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東屋に着いた。
柱を掴み、椅子を叩き、地団太を踏み、別の柱をひっぱたいたところで疾走してくるランスが見えた。着替えてすぐに追ってきたようだ。
髪を乾かしてから来いと言ったのに。
私がシュヴァリエ伯爵家で濡れ衣を着せられた時、ステファンは信じてくれなかった。泣いて縋ろうと構わずに私を城門の外へ放り出した。
ランスは意匠を凝らした入り組んだ生垣を正確に進んでいる。遠目で表情が見えなくても彼が本気で私の為に走っているのだということは理解できた。
私たちは愛しあって結ばれた夫婦ではない。
今もまだ各々の部屋で寝起きしている。
更には、夫の部屋に入ったのは今日が初めてだ。
だから私より先に極めて自然に入浴中の夫の部屋で当然のように存在していたヴェルディエ伯爵夫人とランスが如何なる関係であろうと、構わない。責める理由など、恋愛結婚で結ばれたヴェルディエ伯爵に比べれば無いに等しい。
「シルヴィ……!」
東屋の柱に手を掛けて飛び込むような勢いでランスが私の前にやや前屈みで立った。東屋の梁にぶつかるから。
必死な夫の浮腫んだ顔を見上げて私は叫んでいた。
「特別な相手はいないって言ったじゃない!」
頭の片隅で私は自分の行いに驚いていた。感情的に叫ぶ私と、そんな私を一歩引いて眺める私。私の中に二人の私がいる。
「髪が濡れてるわ!!」
それは気になる。
「浮腫んでいるし!」
それは朝だから。
「入浴中の部屋に入れるなんて只の関係じゃないわ!」
やりすぎだとわかっていてもランスの胸の辺りを力いっぱい叩いてしまう。ランスは切羽詰まった表情ではあるものの、私の力ではびくともせずこちらの顔を覗き込んでくる。
「本当に御免。説明させて」
「したらいいわ!そのために此処で会おうと言ったんだもの!でも私の頭は冷えてないわ!あなたが髪も乾かさずにすぐ来たから!!」
「御免」
ランスは律儀だ。
そして常に私の言葉に耳を傾けてくれる。
私の中で二人の私が融合していく。
ただ叫んで責めているなんてまるで薄情者のステファンみたい。
違うでしょう、シルヴィ。
結婚したんだから。
私は信じると決めた。
だから、今のままでは駄目だ。
私はランスを睨んだまま薬指に手を掛けた。
「……!」
ランスが怯えたように息を飲む。私が結婚指輪を外した瞬間、ランスは絶望し傷ついていた。夫は私を失うのが恐くて髪も乾かさず顔が浮腫んだまま走ってきたのだ。
指輪を握りランスに突き出す。
「嫌だ」
ランスは小さく声を洩らし首を振った。
ヴェルディエ伯爵夫人の登場に私が怒り狂い契約を解消しようとしていると受け取ったのだろう。半分は当たっている。
私は尚も強く指輪を握った拳をランスの心臓辺りに突き立てる。
「嫌だ」
私を失いたくないと声まで震わせている人に、私が求めるのは只一つ。
「違う」
「……え?」
大きな淡褐色の瞳が揺れている。
きっと私の瞳も揺れているのだろう。
「馬車の中で神父様から受け取ったのよ。自分ではめた。あなたの指は今も身軽なまま。あの人の話をしたいなら、あなたがやり直して」
「……」
ランスは一つ大きく息を吸うと震える手ですっぽりと私の拳を包み込み、そのまま胸に抱きしめるよう背中を丸めた。胸に触れるだけで心に届くならどれほどいいだろう。
ランスの抱え込んだ理由を掴み出して、分け合えたら……
壊れ物でもないのに、ランスの大きな手が私の小さな拳を恐る恐る丁寧に解いていく。何度も熱い溜息を洩らし、どちらが泣いていてもおかしくないような息遣いで風の音を消していく。
「シルヴィ」
私の名を譫言のように囁いて、ランスが跪いた。
私の手を宝物のように扱いながら、薬指を熱い眼差しで見つめ、ランスが指輪をはめていく。指先から、ゆっくり、奥へ、奥へ……
「結婚してください……私の、妻に……」
「喜んで」
私の声は掠れていた。
この人を助けてあげたい。
柔らかなライトブラウンの髪が撫でて欲しそうで、私は右手をそっと添える。この人が衝動に任せて人を傷つけるはずがない。
私の知らない真実を、きちんと知りたい。
ランスが髪を撫でた私の手も握り込み甘えるよう頬に当てる。初めて触れた夫の頬は確かに浮腫んでいて、よく見れば瞼も重そうだ。
悲しい目をしている。
「ランス」
呼び掛けるとランスは私の両手を離し、代わりに胴体を挟んで軽々と椅子に座らせた。背の高い彼は跪いたまま少しだけ伸びあがり、私の頬を撫でる。私は少しだけ前屈みになり、誘われるまま唇を重ねた。
柱を掴み、椅子を叩き、地団太を踏み、別の柱をひっぱたいたところで疾走してくるランスが見えた。着替えてすぐに追ってきたようだ。
髪を乾かしてから来いと言ったのに。
私がシュヴァリエ伯爵家で濡れ衣を着せられた時、ステファンは信じてくれなかった。泣いて縋ろうと構わずに私を城門の外へ放り出した。
ランスは意匠を凝らした入り組んだ生垣を正確に進んでいる。遠目で表情が見えなくても彼が本気で私の為に走っているのだということは理解できた。
私たちは愛しあって結ばれた夫婦ではない。
今もまだ各々の部屋で寝起きしている。
更には、夫の部屋に入ったのは今日が初めてだ。
だから私より先に極めて自然に入浴中の夫の部屋で当然のように存在していたヴェルディエ伯爵夫人とランスが如何なる関係であろうと、構わない。責める理由など、恋愛結婚で結ばれたヴェルディエ伯爵に比べれば無いに等しい。
「シルヴィ……!」
東屋の柱に手を掛けて飛び込むような勢いでランスが私の前にやや前屈みで立った。東屋の梁にぶつかるから。
必死な夫の浮腫んだ顔を見上げて私は叫んでいた。
「特別な相手はいないって言ったじゃない!」
頭の片隅で私は自分の行いに驚いていた。感情的に叫ぶ私と、そんな私を一歩引いて眺める私。私の中に二人の私がいる。
「髪が濡れてるわ!!」
それは気になる。
「浮腫んでいるし!」
それは朝だから。
「入浴中の部屋に入れるなんて只の関係じゃないわ!」
やりすぎだとわかっていてもランスの胸の辺りを力いっぱい叩いてしまう。ランスは切羽詰まった表情ではあるものの、私の力ではびくともせずこちらの顔を覗き込んでくる。
「本当に御免。説明させて」
「したらいいわ!そのために此処で会おうと言ったんだもの!でも私の頭は冷えてないわ!あなたが髪も乾かさずにすぐ来たから!!」
「御免」
ランスは律儀だ。
そして常に私の言葉に耳を傾けてくれる。
私の中で二人の私が融合していく。
ただ叫んで責めているなんてまるで薄情者のステファンみたい。
違うでしょう、シルヴィ。
結婚したんだから。
私は信じると決めた。
だから、今のままでは駄目だ。
私はランスを睨んだまま薬指に手を掛けた。
「……!」
ランスが怯えたように息を飲む。私が結婚指輪を外した瞬間、ランスは絶望し傷ついていた。夫は私を失うのが恐くて髪も乾かさず顔が浮腫んだまま走ってきたのだ。
指輪を握りランスに突き出す。
「嫌だ」
ランスは小さく声を洩らし首を振った。
ヴェルディエ伯爵夫人の登場に私が怒り狂い契約を解消しようとしていると受け取ったのだろう。半分は当たっている。
私は尚も強く指輪を握った拳をランスの心臓辺りに突き立てる。
「嫌だ」
私を失いたくないと声まで震わせている人に、私が求めるのは只一つ。
「違う」
「……え?」
大きな淡褐色の瞳が揺れている。
きっと私の瞳も揺れているのだろう。
「馬車の中で神父様から受け取ったのよ。自分ではめた。あなたの指は今も身軽なまま。あの人の話をしたいなら、あなたがやり直して」
「……」
ランスは一つ大きく息を吸うと震える手ですっぽりと私の拳を包み込み、そのまま胸に抱きしめるよう背中を丸めた。胸に触れるだけで心に届くならどれほどいいだろう。
ランスの抱え込んだ理由を掴み出して、分け合えたら……
壊れ物でもないのに、ランスの大きな手が私の小さな拳を恐る恐る丁寧に解いていく。何度も熱い溜息を洩らし、どちらが泣いていてもおかしくないような息遣いで風の音を消していく。
「シルヴィ」
私の名を譫言のように囁いて、ランスが跪いた。
私の手を宝物のように扱いながら、薬指を熱い眼差しで見つめ、ランスが指輪をはめていく。指先から、ゆっくり、奥へ、奥へ……
「結婚してください……私の、妻に……」
「喜んで」
私の声は掠れていた。
この人を助けてあげたい。
柔らかなライトブラウンの髪が撫でて欲しそうで、私は右手をそっと添える。この人が衝動に任せて人を傷つけるはずがない。
私の知らない真実を、きちんと知りたい。
ランスが髪を撫でた私の手も握り込み甘えるよう頬に当てる。初めて触れた夫の頬は確かに浮腫んでいて、よく見れば瞼も重そうだ。
悲しい目をしている。
「ランス」
呼び掛けるとランスは私の両手を離し、代わりに胴体を挟んで軽々と椅子に座らせた。背の高い彼は跪いたまま少しだけ伸びあがり、私の頬を撫でる。私は少しだけ前屈みになり、誘われるまま唇を重ねた。
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