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46(ザシャ)
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「ごっ、ごめんなさぃ……!」
顔の腫れたヒルデガルドに睨まれてジェーンが情けない声を洩らした。
俺はジェーンの肩を軽く叩いて促す。
「ほら、もっとちゃんと謝れ」
「!」
ジェーンが勢いよく立ち上がりヒルデガルドに駆け寄った。そして自分より背の低いヒルデガルドの腹の辺りまで深々と頭を下げた。
「レディ・ヒルデガルド、大変申し訳ございませんでした!」
「気にしてるの?」
「はっ、はい!」
身分から従うより他なかったというジェーンの主張は実のところ尤もで、今こうして自分の首の皮一枚をなんとか繋げて生き延びようと必死で藻掻いている様子には同情も覚える。それはヒルデガルドも理解しているようだったが、何しろ与えた答えは面白かった。
ヒルデガルドはジェーンの右手首を強く掴んだ。
そして手袋を無言で剥ぎ取ると、手の甲を素早く七回か八回叩いた。人差し指で。
「あっ、あぁっ、くっ、ふっ、あ」
鞭打ちに近い痛みではあるはずで、ジェーンが細かい悲鳴を上げる。
「卵がもったいないから」
憮然と言い放ちヒルデガルドがジェーンを解放する。
「あなたのことはこれでおしまい」
「あ、ありがとうございます……痛ぁ」
「ヨハン!」
ヒルデガルドは痛がるジェーンを無視し大声でヨハンを呼んだ。
微笑ましい復讐と勢いに気を良くして俺も挨拶することにする。
「お元気ですか、お嬢様?」
「ええ。ヨハン!話があるから出て来てもらえない!?」
とりあえず、俺は及びでないらしい。
「いないの!?」
怒号である。
初めて《ユフシェリア》に乗り込んで来たあの日も喚き散らしていたが、今日の方が各段にしっかりしている。宮廷裁判での勝利で貫禄がついた。
ジェーンが傍に戻ってきて手の甲を摩り呟く。
「怒ってるじゃない……」
「首ちょんぱよかましだろ」
大きな溜息をついてジェーンが一人掛けソファーに腰を下ろす。俺と同じで見物する気満々なのが窺える。
丁度その辺りで一階と二階の両方で扉の開く音がして残りの男娼が姿を現した。
「ヒルデガルド!またお会いできるなんて嬉しいですがこんなところに直接いらっしゃらずとも匿名の手紙をくだされば私から──はぁああああああッ!?」
一階の奥から出て来たヨハンがヒルデガルドの顔の腫れを見て形相を変え叫ぶ。
「なんですか!一体どうされました!?誰ですか!?ああ、ヒルデガルド!可哀相に……!」
「大丈夫よ」
確かに傷そのものを気にする様子はない。寧ろ怒気を漂わせている。
ヒルデガルドが狼狽するヨハンを見上げているところへレオンが階段を駆け下りて来た。
「手当は受けたのですか?見せてください」
と言いながら過保護とも変態とも取れる強引な態度でヒルデガルドを抱えようとしたヨハンを、レオンが無言で引き剥がす。
「お嬢様……」
レオンは悲愴な顔でそれだけ言うと立ち尽くした。信念に邪魔されて、ヒルデガルドを労わってやることもできないらしい。
ヒルデガルドは表情を和らげレオンを見上げた。
「大丈夫よ。手当ては受けて来たから」
声音も優しい。
最初からそうだが、ヒルデガルドはレオンを選んでいた。他の男娼がヨハンと俺では消去法でレオンしかいないようなものでもあるが、確実に身分違いの恋とやらが始まっている濃厚な気配が漂っていた。
どうにもならないと思っていたが……風向きが変わった今、もしかするとくっつくかもしれない。
「誰です!?というか、ザシャ!そのお嬢様はどなたです!?」
ヨハンが誰よりも混乱している。
ジェーンが困惑している顔も面白かったので俺は紹介を控えた。恐らく放っておけばヒルデガルドがまとめるだろう。
俺の予想通りになった。
「ヨハン、卵のジェーンよ。ジェーン、彼は勘当されたツヴァイク伯爵令息のヨハン」
「あなたが……!」
「ああ、あなたが」
丸く片付いた。
俺はジェーンに耳打ちするのを忘れなかった。
「ヨハンは変態だから近づくな。あいつ、王女のアレが気持ちよかったらしい」
「……」
ジェーンは絶句した後、無言のまま頷いた。
「ヨハン、ジェーンを責めないで。私たちの間ではもう済んだから。それに手当てをしてくれたのはライスト男爵なのよ」
「え?」
「え?」
近づくなと言ったのに、ジェーンはヨハンと声を重ねて驚いている。ヨハンがジェーンを一瞥した。言わんこっちゃない。
「聞いて」
ヒルデガルドが怒りを顕わに全員の注意を引いた。
「王女はウィリスを愛していたわけではなかったの。ウィリスがニコラス王太子に少し似ていて、私が王妃様に少し似ているから目を付けたのよ。そしてウィリスを拷問し、私を淫らな女として貶めた。王太子と王妃様を陥れる練習だったの。これは謀反よ」
「まさか、王女の使者があなたを……?」
ヨハンの問いにヒルデガルドは素早く首を振って否定する。
「いいえ。これはウィリスにされたの」
「はっ!?」
「はっ!?」
またもやヨハンとジェーンの声が重なった。
レオンは顔面蒼白になり今にも嘔吐か失神しそうな顔で変わらず立ち尽くしている。
「私だけ無事なことが許せないみたい。私と結婚して、支配して、自分がされたのと同じことをしたいんですって」
「なんという見下げ果てた屑……!」
「頭沸きすぎ……!」
これだけ心が通えばヨハンとジェーンも案外ありかもしれないなどと思わなくもない。まあ、冗談だが。
その時、ガウン一枚羽織っただけで髪も乱れたままの姿でヘレネが現れた。これだけ大声で騒いでいるのだから、飛び交う名前を聞いてもう逃げきれないと考えたのかもしれない。
階段の上で手摺りに掴まり凝然と此方を見下ろしている。
ヒルデガルドが無言でそれを見上げた。
「此処に居たのね」
それだけ呟くと一瞬も目を逸らさずに階段を上がっていった。ヘレネは凝然と目を瞠り、完全に怖気づいて硬直している。
俺は同情の一つも抱けなかった。
赤の他人ではなくなったかもしれない。俺は只、憐れんでいる。これは憐れみだ。
可哀想な女。
「何故、あなたが……」
「突然男娼を買ったことにされ、疑問に思い調査したのです」
上手い嘘だ。
ヒルデガルドの成長はそれだけに留まらなかった。
「レディ・ヘレネ、その格好で、私に仰ったことをもう一度繰り返していただけませんか?皆の前で」
「……っ」
ヒルデガルドが階段を上り切りヘレネと対峙する。
圧勝が約束された静かな挑発はさすがの迫力ではあったが、若干の違和感を伴った。ヘレネが言葉通り男娼の客であることを知り、ヒルデガルドはその貞操観念を詰っているのだ。
ジェーンが指で俺を呼び耳打ちする。
「あの人……全部は知らないんじゃない?」
俺もそう思っていたところだった。
ヒルデガルドの元婚約者は羞恥心から自分が女に犯された事実を隠しているのではないだろうか。聞く限り自己愛の強い軟弱者だから、充分にあり得る話だ。
「知られたくない奴もいる。黙っとけ」
「うん」
耳打ちを返すとジェーンは素直に頷き、立ち上がり、ヘレネに向かって首を振った。余計なことを話すなとも、抵抗するなとも、如何様にも受け取れるだろう。
だがヘレネはそこまで頭が回らなかったようだ。
「え、ジェーン……?なんで、お前が……?」
単純に混乱し始めた。
ヒルデガルドが目を剥いた。
「此処には、あなたしか汚れた人間はいません。恥を知りなさい」
そんなヒルデガルドをレオンが凝然と見上げている。
言い切ったヒルデガルドが足元に注意しながら足早に階段を下りてくると、レオンは目を逸らした。ヨハンは自身を律し冷静に状況を見極めようと目を配っている。
ヘレネが崩れ落ちて手摺にしがみ付きながら大粒の涙を流した。
「違う……ここにいる皆、されたのよ……?」
「……」
ヒルデガルドが足を止めた。
だが心は乱れていないように見えた。
ヒルデガルドは肩越しにヘレネに振り向くと素っ気なく呟いた。
「そんな気がした。だから怒ってるの」
これでわからなくなった。
ヒルデガルドが拷問の内容をどこまで把握しているのか、誰よりも気がかりなのはレオンだろう。
だがウィリスとかいう屑が保身に走り不完全な証言をすれば、隠し通せる。
狙ったかどうか定かではないし積極的に確認したくはないが、ヨハンはイザベルとアイリスという二人組に淫乱な同性愛者という印象を抱かせることに成功しているのだ。
無かったことにできるかもしれない。
ヒルデガルドに打ち明けるかどうか、それは、レオンが決めることだ。
「ヨハン」
ヒルデガルドが階段を下り切り参謀を呼びつける。
その顔は年相応を越えた威厳と貫禄に満ち溢れている。
「ソフィア王女を反逆者として告訴します。それから、謀反の首謀者として裁けなかった時に備えて教会から異端審問官を派遣してもらえる?できる?」
「お任せください」
ヨハンが嫣然と微笑み頭を垂れた。
階段の上で頽れて泣いていたヘレネがこの世の終わりかのような顔をして狼狽えた。
王太子と王妃を陥れようという王女の謀反で済めば知らぬ存ぜぬや強制されたと言い訳もできるが、異端審問官が来てしまえば姦淫の罪で裁かれる恐れがある。
俺との関係を隠し通そうとしても自白するまで尋問が行われるだろう。
拷問というものを知っているヘレネは、自分がされる側になるかもしれないと気づき怯えているのだ。
「魔女かどうか確かめないとね」
ヨハンに向けたヒルデガルドの静かな言葉がヘレネを追い詰めた。
「た……たすけて……助けてください!ヒルデガルド!お願い!なんでもするから!助けて!!」
手摺りにしがみ付き泣き叫ぶヘレネをヒルデガルドが見上げる。
そして最後通告を突きつけた。
「身の振り方を考えて、正しい証言をしてください。あなたは誉れ高きクローゼル侯爵閣下の御息女なのですから」
こうして二回目の宮廷裁判を待たず神の娘が王女を告訴する計画が動き出した。
小さな体と平和な丸顔からは想像もできないような威厳を放っていたヒルデガルドだったが、一段落ついて勢いが尽きたのか、ふと肩の力を抜いた。
そして吸い寄せられるようにしてレオンの方に歩いていくと、微笑ましい可愛げを見せた。
レオンの袖を摘まみ、背の高いレオンを間近で見上げたのだ。さすがはうちのお嬢様。可愛いものだ。
「興奮したら痛くなってきたわ。診てくれる?」
「……」
レオンは答えなかったが、実際、まだ声が出ないだけだろうと思われた。
痛みを堪えるような表情で頷いてからヒルデガルドを近くの空室に連れて行く。
二人の姿か見えなくなるとヨハンとジェーンが同時に動き出した。颯爽と階段を駆け上がり、ヘレネの懐柔にかかる。
俺はその光景を見て笑った。
「……結婚、おめでとう。姫様」
今日はいい日だ。
酒が飲みたい。
顔の腫れたヒルデガルドに睨まれてジェーンが情けない声を洩らした。
俺はジェーンの肩を軽く叩いて促す。
「ほら、もっとちゃんと謝れ」
「!」
ジェーンが勢いよく立ち上がりヒルデガルドに駆け寄った。そして自分より背の低いヒルデガルドの腹の辺りまで深々と頭を下げた。
「レディ・ヒルデガルド、大変申し訳ございませんでした!」
「気にしてるの?」
「はっ、はい!」
身分から従うより他なかったというジェーンの主張は実のところ尤もで、今こうして自分の首の皮一枚をなんとか繋げて生き延びようと必死で藻掻いている様子には同情も覚える。それはヒルデガルドも理解しているようだったが、何しろ与えた答えは面白かった。
ヒルデガルドはジェーンの右手首を強く掴んだ。
そして手袋を無言で剥ぎ取ると、手の甲を素早く七回か八回叩いた。人差し指で。
「あっ、あぁっ、くっ、ふっ、あ」
鞭打ちに近い痛みではあるはずで、ジェーンが細かい悲鳴を上げる。
「卵がもったいないから」
憮然と言い放ちヒルデガルドがジェーンを解放する。
「あなたのことはこれでおしまい」
「あ、ありがとうございます……痛ぁ」
「ヨハン!」
ヒルデガルドは痛がるジェーンを無視し大声でヨハンを呼んだ。
微笑ましい復讐と勢いに気を良くして俺も挨拶することにする。
「お元気ですか、お嬢様?」
「ええ。ヨハン!話があるから出て来てもらえない!?」
とりあえず、俺は及びでないらしい。
「いないの!?」
怒号である。
初めて《ユフシェリア》に乗り込んで来たあの日も喚き散らしていたが、今日の方が各段にしっかりしている。宮廷裁判での勝利で貫禄がついた。
ジェーンが傍に戻ってきて手の甲を摩り呟く。
「怒ってるじゃない……」
「首ちょんぱよかましだろ」
大きな溜息をついてジェーンが一人掛けソファーに腰を下ろす。俺と同じで見物する気満々なのが窺える。
丁度その辺りで一階と二階の両方で扉の開く音がして残りの男娼が姿を現した。
「ヒルデガルド!またお会いできるなんて嬉しいですがこんなところに直接いらっしゃらずとも匿名の手紙をくだされば私から──はぁああああああッ!?」
一階の奥から出て来たヨハンがヒルデガルドの顔の腫れを見て形相を変え叫ぶ。
「なんですか!一体どうされました!?誰ですか!?ああ、ヒルデガルド!可哀相に……!」
「大丈夫よ」
確かに傷そのものを気にする様子はない。寧ろ怒気を漂わせている。
ヒルデガルドが狼狽するヨハンを見上げているところへレオンが階段を駆け下りて来た。
「手当は受けたのですか?見せてください」
と言いながら過保護とも変態とも取れる強引な態度でヒルデガルドを抱えようとしたヨハンを、レオンが無言で引き剥がす。
「お嬢様……」
レオンは悲愴な顔でそれだけ言うと立ち尽くした。信念に邪魔されて、ヒルデガルドを労わってやることもできないらしい。
ヒルデガルドは表情を和らげレオンを見上げた。
「大丈夫よ。手当ては受けて来たから」
声音も優しい。
最初からそうだが、ヒルデガルドはレオンを選んでいた。他の男娼がヨハンと俺では消去法でレオンしかいないようなものでもあるが、確実に身分違いの恋とやらが始まっている濃厚な気配が漂っていた。
どうにもならないと思っていたが……風向きが変わった今、もしかするとくっつくかもしれない。
「誰です!?というか、ザシャ!そのお嬢様はどなたです!?」
ヨハンが誰よりも混乱している。
ジェーンが困惑している顔も面白かったので俺は紹介を控えた。恐らく放っておけばヒルデガルドがまとめるだろう。
俺の予想通りになった。
「ヨハン、卵のジェーンよ。ジェーン、彼は勘当されたツヴァイク伯爵令息のヨハン」
「あなたが……!」
「ああ、あなたが」
丸く片付いた。
俺はジェーンに耳打ちするのを忘れなかった。
「ヨハンは変態だから近づくな。あいつ、王女のアレが気持ちよかったらしい」
「……」
ジェーンは絶句した後、無言のまま頷いた。
「ヨハン、ジェーンを責めないで。私たちの間ではもう済んだから。それに手当てをしてくれたのはライスト男爵なのよ」
「え?」
「え?」
近づくなと言ったのに、ジェーンはヨハンと声を重ねて驚いている。ヨハンがジェーンを一瞥した。言わんこっちゃない。
「聞いて」
ヒルデガルドが怒りを顕わに全員の注意を引いた。
「王女はウィリスを愛していたわけではなかったの。ウィリスがニコラス王太子に少し似ていて、私が王妃様に少し似ているから目を付けたのよ。そしてウィリスを拷問し、私を淫らな女として貶めた。王太子と王妃様を陥れる練習だったの。これは謀反よ」
「まさか、王女の使者があなたを……?」
ヨハンの問いにヒルデガルドは素早く首を振って否定する。
「いいえ。これはウィリスにされたの」
「はっ!?」
「はっ!?」
またもやヨハンとジェーンの声が重なった。
レオンは顔面蒼白になり今にも嘔吐か失神しそうな顔で変わらず立ち尽くしている。
「私だけ無事なことが許せないみたい。私と結婚して、支配して、自分がされたのと同じことをしたいんですって」
「なんという見下げ果てた屑……!」
「頭沸きすぎ……!」
これだけ心が通えばヨハンとジェーンも案外ありかもしれないなどと思わなくもない。まあ、冗談だが。
その時、ガウン一枚羽織っただけで髪も乱れたままの姿でヘレネが現れた。これだけ大声で騒いでいるのだから、飛び交う名前を聞いてもう逃げきれないと考えたのかもしれない。
階段の上で手摺りに掴まり凝然と此方を見下ろしている。
ヒルデガルドが無言でそれを見上げた。
「此処に居たのね」
それだけ呟くと一瞬も目を逸らさずに階段を上がっていった。ヘレネは凝然と目を瞠り、完全に怖気づいて硬直している。
俺は同情の一つも抱けなかった。
赤の他人ではなくなったかもしれない。俺は只、憐れんでいる。これは憐れみだ。
可哀想な女。
「何故、あなたが……」
「突然男娼を買ったことにされ、疑問に思い調査したのです」
上手い嘘だ。
ヒルデガルドの成長はそれだけに留まらなかった。
「レディ・ヘレネ、その格好で、私に仰ったことをもう一度繰り返していただけませんか?皆の前で」
「……っ」
ヒルデガルドが階段を上り切りヘレネと対峙する。
圧勝が約束された静かな挑発はさすがの迫力ではあったが、若干の違和感を伴った。ヘレネが言葉通り男娼の客であることを知り、ヒルデガルドはその貞操観念を詰っているのだ。
ジェーンが指で俺を呼び耳打ちする。
「あの人……全部は知らないんじゃない?」
俺もそう思っていたところだった。
ヒルデガルドの元婚約者は羞恥心から自分が女に犯された事実を隠しているのではないだろうか。聞く限り自己愛の強い軟弱者だから、充分にあり得る話だ。
「知られたくない奴もいる。黙っとけ」
「うん」
耳打ちを返すとジェーンは素直に頷き、立ち上がり、ヘレネに向かって首を振った。余計なことを話すなとも、抵抗するなとも、如何様にも受け取れるだろう。
だがヘレネはそこまで頭が回らなかったようだ。
「え、ジェーン……?なんで、お前が……?」
単純に混乱し始めた。
ヒルデガルドが目を剥いた。
「此処には、あなたしか汚れた人間はいません。恥を知りなさい」
そんなヒルデガルドをレオンが凝然と見上げている。
言い切ったヒルデガルドが足元に注意しながら足早に階段を下りてくると、レオンは目を逸らした。ヨハンは自身を律し冷静に状況を見極めようと目を配っている。
ヘレネが崩れ落ちて手摺にしがみ付きながら大粒の涙を流した。
「違う……ここにいる皆、されたのよ……?」
「……」
ヒルデガルドが足を止めた。
だが心は乱れていないように見えた。
ヒルデガルドは肩越しにヘレネに振り向くと素っ気なく呟いた。
「そんな気がした。だから怒ってるの」
これでわからなくなった。
ヒルデガルドが拷問の内容をどこまで把握しているのか、誰よりも気がかりなのはレオンだろう。
だがウィリスとかいう屑が保身に走り不完全な証言をすれば、隠し通せる。
狙ったかどうか定かではないし積極的に確認したくはないが、ヨハンはイザベルとアイリスという二人組に淫乱な同性愛者という印象を抱かせることに成功しているのだ。
無かったことにできるかもしれない。
ヒルデガルドに打ち明けるかどうか、それは、レオンが決めることだ。
「ヨハン」
ヒルデガルドが階段を下り切り参謀を呼びつける。
その顔は年相応を越えた威厳と貫禄に満ち溢れている。
「ソフィア王女を反逆者として告訴します。それから、謀反の首謀者として裁けなかった時に備えて教会から異端審問官を派遣してもらえる?できる?」
「お任せください」
ヨハンが嫣然と微笑み頭を垂れた。
階段の上で頽れて泣いていたヘレネがこの世の終わりかのような顔をして狼狽えた。
王太子と王妃を陥れようという王女の謀反で済めば知らぬ存ぜぬや強制されたと言い訳もできるが、異端審問官が来てしまえば姦淫の罪で裁かれる恐れがある。
俺との関係を隠し通そうとしても自白するまで尋問が行われるだろう。
拷問というものを知っているヘレネは、自分がされる側になるかもしれないと気づき怯えているのだ。
「魔女かどうか確かめないとね」
ヨハンに向けたヒルデガルドの静かな言葉がヘレネを追い詰めた。
「た……たすけて……助けてください!ヒルデガルド!お願い!なんでもするから!助けて!!」
手摺りにしがみ付き泣き叫ぶヘレネをヒルデガルドが見上げる。
そして最後通告を突きつけた。
「身の振り方を考えて、正しい証言をしてください。あなたは誉れ高きクローゼル侯爵閣下の御息女なのですから」
こうして二回目の宮廷裁判を待たず神の娘が王女を告訴する計画が動き出した。
小さな体と平和な丸顔からは想像もできないような威厳を放っていたヒルデガルドだったが、一段落ついて勢いが尽きたのか、ふと肩の力を抜いた。
そして吸い寄せられるようにしてレオンの方に歩いていくと、微笑ましい可愛げを見せた。
レオンの袖を摘まみ、背の高いレオンを間近で見上げたのだ。さすがはうちのお嬢様。可愛いものだ。
「興奮したら痛くなってきたわ。診てくれる?」
「……」
レオンは答えなかったが、実際、まだ声が出ないだけだろうと思われた。
痛みを堪えるような表情で頷いてからヒルデガルドを近くの空室に連れて行く。
二人の姿か見えなくなるとヨハンとジェーンが同時に動き出した。颯爽と階段を駆け上がり、ヘレネの懐柔にかかる。
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