑瑠は表情を一転させ、微笑んだ。鈴夜も、今以上の煩いを掛けたくなくて無意識に微笑んでいた。
「…うん大丈夫、熱あっただけだから。自分でも気付かなかったけど」
「…そう…」
ノックの音が響き、医師が顔を出した。
「…じゃあ一度戻るね、着替えとか持ってくるよ」
淑瑠の配慮に対し、鈴夜は否定する。勿論、申し訳なさを理由にして、だ。
「…有り難う、でも今日はもういいや…このまま寝ちゃうよ」
淑瑠は窓の外を一瞥し、再度にっこりと笑った。
「そう?じゃあ今日は帰って、また明日来るね」
「…うん、ごめん、ありがとう…」
医師は鈴夜の精神面の異変を感じ取ったのか、体の状態が相当悪かったのか、大事をとっての短期入院を薦めてきた。
鈴夜は、またの欠勤が嫌で拒否したが、今後を考慮しても、せめて明日までは安静にするべきだと言われてしまった。
――――暗くなると、心が落ちる。自分の価値観ごとゆっくりと落ちてゆく。まだ頭がぼんやりとしているのに、その脳内では多数の出来事が交錯している。
鈴夜は舞い戻る日付感覚の所為で、腹部に痛みを感じて、その部分を摩りながら後ろを振り向いた。
だが、あるのは壁で、勿論だが誰も居ない。
後ろが気になったと思えば、前にも、その首元にも気配を感じてまた振り向く。
だが、薄暗い空間が、広がっているだけだ。
強く気を張り恐怖に纏われ、体を震わせながら、鈴夜は浅く呼吸を繰り返した。
鈴夜は蒼い顔のまま、会社に来ていた。勿論淑瑠に咎められたが、迷惑を恐れ、こうして出てきたのだ。
辿り着いた時には歩は居らず、戻ってきたのは懸命に勤務に励んでいる時点でだった。
「…鈴夜くん、大丈夫か?」
後ろ姿だけで気分の降下を感じ取ったのか、歩は通りすぎようとする足を止め声をかけてくれていた。
「……大丈夫です」
「顔蒼いな、熱ないか?」
歩は手の平を、鈴夜の額に宛てた。鈴夜は反応したが、行動が決まらず硬直する。
「やっぱり、少し医務室に行った方がいい」
「………でも、仕事が…」
「大丈夫、体が優先だよ」
「…はい…じゃあ少し、行ってきます…」
歩の寛大で優しい台詞を聞きながら、鈴夜はまた、かけてしまった迷惑に心を沈めていた。
医務室に置いてあった体温計で熱を測ると、温度は38度に達していた。
朝から気だるさと吐き気はあったが、精神的な物だと勘違いしてしまっていた。
「あれー鈴夜くん、どうしたの?」
鼓動が跳ねた。強張る体の向かいに、勇之が詰め掛けてくる。毎度、計っているのかと訝るくらい奇妙なタイミングだ。
「あれ?辛そうだね」
勇之の右手が伸びてきて、鈴夜は思わず目を瞑ってしまった。
だが、右手が柔らかく触れたのは頬だった。
「やっぱり、顔火照ってる」
警戒が一時的に通り過ぎ、ゆっくりと瞼を開く。
直ぐ先に勇之の視線が待っていて、鈴夜は即座に逸らした。
「…そんなに僕の事怖い…?」
頬に触れていた指先が、首筋を軽く押す。緊張が、脈を早くする。
「…怖がってるね…そりゃそうか…でもまだ誰にも言っていないみたいだね…まぁまだこの間の事だから当たり前かぁ」
勇之は鈴夜の背首に手を回し、その頭を近づけた。
耳元で、静かな静かな囁きが落ちる。
「…どこまで頑張れるかな…?」
勇之は、恐怖に苛まれ呆然とする鈴夜を放置し、笑顔のまま医務室を出て行った。
「………勇之君がここにいるとは珍しいな…って鈴夜くんどうかしたか?辛いのか?」
別の声にゆっくりと顔をあげると、目の前で心配そうに自分を見る歩が目に映った。
「………折原さん…何でもないですよ、ほらこの通り…!」
泣きたい気持ちを押し殺し、縋りたい気持ちを閉じ込めて、鈴夜は作り笑いで腰を上げる。
だが、体が上手く意志を反映せず、歩に身を預けるような形で倒れこんでしまった。
◇
明灯は、合流した勇之の雰囲気がどこか楽しげな事に気付いた。
「…どこ行ってたの?」
勇之は質問に疑問しながらも、当然であるかの如く答えを述べる。
「どこって商談だけど」
「他を聞いているんだよ」
深く内容を掘り下げられ、勇之は漸く自分の行動が淡く見破られていると知った。
「別に」
明灯は大して追求する気も無かったのか、軽く流し足を踏み出す。
「…そう。次行くよ」
勇之は、秘密裏で行われた鈴夜との出来事を、脳内で再度描き、にっこりと笑った。
◇
依仁は、音もない空しい個人部屋で思いに耽っていた。時々やってくる同僚達は、その度上手く交わし、早めに帰宅させた。
墓参りの夜が、脳内から離れない。事件に巻き込まれる事が、こんなにも恐怖だったとは知らなかった。
確かに、恨まれる理由も理解出来るけれど。
依仁は、新たに生まれた思いを胸に、両手を翳し手に残る感覚を思い起こしていた。
そして、その思いと目的をぶつけ合い、また深い葛藤を始めた。
◇
目覚めると病院にいた。見慣れた天井が直ぐに把握させた。そして、その視界に歩が現れた。
「鈴夜くん良かった…!全然起きる気配が無かったから心配したよ…!本当に良かった!」
鈴夜は呆然としながら、歩の安堵に満ちた顔を見詰める。
「…とりあえず先生を呼ぶよ」
そう言うと歩は、ナースを呼び寄せる為、設置された受話器に手をかけた。
歩から目を逸らし、何気なく見た窓の外が仄かな闇に染まっていて、起床早々かけられた言葉の意味を理解する。
「直ぐに来てくれるみたいだよ」
続いて、シャツのままの歩を見て、仕事を中抜けさせてしまっている事態に多大な罪悪感を抱いた。
「………折原さん、お仕事…」
「良いんだよ、調子はどうかな?」
それ以上何も言えなくて、唯尋ねられるがままに答えを弱い声で零す。
「……大分良くなりました…」
「そうか、良かった」
「………ご迷惑おかけしました…」
歩の手が伸びてきて、額上部から頭頂部を優しく撫でた。温もりに安堵してしまう。
「気にしなくていい。じゃあ安心もした事だし戻ろうかな」
「…はい、有り難うございました…」
扉の閉まる音と引き換えに静寂が落ちた部屋で、複雑に圧し掛かる気持ちが雫として零れ落ちる。
だが扉の外から、歩と、恐らく待機していた淑瑠の声が聞こえてきて、反射的に涙を呑んだ。
「…鈴夜、入るね…?」
淑瑠が、根を詰めたような顔で入室してきた。自分が齎したものだと考え、心を痛める。
「……ごめん…」
「…謝らないで、それより調子大丈夫?」
淑瑠は表情を一転させ、微笑んだ。鈴夜も、今以上の煩いを掛けたくなくて無意識に微笑んでいた。
「…うん大丈夫、熱あっただけだから。自分でも気付かなかったけど」
「…そう…」
ノックの音が響き、医師が顔を出した。
「…じゃあ一度戻るね、着替えとか持ってくるよ」
淑瑠の配慮に対し、鈴夜は否定する。勿論、申し訳なさを理由にして、だ。
「…有り難う、でも今日はもういいや…このまま寝ちゃうよ」
淑瑠は窓の外を一瞥し、再度にっこりと笑った。
「そう?じゃあ今日は帰って、また明日来るね」
「…うん、ごめん、ありがとう…」
医師は鈴夜の精神面の異変を感じ取ったのか、体の状態が相当悪かったのか、大事をとっての短期入院を薦めてきた。
鈴夜は、またの欠勤が嫌で拒否したが、今後を考慮しても、せめて明日までは安静にするべきだと言われてしまった。
――――暗くなると、心が落ちる。自分の価値観ごとゆっくりと落ちてゆく。まだ頭がぼんやりとしているのに、その脳内では多数の出来事が交錯している。
鈴夜は舞い戻る日付感覚の所為で、腹部に痛みを感じて、その部分を摩りながら後ろを振り向いた。
だが、あるのは壁で、勿論だが誰も居ない。
後ろが気になったと思えば、前にも、その首元にも気配を感じてまた振り向く。
だが、薄暗い空間が、広がっているだけだ。
強く気を張り恐怖に纏われ、体を震わせながら、鈴夜は浅く呼吸を繰り返した。
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