2 / 5
仕事
しおりを挟む
目覚めると、いつもの景色があった。真っ白な天井だ。数年前から、何も変わっていない。
そうか、昨日の診断は夢か――そう安堵したのも束の間、現実に戻された。起き上がって見えた景色が、昨日のままだったのだ。
普段と変わらず見えたのは、天井が元々白かったからだろう。
無意識に、深い溜め息が出る。癖のようにメールを確認したが、これまた現実を突き付けられただけとなった。
昨夜、私は全てを裁ち切った。いや、そうせざるを得なかった。
半端な仕事の仕上げさえ出来ないまま、会社との契約を切った。贔屓してくれていたクライアントにも連絡をいれ、事情を話した。
皆が、それじゃあ仕方ない。お大事に。の二言を別れの挨拶とした。誰一人、留めてくれなかった。
いや、仕事が出来ないんじゃ当然ではあるけれど。
治っても、君の戻る場所はないよ。そう言われた気がした。
なぜ、努力していた私が、病にかからなくてはいけないんだ。考えると悔しくなり、目の奥が熱くなる。
色のない景色は心を慰めず、結局は泣いてしまった。
*
しかし、後ろばかり見ていても先に進まないのが現実だ。生活を続けるには、何らかの行動が求められる。
実家に帰るにせよ、生活保護を受けるにせよ、まずは自分の足で動かねばならない。
本心では引き篭りたかったが、それこそ惨めだと己を奮い立たせた。
そうして、最終的に辿り着いたのはアルバイトだ。元々視野に入れていたし、何より気晴らしになりそうなのが最大の理由である。
選んだのは、未経験の事務仕事だ。文字さえ判別出来れば、色がなくとも支障がないからと選択した。
ただ、内心は繋ぎの仕事としか見れなかったけれど。
*
「河上さんも大変だね。白黒でしか見えないんだっけ?」
問いかけて来たのは、社長の斎藤さんだ。温厚で周囲からの信頼も厚い、優秀な若社長である。と言っても、三十代後半らしいけど。
私もよく世話になっているが、かなりの良い人だと思う。こんな私でも、心許しそうになるほどには。
この会社は職業病に理解があるらしく、面接は意外と簡単に通った。そうして、この小会社で勤務を始め、早半年が経とうとしている。
因みに、症状はあまり変わっていない。変化と言えば、寝起きに驚かなくなった程度だろうか。当初は夢に色が残るせいで、夢現の区別に迷った。
「そんな感じです。全然回復しなくて、どうしたらいいものか」
未だに、感情は全て過去に向いている。
完全辞職の決心をつけた矢先、それをなかったことにしたり。いつか見返してやると、別れた人々を逆恨みしたり。そんな憂鬱な日々の繰り返しだ。
「僕もね、かかったことあるよ。職業病。僕の場合、道に名前が出てきちゃうって奴だったな」
何かを見兼ねてか、斎藤さんは語り出す。職業病の話を聞くのは、実はこれが初めてだ。
上位を争う発症率ながら、理解しにくい病としても有名な職業病である。ゆえに話題にする人自体あまりいなかった。
「不思議な症状ですね。そういう関係の仕事だったんですか?」
「配送業者をしていたよ。けど、標識とかが上手く見れなくなって退職さ」
「なるほど。それで今は治ったんですか?」
「大体はね。でも、それ以来運転には出ていないなぁ。好きだったんだけどね」
確かに、社長は自ら運転をしない。乗っても公共交通機関か、助手席だ。
いや、そんなことはどうでも良いとして。
ほとんど完治している状態で、元の生活に戻ろうとしない真意がよく分からなかった。
「もう戻らないんですか?」
キーボードを叩けばペンの感触が恋しくなり、時計を見れば色を入れたくなる。
このような感覚が、彼にはないのだろうか。どうしようもなく、気持ちが疼く瞬間が。
「そうだね。今の仕事、結構気に入ってるから」
「そうですか……」
あの日から、私は絵を描いていない。絵の世界に触れてさえいない。ペンを持つとしても、それは文字を描く為だけだ。
描いてしまえば、きっと心が荒むから。
「そうそう。この会社には、他にも何人か職業病の人がいるよ。皆、少しずつだけど改善してるみたいだから、焦らなくても大丈夫さ」
恐らく、これが本題だったのだろう。面映ゆそうにはにかみ、社長は語る。
「なんて言うのは建前で。河上さん手際いいからさ、治っても仕事続けてよ」
――いや、本題はこっちだったか。
言葉が胸の中に詰まる。評価は素直に嬉しい。だが、答えはノーだ。無論、はっきりとは言わないが。
いつか、彼のように今の生活を好きになれれば良いのに。
「また、考えておきますね」
軽く流す振りをしつつも、笑顔の裏に言葉を仕舞った。
*
作りかけの動画でも見ているかのようだ。電車に揺られながら、見える景色は物足りない。
景色だけではない。周りを見ても、生きているはずの人間を見ても、全てが下描きにしか見えなかった。
色と戦っていた頃の記憶が、順々に上書きされてゆく。白黒だけの世界になってゆく。
『治っても仕事続けてよ』
そう言った、斎藤さんの言葉が蘇った。白黒の笑顔と景色付きで。
元々こっちの方が向いていたのかもしれない。そう思うほど、今の仕事は気に入っている。だが、直ぐに肯定出来なかったのは、やっぱり戻りたい気持ちが捨てられないからだ。
私は一体、どうするべきなのだろう。
まず、治らないことには何も始まらないけれど。
しかし、葛藤とは裏腹に、回復の兆しは見えなかった。
そうか、昨日の診断は夢か――そう安堵したのも束の間、現実に戻された。起き上がって見えた景色が、昨日のままだったのだ。
普段と変わらず見えたのは、天井が元々白かったからだろう。
無意識に、深い溜め息が出る。癖のようにメールを確認したが、これまた現実を突き付けられただけとなった。
昨夜、私は全てを裁ち切った。いや、そうせざるを得なかった。
半端な仕事の仕上げさえ出来ないまま、会社との契約を切った。贔屓してくれていたクライアントにも連絡をいれ、事情を話した。
皆が、それじゃあ仕方ない。お大事に。の二言を別れの挨拶とした。誰一人、留めてくれなかった。
いや、仕事が出来ないんじゃ当然ではあるけれど。
治っても、君の戻る場所はないよ。そう言われた気がした。
なぜ、努力していた私が、病にかからなくてはいけないんだ。考えると悔しくなり、目の奥が熱くなる。
色のない景色は心を慰めず、結局は泣いてしまった。
*
しかし、後ろばかり見ていても先に進まないのが現実だ。生活を続けるには、何らかの行動が求められる。
実家に帰るにせよ、生活保護を受けるにせよ、まずは自分の足で動かねばならない。
本心では引き篭りたかったが、それこそ惨めだと己を奮い立たせた。
そうして、最終的に辿り着いたのはアルバイトだ。元々視野に入れていたし、何より気晴らしになりそうなのが最大の理由である。
選んだのは、未経験の事務仕事だ。文字さえ判別出来れば、色がなくとも支障がないからと選択した。
ただ、内心は繋ぎの仕事としか見れなかったけれど。
*
「河上さんも大変だね。白黒でしか見えないんだっけ?」
問いかけて来たのは、社長の斎藤さんだ。温厚で周囲からの信頼も厚い、優秀な若社長である。と言っても、三十代後半らしいけど。
私もよく世話になっているが、かなりの良い人だと思う。こんな私でも、心許しそうになるほどには。
この会社は職業病に理解があるらしく、面接は意外と簡単に通った。そうして、この小会社で勤務を始め、早半年が経とうとしている。
因みに、症状はあまり変わっていない。変化と言えば、寝起きに驚かなくなった程度だろうか。当初は夢に色が残るせいで、夢現の区別に迷った。
「そんな感じです。全然回復しなくて、どうしたらいいものか」
未だに、感情は全て過去に向いている。
完全辞職の決心をつけた矢先、それをなかったことにしたり。いつか見返してやると、別れた人々を逆恨みしたり。そんな憂鬱な日々の繰り返しだ。
「僕もね、かかったことあるよ。職業病。僕の場合、道に名前が出てきちゃうって奴だったな」
何かを見兼ねてか、斎藤さんは語り出す。職業病の話を聞くのは、実はこれが初めてだ。
上位を争う発症率ながら、理解しにくい病としても有名な職業病である。ゆえに話題にする人自体あまりいなかった。
