婚約者様にお子様ができてから、私は……

希猫 ゆうみ

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「ふぅん。小さくて驚いたけど可愛い御家じゃない」

こじんまりとした玄関広間は入ってすぐ上階に続く階段によって大胆に幅をとられ、更に調度品によって道を狭めている。
フローラ姫が小さな棚を指でこすりながら天井を見上げ、その細い首の限界を試すようにジェイドまで顔を巡らせた。

「趣味もいい。気に入ったわ!」
「姫様。猫じゃないんですから」

フローラ姫の乳母ロヴネル夫人が慣れた様子でその頭を両手で掴み、負担のない角度を取らせる。

私は未だ困惑したまま二人に続いて中へ進んだ。

言われた通り自室で待っていると、ジェイドは陽が沈んですぐ、フローラ姫とその乳母を伴い私を迎えに来てくれた。この展開に混乱せずにいられるほど、私は賢くない。

訳が分からなかった。

「スノウ。自分の家だと思って寛いでください」
「ジェイド……」

ありがたいと思いはするものの、やはり困惑が大きい。
何故こんなことになっているのか。

併し、少なくともヴィクターは私に興味がないということは理解できた。婚約者の私を、軍人とはいえ男性の家に預けるのである。ジェイドとヴィクターが親しい友人同士であればそういうこともあるかもしれない。併し、私もジェイドと知り合ったばかりであり、ヴィクターなどは今日が初対面のはずだ。

どうして……

「使用人は皆承知していますので、では、後はよろしくお願いします」
「はぁい」

ジェイドがロヴネル夫人に鍵を預けた。

「え?」

扉付近に立っていたジェイドがそのまま出て行こうとするのに驚き体ごと振り返る。そんな私に、ジェイドが微笑んだ。

「婚約者の在る女性と同じ屋根の下で過ごすわけないでしょう」
「……え、ジェイド……!?」
「大丈夫です。こう見えて私も軍人なので、任務であちこち動き回りますし、ここは持っているだけでたまに寝に帰るくらいの場所なんです。あなたの役に立ってよかった」
「え、あの」
「おやすみなさい」

戸惑う私にジェイドは笑みを深めると、そのまま、奥に進んでいたフローラ姫へと視線を向けた。

「殿下。おやすみなさい」
「はぁーい」

軍人の私邸が珍しいのだろう。フローラ姫は適当な返事をして邸宅内の探索を始めてしまった。それにも驚いてフローラ姫の消えた扉を見つめていた私の背後で玄関扉が閉まる。

「!?」

本当にジェイドは行ってしまった。
ロヴネル夫人が鍵を掛ける。

「ねえ!パウラ!これ何!?」

奥からフローラ姫の声が轟いた。

「はぁい!今行きますよ!……まったく。これじゃあ、スノウさんを匿う為か姫様の遠足かわかったもんじゃありませんねぇ」
「パウラ!!」
「今ッ、行きますッ!!」

ロヴネル夫人が大声で応じている。
ふくよかで笑顔の絶えないフローラ姫の乳母はこれまで私に冷たくもなければ優しくもなかったが、今日、初めて笑顔を向けた。

「二階の奥のお部屋だそうですよ」

他人行儀ではあったものの、他人としての微かな優しさを感じた。それは私には充分すぎる優しさだったので、感動した。
併し私は一人で二階に上がっていくのが恐かった。
知らない場所だ。フローラ姫の傍にいたい。

「あの、私も一緒に……」
「え?姫様と遊んでくださるんですか?」

ロヴネル夫人が目を丸くする。

「あ、はい」

私は即答した。
ロヴネル夫人が更に破顔し、豊かな胸を両手で撫で下ろすとその肉厚な手で私の手首を掴んだ。

「もう私には手に負えなくて。なんであんなにお元気なんでしょうね。男の子は外で勝手に遊んでくれるけど、女の子は構ってあげないといけないんですねぇ。狭いですけど踊れますか?」
「え?あ、はい」

踊るか踊れないか、私は考えていなかった。
只、未だ困惑していたが、フローラ姫とその乳母と私という三人で宮殿を出て一軒の家に身を落ち着けたという現実が、徐々に安堵と期待を私の心に齎していた。

自由……

完全な自由ではないけれど、解き放たれた気分だ。

何かとてつもない違反行為をしているような漠然とした不安もあるにはあった。でも、現実はこうなってしまったのだ。私にはどうすることもできない。

ロヴネル夫人に手を引かれ狭い廊下を奥へと進んでいくと、そこは見るからに洗濯室で、日も暮れて大鍋も冷えていた。フローラ姫はよじ登るように腕を掛け大鍋に入りかけている。

「お風呂じゃないわよね?」

真剣な表情を此方に向けてフローラ姫が大鍋の縁に足を掛けた。

「姫様!明日嫌ってほど見せて差し上げますから下りてください!もう!」
「……」

私は唖然とフローラ姫を見つめた。
スカーレイは私の目にも厳しい語学教師として映っていたが、その抑制力がどれだけのものかは正しく理解していなかったと悟る。

ロヴネル夫人がフローラ姫を羽交い絞めにして大鍋から引き剥がしながら私を呼んだ。

「スノウさん!お願いですから明日からまた姫様の体力を根こそぎ奪い取ってくださいな。恐ろしくて夜も眠れないですよ。まったく、猫ってより虎ですね……このっ、姫様!」
「わっ、ひっぱらないで!」

元気な二人を眺めていた私は、ふと、スカーレイが居ないという寂しさを忘れていた自分に気づいた。それと同時にスカーレイのいない場所で、スカーレイに守られているわけでもない、只一人の私が此処に立っているのだと思った。

それでも生きている。

勿論、私の力ではない。努力もしていない。
フローラ姫とジェイドが私を連れ出してくれたお陰だ。

「……」

不思議な感覚は暫く私を呆然とさせたが、次第に嬉しいような楽しいような気持ちになってきて、わかった。

新しい空気に触れた。
何かが変わり、始まったのだ。
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