49 / 65
47(カイン)
しおりを挟む
「あんたは英雄になるかもしれないって、父さんは言ってた」
丸みを帯びた背中を此方に向けたまま、アスガルド王国のたった一人の王位継承者の乳母を務めてきた女が呟いた。
私は鉄格子の鍵を静かに開け声をかける。
「怒らないでくれ」
「……」
パウラ・ロヴネルはゆっくりと振り向いた後、俊敏な身のこなしで独房から出て隣に立った。こちらから見上げ、頑なに目を合わせないその顔を眺める。
「これは過ちではない」
私の言葉に、乳母は冷笑したのかもしれない。
「パウラ」
もう二十年以上呼んでいなかった名前を口にすると、私自身、僅かに感傷的な気分になった。
「これは過ちではない」
私は繰り返した。
その実、パウラは冷笑しているわけではなかった。彼女には他者を嘲笑するような概念そのものがなく、たとえ呆れていようと私を笑いはしない。
ただ静かに、見つめるのみ。
「……」
豊かな頬の肉に埋もれた静謐な眼差しは確かに好意的な色は含んでいない。
人生で二度、国の滅亡に立ち会い、それが両方とも私の手によるクーデターだという事実が気に入らないのだろう。
「英雄でもないか?」
私は膝を伸ばしつつ問いかけた。
パウラは答えなかった。
私への返答を拒んでいるというより、パウラ自身が考えあぐねているといった様子だ。
「私は間違っているか?」
昔から口数の多い方ではない。
こちらから話しかけて必ず返答が得られる相手ではなかった。
だが、志は同じはずだった。
二十三年前、共に戦ったのだ。
「喪われた命の代償は、これくらいしてやらないと贖えない」
「英雄は私怨に民を巻き込まない」
パウラが呟いた。
寂寞の微風が私の中を静かに吹き抜ける。だが失望はしない。放浪の身であった私たちを迎え入れ、息子同然に育ててくれた恩師の娘に忠義以外の何を抱けというのか。
「期待に応えられず、すまなかった」
私は心からの謝罪を捧げた。
パウラは小さく首を振った。
「それは違う。二十三年前の戦いは正しかった。私たちはあの子を食い殺した神を、殺した」
厳格な宗教国家であったレイクシアでは、王家の占いによってことある毎に生贄を捧げた。それは王族や貴族から選ばれることもあれば、平民から選ばれることもあった。その意味では神の前に命の価値は平等だった。
王族が崇める湖の女神と、女神の祝福を受け神として生まれるという王家の男。
生贄とはそれらが腹を満たす為の餌に過ぎない。
「アスガルド教団の神たちは随分ましだった。自由と博愛を謳うだけあると私は感じたが、あんたは違った。それだけだ」
パウラは私の行いを非難するとまでは言わないまでも、快くは思っていない。それがよく伝わってくる。
「父さんの教え通り、あんたは固い軍隊を作った」
パウラがゆっくりと此方を向いた。
眼差しには非難も叱責もなく、若干の憐れみを感じる。
「復讐したな、カイン。アスガルド教団に何をされた?」
「……」
幼い頃の記憶が鮮明に蘇り、私はパウラに応える術を失った。
民を食い散らかすレイクシアの神、その狂った信仰、妄想を、湖の底に沈めた。
あのときアスガルド教団を利用した理由を、私は同志にすら語ってはこなかった。
私は王族ではない。
私の生まれ落ちた国に神は存在しなかった。
だから、アスガルド教団によって裁きの名の下に蹂躙された。
父は殺され、母はさらわれ、私は幼い妹ミアを連れて逃げた。逃げ延びた。
逃げ延びた先でパウラの父親に拾われ、騎士として育てられた。
ミアは誰からも可愛がられ、太陽のように、花のように、蝶のように、野兎のように、自由に生きていた。
そしてレイクシアの神殿兵によってさらわれ、生贄とされた。
神は私を追いかけ、捕らえ、私の家族を殺した。
人を食い散らかす神という存在は、私たちの肉を裂き、血をしゃぶり、宴を開き、酔い、笑い、崇めろと言う。
こんな馬鹿な話があるか。
私は、過ちを犯してはいない。
神の名など問題ではない。神は、神である限り、人を弄ぶ。
「言いたくないか。そうか」
パウラが微笑と共に背を向けた。
パウラは高潔な父親に育てられ、騎士学校で共に成長した同志アイザック・ロヴネルと結ばれた。
私たちはミアを殺され、愛する者を奪われ自身もいつ毒牙にかけられるかと怯える同志と共に、レイクシア王国を滅ぼした。
そして私は、今日、アスガルド王国も滅ぼした。
パウラの目に私はもう英雄の姿を映してはいない。
「フローラは逃げたのか?」
父親を殺し、国を滅ぼした私を恨むだろう。
生きていればいつか私を殺しにくるだろう。
私がそうであったように。
「あの子は殺せない」
パウラの答えは自身の心境ではなく私の心を見透かしたものだった。
パウラはミアのように振舞いフローラを育て上げた。
フローラの乳母は〝ミア〟なのだ。
私にフローラの命は奪えない。
「冬が来るぞ」
この地は凍る。
子ども一人、生き延びるのは不可能だ。
「あの子は生き延びる」
パウラはそう信じている。
冬を生き延びることができたのならば、春が来る。放浪の旅の果て、良い大人に出会い迎えられることもある。
私がそうであったように。
「そうか」
私は微かな安堵を覚え、ミアの姿を闇の中に描いた。
喪った命は二度と帰って来ない。
フローラには生きていてほしいと、私自身、思わなくもない。
ミア……
お前が、生きていたら……
「カイン。泣きたいのか?」
私の強さを喜ぶだろう。
「否」
私はパウラの肩に手を掛けた。
恩師の娘な上、友人アイザックの妻である女に対して下心などない。同志の肩に同志として手を掛けたのだ。
「悪かったな。腹が減っただろう。部屋を用意させた。寛いでくれ」
「……」
パウラは答えなかったが、私に合わせ歩き始める。
そうだ。歩いていくしかない。
私たち人間は、生きている限り、命ある限り、前に進むしかないのだ。
笑おうと、慟哭しようと。
最期のその瞬間まで。
丸みを帯びた背中を此方に向けたまま、アスガルド王国のたった一人の王位継承者の乳母を務めてきた女が呟いた。
私は鉄格子の鍵を静かに開け声をかける。
「怒らないでくれ」
「……」
パウラ・ロヴネルはゆっくりと振り向いた後、俊敏な身のこなしで独房から出て隣に立った。こちらから見上げ、頑なに目を合わせないその顔を眺める。
「これは過ちではない」
私の言葉に、乳母は冷笑したのかもしれない。
「パウラ」
もう二十年以上呼んでいなかった名前を口にすると、私自身、僅かに感傷的な気分になった。
「これは過ちではない」
私は繰り返した。
その実、パウラは冷笑しているわけではなかった。彼女には他者を嘲笑するような概念そのものがなく、たとえ呆れていようと私を笑いはしない。
ただ静かに、見つめるのみ。
「……」
豊かな頬の肉に埋もれた静謐な眼差しは確かに好意的な色は含んでいない。
人生で二度、国の滅亡に立ち会い、それが両方とも私の手によるクーデターだという事実が気に入らないのだろう。
「英雄でもないか?」
私は膝を伸ばしつつ問いかけた。
パウラは答えなかった。
私への返答を拒んでいるというより、パウラ自身が考えあぐねているといった様子だ。
「私は間違っているか?」
昔から口数の多い方ではない。
こちらから話しかけて必ず返答が得られる相手ではなかった。
だが、志は同じはずだった。
二十三年前、共に戦ったのだ。
「喪われた命の代償は、これくらいしてやらないと贖えない」
「英雄は私怨に民を巻き込まない」
パウラが呟いた。
寂寞の微風が私の中を静かに吹き抜ける。だが失望はしない。放浪の身であった私たちを迎え入れ、息子同然に育ててくれた恩師の娘に忠義以外の何を抱けというのか。
「期待に応えられず、すまなかった」
私は心からの謝罪を捧げた。
パウラは小さく首を振った。
「それは違う。二十三年前の戦いは正しかった。私たちはあの子を食い殺した神を、殺した」
厳格な宗教国家であったレイクシアでは、王家の占いによってことある毎に生贄を捧げた。それは王族や貴族から選ばれることもあれば、平民から選ばれることもあった。その意味では神の前に命の価値は平等だった。
王族が崇める湖の女神と、女神の祝福を受け神として生まれるという王家の男。
生贄とはそれらが腹を満たす為の餌に過ぎない。
「アスガルド教団の神たちは随分ましだった。自由と博愛を謳うだけあると私は感じたが、あんたは違った。それだけだ」
パウラは私の行いを非難するとまでは言わないまでも、快くは思っていない。それがよく伝わってくる。
「父さんの教え通り、あんたは固い軍隊を作った」
パウラがゆっくりと此方を向いた。
眼差しには非難も叱責もなく、若干の憐れみを感じる。
「復讐したな、カイン。アスガルド教団に何をされた?」
「……」
幼い頃の記憶が鮮明に蘇り、私はパウラに応える術を失った。
民を食い散らかすレイクシアの神、その狂った信仰、妄想を、湖の底に沈めた。
あのときアスガルド教団を利用した理由を、私は同志にすら語ってはこなかった。
私は王族ではない。
私の生まれ落ちた国に神は存在しなかった。
だから、アスガルド教団によって裁きの名の下に蹂躙された。
父は殺され、母はさらわれ、私は幼い妹ミアを連れて逃げた。逃げ延びた。
逃げ延びた先でパウラの父親に拾われ、騎士として育てられた。
ミアは誰からも可愛がられ、太陽のように、花のように、蝶のように、野兎のように、自由に生きていた。
そしてレイクシアの神殿兵によってさらわれ、生贄とされた。
神は私を追いかけ、捕らえ、私の家族を殺した。
人を食い散らかす神という存在は、私たちの肉を裂き、血をしゃぶり、宴を開き、酔い、笑い、崇めろと言う。
こんな馬鹿な話があるか。
私は、過ちを犯してはいない。
神の名など問題ではない。神は、神である限り、人を弄ぶ。
「言いたくないか。そうか」
パウラが微笑と共に背を向けた。
パウラは高潔な父親に育てられ、騎士学校で共に成長した同志アイザック・ロヴネルと結ばれた。
私たちはミアを殺され、愛する者を奪われ自身もいつ毒牙にかけられるかと怯える同志と共に、レイクシア王国を滅ぼした。
そして私は、今日、アスガルド王国も滅ぼした。
パウラの目に私はもう英雄の姿を映してはいない。
「フローラは逃げたのか?」
父親を殺し、国を滅ぼした私を恨むだろう。
生きていればいつか私を殺しにくるだろう。
私がそうであったように。
「あの子は殺せない」
パウラの答えは自身の心境ではなく私の心を見透かしたものだった。
パウラはミアのように振舞いフローラを育て上げた。
フローラの乳母は〝ミア〟なのだ。
私にフローラの命は奪えない。
「冬が来るぞ」
この地は凍る。
子ども一人、生き延びるのは不可能だ。
「あの子は生き延びる」
パウラはそう信じている。
冬を生き延びることができたのならば、春が来る。放浪の旅の果て、良い大人に出会い迎えられることもある。
私がそうであったように。
「そうか」
私は微かな安堵を覚え、ミアの姿を闇の中に描いた。
喪った命は二度と帰って来ない。
フローラには生きていてほしいと、私自身、思わなくもない。
ミア……
お前が、生きていたら……
「カイン。泣きたいのか?」
私の強さを喜ぶだろう。
「否」
私はパウラの肩に手を掛けた。
恩師の娘な上、友人アイザックの妻である女に対して下心などない。同志の肩に同志として手を掛けたのだ。
「悪かったな。腹が減っただろう。部屋を用意させた。寛いでくれ」
「……」
パウラは答えなかったが、私に合わせ歩き始める。
そうだ。歩いていくしかない。
私たち人間は、生きている限り、命ある限り、前に進むしかないのだ。
笑おうと、慟哭しようと。
最期のその瞬間まで。
28
あなたにおすすめの小説
初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。
だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。
しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。
王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。
そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。
地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。
⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。
妹を選んで婚約破棄した婚約者は、平民になる現実を理解していなかったようです
藤原遊
恋愛
跡継ぎとして育てられた私には、将来を約束された婚約者がいた。