「不思議な症状ですね。そういう関係の仕事だったんですか?」
「配送業者をしていたよ。けど、標識とかが上手く見れなくなって退職さ」
「なるほど。それで今は治ったんですか?」
「大体はね。でも、それ以来運転には出ていないなぁ。好きだったんだけどね」
確かに、社長は自ら運転をしない。乗っても公共交通機関か、助手席だ。
いや、そんなことはどうでも良いとして。
ほとんど完治している状態で、元の生活に戻ろうとしない真意がよく分からなかった。
「もう戻らないんですか?」
キーボードを叩けばペンの感触が恋しくなり、時計を見れば色を入れたくなる。
このような感覚が、彼にはないのだろうか。どうしようもなく、気持ちが疼く瞬間が。
「そうだね。今の仕事、結構気に入ってるから」
「そうですか……」
あの日から、私は絵を描いていない。絵の世界に触れてさえいない。ペンを持つとしても、それは文字を描く為だけだ。
描いてしまえば、きっと心が荒むから。
「そうそう。この会社には、他にも何人か職業病の人がいるよ。皆、少しずつだけど改善してるみたいだから、焦らなくても大丈夫さ」
恐らく、これが本題だったのだろう。面映ゆそうにはにかみ、社長は語る。
「なんて言うのは建前で。河上さん手際いいからさ、治っても仕事続けてよ」
――いや、本題はこっちだったか。
言葉が胸の中に詰まる。評価は素直に嬉しい。だが、答えはノーだ。無論、はっきりとは言わないが。
いつか、彼のように今の生活を好きになれれば良いのに。
「また、考えておきますね」
軽く流す振りをしつつも、笑顔の裏に言葉を仕舞った。
*
作りかけの動画でも見ているかのようだ。電車に揺られながら、見える景色は物足りない。
景色だけではない。周りを見ても、生きているはずの人間を見ても、全てが下描きにしか見えなかった。
色と戦っていた頃の記憶が、順々に上書きされてゆく。白黒だけの世界になってゆく。
『治っても仕事続けてよ』
そう言った、斎藤さんの言葉が蘇った。白黒の笑顔と景色付きで。
元々こっちの方が向いていたのかもしれない。そう思うほど、今の仕事は気に入っている。だが、直ぐに肯定出来なかったのは、やっぱり戻りたい気持ちが捨てられないからだ。
私は一体、どうするべきなのだろう。
まず、治らないことには何も始まらないけれど。
しかし、葛藤とは裏腹に、回復の兆しは見えなかった。
0
あなたにおすすめの小説
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】私が愛されるのを見ていなさい
芹澤紗凪
恋愛
虐げられた少女の、最も残酷で最も華麗な復讐劇。(全6話の予定)
公爵家で、天使の仮面を被った義理の妹、ララフィーナに全てを奪われたディディアラ。
絶望の淵で、彼女は一族に伝わる「血縁者の姿と入れ替わる」という特殊能力に目覚める。
ディディアラは、憎き義妹と入れ替わることを決意。
完璧な令嬢として振る舞いながら、自分を陥れた者たちを内側から崩壊させていく。
立場と顔が入れ替わった二人の少女が織りなす、壮絶なダークファンタジー。
初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。
だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。
しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。
王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。
そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。
地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。
⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる