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8(ヴェロニカ)
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ガイウスの結婚生活が複雑な課題を抱えているのを知り、胸が痛んだ。
私の母は結婚をせず、女手一つで私を育て上げた。だから〝夫〟の支えなど、望むことさえ許されなかった。
けれど母の抱えていた複雑な問題と、フェラレーゼ伯爵夫人ソレーヌの苦しむ人生の課題は、全く別のものだ。
私はできる限り彼女の力になれたらと考え、以前に増して健康的な料理を心掛けた。
フェラレーゼ伯爵家の料理人たちは仕えている相手が美食家夫妻ということで、贅沢で豪華な食卓が念頭に置かれていたけれど、ソレーヌの元女騎士という鍛錬と献身に彩られた半生に敬意を表し、少しずつメニューに変化を加えていくこの試みに協力してくれた。
それはもしかしたら、出産適齢期を過ぎてしまった女性から跡継ぎが産まれるという奇跡を期待したからかもしれない。
彼らは、思い悩んだ女主が私に身代わり出産を望んだとは知らない。
ガイウスも私も、そこまで思い詰めてしまった彼女にどうにかして元気になってもらいたい一心だった。
勿論、私としても言われるままにガイウスの子を産むなど到底考えられない。
けれどソレーヌに対する怒りや不満はなかった。何故なら、彼女は思い悩み、苦しんでいる。塞ぎ込んでしまったが故の気の迷いだから。
確かに強い女性なのだ。
だからといって、心に繊細な部分がないという事にはならない。
あまり余計な刺激を与えないように注意しながらではあるものの、出来る限り支えてさしあげたい。
その思いを分かち合えるのはガイウスだけ。私は周囲に緊張を悟られないよう懸命に毎日を過ごした。
変化は四日目の夕方から徐々に始まった。
夫妻が遠乗りに出かけた。
夕陽が赤く丘を染め、風が心地よい。
その中へ溶けていく二人の影は、一つの絵画や挿絵のように美しかった。
それからピクニックや小旅行が繰り返され、フェラレーゼ伯爵夫妻は活発に人生を謳歌し始めた。
元女騎士のソレーヌにガイウスが剣の稽古を付けている様子も、庭や小広間で見ることができるようになった。
ソレーヌの快活な笑い声や励ましの声は、こちらも鼓舞されるような不思議な魅力があった。
夏がくると、夫妻は領民に祭の開催を告げ知らせた。
身分を越えた子どもたちの武闘会は、村での予選と本選からフェラレーゼ伯爵家での準決勝選と決勝戦、実に二週間に渡り盛大な盛り上がりを見せた。
きっと子どもたちにとっても一夏のいい思い出になっただろう。
フェラレーゼ伯爵家での準決勝と決勝戦は一際賑やかだった。
今まで奮闘した子どもたちだけでなく其々の村や町から大人たちも集まり、観客の歓声もそれなりに凄まじく、完全に文字通りのお祭り騒ぎ。
領主様の御屋敷で三食食べ放題というのも、この舞踏会の魅力だったのだから無理もない。
相手は平民や商人たちとあって気楽ではあったもののキッチンは狂気的な忙しさで、コックやメイドたちも鬼気迫る顔付きで奮闘し、私は私で子どもたちの為の焼き菓子を焼きまくり、ついにはガイウスもその腕をふるった。
元女騎士であるソレーヌの厳しい審査や評価が威厳たっぷりに伝えられる一方で、ガイウスは子どもたちに熱い励ましと労いとミートパイを送り、其々が絶大な人気を得ていたのも面白い結果の一つだった。
子どもたちには順位に応じで賞金が与えられ、希望者には騎士団や国軍への推薦状が約束されていた。
フェラレーゼ伯爵家の警備兵にも四人の少年がスカウトされたと、ガイウスから直接聞いた。
素晴らしい夏が過ぎ、秋がやってくる。
「かぼちゃパイ、食べたいなぁ」
私が独り言ちたのを、まさかガイウスに聞かれているとは思わなかった。
くすりと笑った声を聞いて驚いて振り向くと、いた。
「もう、驚かせないでください」
「君にお礼を言いたくなって」
「何度も伺いました。奥様も元気になられて、お二人が幸せそうで、私も嬉しいです」
だからそう度々言いに来なくても結構です。
と、嫌ではないとしても察して貰わなくてはならない。
事の発端は、私に代わりに跡継ぎを産んでほしいという話なのだ。私とガイウスが個人的に二人きりになったり、他の誰かを交えず会話するのは控えた方がいいに決まっている。
そういうところに無頓着なのもガイウスの好ましい性格ではある。
物事を複雑に考えないのは正直さやわかりやすい善意の表れでもあるからだ。
とはいえ……と思うのは私が女だからかもしれない。
「本当にありがとう。君の助言に従って、全て素晴らしい結果になった。ソレーヌは今いちばん輝いているよ」
「よかったです」
「ソレーヌだけじゃない。子どもたちを主役にした領民たちとの交流は、私にとっても素晴らしい体験だった。私はただ支配するのではなく、領主として慕われ、守りたい。常々そう思っていた」
「優しい御領主様でフェラレーゼの民は幸せですね」
「君に恩返しがしたい」
笑顔で見つめ合いながら私はすぐさま首を振って辞退の気持ちを表明する。
「奥様に元気になっていただきたかった。その夢は叶いましたから、私は何もいりません」
「ヴェロニカ」
「お二人のお幸せが何よりのご褒美です。どうか末永くお幸せに。私たち民の希望の光でいてください」
宮廷仕込みの深い御辞儀で〝旦那様〟との会話を綺麗に終わらせようと努めた私は、優しく、力強く、ガイウスの手によって身を起こすよう促されてしまった。
「……」
感謝と優しさに煌めくガイウスの瞳がじっと私を見つめている。
口元に浮かぶ笑みも心からの喜びを刻んでいるのがわかる。
私の為に何かしたい。
その気持ちを汲まなくてはこの場は収まらないのだと悟った。
「あと、かぼちゃパイがあれば完璧です」
やや前のめりで伝えると、ガイウスが満面の笑みを浮かべた。
弁えなくちゃと思っていても、やっぱり昔の思い出に引き摺られる。
結局は嬉しくなって、それに期待もあって、私も馴れ馴れしい笑みを浮かべてしまった。
そして美味しいかぼちゃパイを食べた。
とても美味しかった。
「どうしてだろう。何度も真似しようとしたのに、あなたと同じ味にならない」
つい、うっかり。
そんな口の利き方もしてしまう。
「何が隠し味なの?」
「うん。やはり秘密にしよう」
「どうして!?」
と、ここで我に返る。
「どうしてですか?教えてください」
「駄目だ」
ガイウスは優しく私を見つめたまま、キラキラと瞳を輝かせて少し目を細めた。
「一生、君を喜ばせる私のままでいたい」
「……」
なるほど、こうやって奥様を口説いたのね。
ガイウスが性格だけではなく外見も魅力的な男性であることは敢えて口にしないだけで、事実だ。
私にとっては優しい思い出を共有できるたった一人の存在、家族のようなあたたかな存在。血筋と身分を弁えて、そういった信頼感さえ表に出さないのが正しいことだとわかっている。
でも、たまに……
ガイウスが掛替えのない心の支えであると感じる。
一生、傍に居て、安心していたい。
それは私の本心であり、誰にも言えない願い。
そして叶えられる願いでもあった。
だって、私はフェラレーゼ伯爵家のメイドなのだから。
私は、ガイウスに恋をしているとは考えていなかった。
ガイウスの結婚生活が幸せであってほしいと本気で望んでいたし、私にとってガイウスは、一生、幸せであってほしいと願う相手なのだ。
幼い頃、父親のいない私が兄のように慕った、伯爵様。
私はこの壁を越えようと考えたことも、越えたいと望んだこともなかった。だからソレーヌの為に出来る限りのことをしたいと思ったのだ。ガイウスの愛する人だから。
その想いは届かなかった。
私の母は結婚をせず、女手一つで私を育て上げた。だから〝夫〟の支えなど、望むことさえ許されなかった。
けれど母の抱えていた複雑な問題と、フェラレーゼ伯爵夫人ソレーヌの苦しむ人生の課題は、全く別のものだ。
私はできる限り彼女の力になれたらと考え、以前に増して健康的な料理を心掛けた。
フェラレーゼ伯爵家の料理人たちは仕えている相手が美食家夫妻ということで、贅沢で豪華な食卓が念頭に置かれていたけれど、ソレーヌの元女騎士という鍛錬と献身に彩られた半生に敬意を表し、少しずつメニューに変化を加えていくこの試みに協力してくれた。
それはもしかしたら、出産適齢期を過ぎてしまった女性から跡継ぎが産まれるという奇跡を期待したからかもしれない。
彼らは、思い悩んだ女主が私に身代わり出産を望んだとは知らない。
ガイウスも私も、そこまで思い詰めてしまった彼女にどうにかして元気になってもらいたい一心だった。
勿論、私としても言われるままにガイウスの子を産むなど到底考えられない。
けれどソレーヌに対する怒りや不満はなかった。何故なら、彼女は思い悩み、苦しんでいる。塞ぎ込んでしまったが故の気の迷いだから。
確かに強い女性なのだ。
だからといって、心に繊細な部分がないという事にはならない。
あまり余計な刺激を与えないように注意しながらではあるものの、出来る限り支えてさしあげたい。
その思いを分かち合えるのはガイウスだけ。私は周囲に緊張を悟られないよう懸命に毎日を過ごした。
変化は四日目の夕方から徐々に始まった。
夫妻が遠乗りに出かけた。
夕陽が赤く丘を染め、風が心地よい。
その中へ溶けていく二人の影は、一つの絵画や挿絵のように美しかった。
それからピクニックや小旅行が繰り返され、フェラレーゼ伯爵夫妻は活発に人生を謳歌し始めた。
元女騎士のソレーヌにガイウスが剣の稽古を付けている様子も、庭や小広間で見ることができるようになった。
ソレーヌの快活な笑い声や励ましの声は、こちらも鼓舞されるような不思議な魅力があった。
夏がくると、夫妻は領民に祭の開催を告げ知らせた。
身分を越えた子どもたちの武闘会は、村での予選と本選からフェラレーゼ伯爵家での準決勝選と決勝戦、実に二週間に渡り盛大な盛り上がりを見せた。
きっと子どもたちにとっても一夏のいい思い出になっただろう。
フェラレーゼ伯爵家での準決勝と決勝戦は一際賑やかだった。
今まで奮闘した子どもたちだけでなく其々の村や町から大人たちも集まり、観客の歓声もそれなりに凄まじく、完全に文字通りのお祭り騒ぎ。
領主様の御屋敷で三食食べ放題というのも、この舞踏会の魅力だったのだから無理もない。
相手は平民や商人たちとあって気楽ではあったもののキッチンは狂気的な忙しさで、コックやメイドたちも鬼気迫る顔付きで奮闘し、私は私で子どもたちの為の焼き菓子を焼きまくり、ついにはガイウスもその腕をふるった。
元女騎士であるソレーヌの厳しい審査や評価が威厳たっぷりに伝えられる一方で、ガイウスは子どもたちに熱い励ましと労いとミートパイを送り、其々が絶大な人気を得ていたのも面白い結果の一つだった。
子どもたちには順位に応じで賞金が与えられ、希望者には騎士団や国軍への推薦状が約束されていた。
フェラレーゼ伯爵家の警備兵にも四人の少年がスカウトされたと、ガイウスから直接聞いた。