――けれど彼は、私ではなく「妹」を選んだ。
妹は父の愛人の子。
身分も立場も分かったうえでの選択だと思っていたのに、
彼はどうやら、何も理解していなかったらしい。
婚約を破棄し、妹と結ばれた彼は、
当然のように貴族の立場を失い、平民として生きることになる。
一方で、妹は覚悟を決めて現実に向き合っていく。
だが彼だけが、最後まで「元に戻れる」と信じ続けていた。
これは、誰かが罰した物語ではない。
ただ、選んだ道の先にあった現実の話。
覚悟のなかった婚約者が、
自分の選択と向き合うまでを描いた、静かなざまぁ物語。
お好きになさって下さい、私は一切気にしませんわ
Kouei
恋愛
婚約者のクレマンド様は、いつも私との約束を破ってばかり。
理由は決まって『従妹ライラ様との用事』
誕生日会にすら来なかった彼に、私はついに告げた。
「どうぞ、私以外のご令嬢をエスコートするなり、お出かけするなり、関係を持つなり、お好きになさって下さい。私は一切気にしませんわ」
二人の想いは、重なり合えるのだろうか ……
※他のサイトにも公開しています。
【完結】六歳下の幼馴染に溺れた夫。白い結婚を理由に離縁を申し立てたら、義弟(溺愛)に全力で求婚されました
恋せよ恋
恋愛
夫が愛でるのは、守ってあげたくなるような「可憐な少女」。
夫が疎むのは、正論で自分を追い詰める「完璧な妻」。
「シンシア、君はしっかりしているから、大丈夫だろう?」
六歳年下の幼馴染ジェニファー子爵令嬢を気遣う貴方。
私たちは、新婚初夜さえ済ませていないのよ?
完璧な家政、完璧な社交。私が支えてきたこの家から、
ニコラス、貴方って私がいなくなったらどうなるか……。
考えたこともないのかしら?
義弟シモンは、学生時代の先輩でもあるシンシアを慕い
兄ニコラスの態度と、幼馴染ジェニファーを嫌悪する。
泣いて縋るあざとい少女と、救世主気取りの愚かな夫。
そして、義姉であるシンシアを慕うシモン。
これは、誇り高き伯爵夫人、シンシアの物語である。
🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。
🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。
🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!
忘れ去られた婚約者
かべうち右近
恋愛
『僕はレベッカしか選ばない』
甘い声音でそう話したはずの王太子サイラスは、レベッカを忘れてしまった。
レベッカは、王太子サイラスと付き合っていることを、ある事情により隠していた。舞踏会で関係を公表し、婚約者に指名される予定だったのに、舞踊会の夜にサイラスは薬を盛られて倒れ、記憶喪失になってしまう。
恋人が誰なのかわからないのをいいことに、偽の恋人が次々と名乗りをあげ王太子の婚約者の座を狙ってくる。おかげで不信に陥ったサイラスに、レベッカは自分が恋人だと名乗り出せなくなってしまった。
サイラスの記憶喪失を解消するため、薬師兼魔女であるレベッカは恋人であることを隠しながら、事件調査を協力することになった。そうして記憶が戻らないまま二人の距離は再び近づいていく。だが、そんなおりにサイラスの偽の恋人を名乗りでた令嬢たちが、次々と襲われる事件も起き始めて……!?
※他のサイトにも掲載しています。
毎日更新です。
【完結】愛とは呼ばせない
野村にれ
恋愛
リール王太子殿下とサリー・ペルガメント侯爵令嬢は六歳の時からの婚約者である。
二人はお互いを励まし、未来に向かっていた。
しかし、王太子殿下は最近ある子爵令嬢に御執心で、サリーを蔑ろにしていた。
サリーは幾度となく、王太子殿下に問うも、答えは得られなかった。
二人は身分差はあるものの、子爵令嬢は男装をしても似合いそうな顔立ちで、長身で美しく、
まるで対の様だと言われるようになっていた。二人を見つめるファンもいるほどである。
サリーは婚約解消なのだろうと受け止め、承知するつもりであった。
しかし、そうはならなかった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる