婚約者様にお子様ができてから、私は……

希猫 ゆうみ

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47(カイン)

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「あんたは英雄になるかもしれないって、父さんは言ってた」

丸みを帯びた背中を此方に向けたまま、アスガルド王国のたった一人の王位継承者の乳母を務めてきた女が呟いた。

私は鉄格子の鍵を静かに開け声をかける。

「怒らないでくれ」
「……」

パウラ・ロヴネルはゆっくりと振り向いた後、俊敏な身のこなしで独房から出て隣に立った。こちらから見上げ、頑なに目を合わせないその顔を眺める。

「これは過ちではない」

私の言葉に、乳母は冷笑したのかもしれない。

「パウラ」

もう二十年以上呼んでいなかった名前を口にすると、私自身、僅かに感傷的な気分になった。

「これは過ちではない」

私は繰り返した。

その実、パウラは冷笑しているわけではなかった。彼女には他者を嘲笑するような概念そのものがなく、たとえ呆れていようと私を笑いはしない。

ただ静かに、見つめるのみ。

「……」

豊かな頬の肉に埋もれた静謐な眼差しは確かに好意的な色は含んでいない。
人生で二度、国の滅亡に立ち会い、それが両方とも私の手によるクーデターだという事実が気に入らないのだろう。

「英雄でもないか?」

私は膝を伸ばしつつ問いかけた。

パウラは答えなかった。
私への返答を拒んでいるというより、パウラ自身が考えあぐねているといった様子だ。

「私は間違っているか?」

昔から口数の多い方ではない。
こちらから話しかけて必ず返答が得られる相手ではなかった。

だが、志は同じはずだった。
二十三年前、共に戦ったのだ。

「喪われた命の代償は、これくらいしてやらないと贖えない」
「英雄は私怨に民を巻き込まない」

パウラが呟いた。
寂寞の微風が私の中を静かに吹き抜ける。だが失望はしない。放浪の身であったを迎え入れ、息子同然に育ててくれた恩師の娘に忠義以外の何を抱けというのか。

「期待に応えられず、すまなかった」

私は心からの謝罪を捧げた。
パウラは小さく首を振った。

「それは違う。二十三年前の戦いは正しかった。私たちはを食い殺した神を、殺した」

厳格な宗教国家であったレイクシアでは、王家の占いによってことある毎に生贄を捧げた。それは王族や貴族から選ばれることもあれば、平民から選ばれることもあった。その意味では神の前に命の価値は平等だった。

王族が崇める湖の女神と、女神の祝福を受け神として生まれるという王家の男。
生贄とはそれらが腹を満たす為の餌に過ぎない。

「アスガルド教団の神たちは随分ましだった。自由と博愛を謳うだけあると私は感じたが、あんたは違った。それだけだ」

パウラは私の行いを非難するとまでは言わないまでも、快くは思っていない。それがよく伝わってくる。

「父さんの教え通り、あんたは固い軍隊を作った」

パウラがゆっくりと此方を向いた。
眼差しには非難も叱責もなく、若干の憐れみを感じる。

「復讐したな、カイン。アスガルド教団に何をされた?」
「……」

幼い頃の記憶が鮮明に蘇り、私はパウラに応える術を失った。

民を食い散らかすレイクシアの神、その狂った信仰、妄想を、湖の底に沈めた。
あのときアスガルド教団を利用した理由を、私は同志にすら語ってはこなかった。

私は王族ではない。
私の生まれ落ちた国に神は存在しなかった。

だから、アスガルド教団によって裁きの名の下に蹂躙された。

父は殺され、母はさらわれ、私は幼い妹ミアを連れて逃げた。逃げ延びた。

逃げ延びた先でパウラの父親に拾われ、騎士として育てられた。
ミアは誰からも可愛がられ、太陽のように、花のように、蝶のように、野兎のように、自由に生きていた。

そしてレイクシアの神殿兵によってさらわれ、生贄とされた。

神は私を追いかけ、捕らえ、私の家族を殺した。
人を食い散らかす神という存在は、私たちの肉を裂き、血をしゃぶり、宴を開き、酔い、笑い、崇めろと言う。

こんな馬鹿な話があるか。

私は、過ちを犯してはいない。
神の名など問題ではない。神は、神である限り、人を弄ぶ。

「言いたくないか。そうか」

パウラが微笑と共に背を向けた。

パウラは高潔な父親に育てられ、騎士学校で共に成長した同志アイザック・ロヴネルと結ばれた。
私たちはミアを殺され、愛する者を奪われ自身もいつ毒牙にかけられるかと怯える同志と共に、レイクシア王国を滅ぼした。

そして私は、今日、アスガルド王国も滅ぼした。

パウラの目に私はもう英雄の姿を映してはいない。

「フローラは逃げたのか?」

父親を殺し、国を滅ぼした私を恨むだろう。
生きていればいつか私を殺しにくるだろう。
私がそうであったように。

「あの子は殺せない」

パウラの答えは自身の心境ではなく私の心を見透かしたものだった。

パウラはミアのように振舞いフローラを育て上げた。
フローラの乳母は〝ミア〟なのだ。

私にフローラの命は奪えない。

「冬が来るぞ」

この地は凍る。
子ども一人、生き延びるのは不可能だ。

「あの子は生き延びる」

パウラはそう信じている。

冬を生き延びることができたのならば、春が来る。放浪の旅の果て、良い大人に出会い迎えられることもある。
私がそうであったように。

「そうか」

私は微かな安堵を覚え、ミアの姿を闇の中に描いた。

喪った命は二度と帰って来ない。
フローラには生きていてほしいと、私自身、思わなくもない。

ミア……

お前が、生きていたら……

「カイン。泣きたいのか?」

私の強さを喜ぶだろう。

「否」

私はパウラの肩に手を掛けた。
恩師の娘な上、友人アイザックの妻である女に対して下心などない。同志の肩に同志として手を掛けたのだ。

「悪かったな。腹が減っただろう。部屋を用意させた。寛いでくれ」
「……」

パウラは答えなかったが、私に合わせ歩き始める。

そうだ。歩いていくしかない。
私たち人間は、生きている限り、命ある限り、前に進むしかないのだ。

笑おうと、慟哭しようと。
最期のその瞬間まで。
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