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春が訪れた。
私は王妃がザシャに贈った船カヤリナ号に乗り大海原に浮かんでいる。

王妃としては私に見識を広げさせる意図があったと思われるが、慰安旅行の意味合いが強いこともまた事実である。ザシャはもちろんのこと本来は船員であったという《ユフシェリア》で出会った使用人たちに旅程を委ねながら、安心且つ安全な船の旅を私は楽しみ、感動させられていた。

潮の匂い。
移り変わる空の色。
鴎の声。
風の音。

全てが素晴らしく、私は新たな命を与えられたかのように感じた。

ジェーンは私が船酔いしないかしきりに気を揉んでいたが、幸いなことに船の揺れには鈍感な体をもって生まれたらしかった。
造船所育ちで船に造詣の深いジェーンはザシャや航海士とも対等に意見を交える知識と経験があり、頼れる一面を目の当たりにして私は益々尊敬せずにはいられなかった。

「見てください、長官」

ザシャ・ケスティング伯爵は私に地図を広げて見せる。

「ビズマーク伯領から南下し海路を渡った方が、ぐるっと王都を経由して北西のクレーフェ地方に入るよりずっと早いんですよ」
「そうね。指三本は短い距離に見える。実際には何日くらい短縮できるの?」
「天候にも寄りますが八日程度でしょう」
「私も船を持たなくては。あなたが探検している間はジェーンを頼るわ」
「あまり傾倒しないでください。あの女は気が大きくなりがちで、そのうち酷くしくじりますよ」

ザシャはよくジェーンを詰るが、意地悪からそうしているわけではないのはさりげない気遣いや静かな優しさでよくわかる。
事実、私が寝た後によくグラスを交えているようで、気が合うのも周知されていた。

楽しい船旅だった。
旅程としては近くの海域を遊覧し二十日以内に戻る予定である。
ザシャにとっても久しぶりの航海で、感覚を慣らす準備運動のようなものらしかった。

併し、突如、海が荒れた。

八日目の昼過ぎ、雲の流れに異変を感じたザシャはすぐさま引き返すべく舵を切ったが、空は忽ち灰色の雲で覆われ雨が降り始めた。

「大丈夫ですよ。雨くらいじゃ沈みませんからね」

ジェーンは笑顔で私を励ましたが、船内の騒がしさに私は緊張を覚えた。
数時間もすると船はそれまでと違う揺れ方をし始め、恐怖で気が動転したことも手伝い私はついに体調を崩した。だが大人しく寝ていられる心境でもなかった。

夜は嵐になり、この船は大きな波に呑み込まれるのではないかと恐怖した。

ジェーンは相変わらず私を励まし介抱してくれたが、次第に部屋を空ける回数が増え、その間隔も狭くなっていった。緊急事態に見舞われていると認めざるを得ない嵐の夜、私は、死を意識した。

「……!」

たまらず部屋を飛び出す。

船内は緊迫しており、その中でも私を見かけた船員は全員が部屋に戻れと声を上げた。
私はザシャを探していた。理屈より感情が私を突き動かしていた。そして荒れる海を睨み甲板に立つザシャを見つけることができた。

暴風雨が体を打つ。
私は転ばないよう足に力を込め、雨風に閉じようとする瞼で必死に瞬きをしながらザシャの傍まで辿り着く。ザシャが気づいて目を瞠る。

「出て来るな!」

怒られたが無理もなかった。
私はザシャに縋りついて懇願した。

「お願いします!帰りたいの。もう一度レオンに会わせてください……!」

嵐に負けないよう泣き叫んでいた。
命の終わりを覚悟した瞬間、私は神の娘でも教区長官でもなく、レオンを愛する一人の女に立ち返っていた。

雷鳴が轟く。
ザシャは漆黒の夜を背負い雷光の中で恐ろしい形相を浮かべていたが、怒鳴る声の内容は優しかった。

よく言った。俺が帰してやる。
ザシャはそう叫んで私を持ち上げた。

「すいませんね。滑って転んで端から海に放り出されちゃたまらないんで」

船内に運び込まれた私はようやくザシャに詫びた。

「ご、ごめんなさい……」

私はずぶ濡れで震え、泣いていた。
ザシャは私を通路の壁に寄りかかりやすいよう下ろすと、跪いて私の髪を撫でつけ、よく見えるよう正面から強い眼差しで覗き込み、私の頬を指先で数回呼び覚ます為に叩いた。

「長官、長官!……お嬢様」

私は次第に理性を取り戻した。

「お嬢様。部屋で祈っていてください。俺たちは余裕がありません。俺たち全員の分、お嬢様が祈っていてください。できますね?」
「……はい」
「神はあなたを決して見棄てはしない。そうですね?」
「……ええ、そう。みんなで生きて帰らなくては」
「そうです。恐がらないで。こんな嵐、屁でもありません」

取り乱した小娘などザシャにとっては足手まとい以外の何者でもなかっただろう。併し、ザシャは微笑んでいた。

雷光が照らし出す。
私たちは生かされている。

ザシャは私が落ち着くまで根気強く待っていた。もしかすると私が何か言うまでそのまま傍にいるつもりでさえいたのかもしれないが、ジェーンの声が割って入り表情を変える。

「居た!ずぶ濡れだし!!」

ジェーンは憤怒していた。
ザシャも憤怒した。

「目を離すな馬鹿!」
「はあっ!?こっちは操縦室で羅針盤ぶっ壊れて血眼で空見て海見て航海士は鼻血噴いて私が──」
「お嬢様、夜が明けて晴れればこっちのもんですから大丈夫です。ジェーン!お嬢様を部屋で休ませろ!」
「わかってるわよ!だから探し回ったんでしょ!!」

翌朝、嵐が過ぎ去った海はどこまでも碧く光り輝いていた。

ジェーンは後にこの夜の私を産気づいた牝牛のようだったと回想し、ザシャについては牝牛を宥めているようだったと言って笑った。
笑い話になったのだ。
私たちは遭難せず旅程を大幅に繰上げ、無事に岸辺へと帰り着いた。

そこには……
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