素晴らしい夏が過ぎ、秋がやってくる。
「かぼちゃパイ、食べたいなぁ」
私が独り言ちたのを、まさかガイウスに聞かれているとは思わなかった。
くすりと笑った声を聞いて驚いて振り向くと、いた。
「もう、驚かせないでください」
「君にお礼を言いたくなって」
「何度も伺いました。奥様も元気になられて、お二人が幸せそうで、私も嬉しいです」
だからそう度々言いに来なくても結構です。
と、嫌ではないとしても察して貰わなくてはならない。
事の発端は、私に代わりに跡継ぎを産んでほしいという話なのだ。私とガイウスが個人的に二人きりになったり、他の誰かを交えず会話するのは控えた方がいいに決まっている。
そういうところに無頓着なのもガイウスの好ましい性格ではある。
物事を複雑に考えないのは正直さやわかりやすい善意の表れでもあるからだ。
とはいえ……と思うのは私が女だからかもしれない。
「本当にありがとう。君の助言に従って、全て素晴らしい結果になった。ソレーヌは今いちばん輝いているよ」
「よかったです」
「ソレーヌだけじゃない。子どもたちを主役にした領民たちとの交流は、私にとっても素晴らしい体験だった。私はただ支配するのではなく、領主として慕われ、守りたい。常々そう思っていた」
「優しい御領主様でフェラレーゼの民は幸せですね」
「君に恩返しがしたい」
笑顔で見つめ合いながら私はすぐさま首を振って辞退の気持ちを表明する。
「奥様に元気になっていただきたかった。その夢は叶いましたから、私は何もいりません」
「ヴェロニカ」
「お二人のお幸せが何よりのご褒美です。どうか末永くお幸せに。私たち民の希望の光でいてください」
宮廷仕込みの深い御辞儀で〝旦那様〟との会話を綺麗に終わらせようと努めた私は、優しく、力強く、ガイウスの手によって身を起こすよう促されてしまった。
「……」
感謝と優しさに煌めくガイウスの瞳がじっと私を見つめている。
口元に浮かぶ笑みも心からの喜びを刻んでいるのがわかる。
私の為に何かしたい。
その気持ちを汲まなくてはこの場は収まらないのだと悟った。
「あと、かぼちゃパイがあれば完璧です」
やや前のめりで伝えると、ガイウスが満面の笑みを浮かべた。
弁えなくちゃと思っていても、やっぱり昔の思い出に引き摺られる。
結局は嬉しくなって、それに期待もあって、私も馴れ馴れしい笑みを浮かべてしまった。
そして美味しいかぼちゃパイを食べた。
とても美味しかった。
「どうしてだろう。何度も真似しようとしたのに、あなたと同じ味にならない」
つい、うっかり。
そんな口の利き方もしてしまう。
「何が隠し味なの?」
「うん。やはり秘密にしよう」
「どうして!?」
と、ここで我に返る。
「どうしてですか?教えてください」
「駄目だ」
ガイウスは優しく私を見つめたまま、キラキラと瞳を輝かせて少し目を細めた。
「一生、君を喜ばせる私のままでいたい」
「……」
なるほど、こうやって奥様を口説いたのね。
ガイウスが性格だけではなく外見も魅力的な男性であることは敢えて口にしないだけで、事実だ。
私にとっては優しい思い出を共有できるたった一人の存在、家族のようなあたたかな存在。血筋と身分を弁えて、そういった信頼感さえ表に出さないのが正しいことだとわかっている。
でも、たまに……
ガイウスが掛替えのない心の支えであると感じる。
一生、傍に居て、安心していたい。
それは私の本心であり、誰にも言えない願い。
そして叶えられる願いでもあった。
だって、私はフェラレーゼ伯爵家のメイドなのだから。
私は、ガイウスに恋をしているとは考えていなかった。
ガイウスの結婚生活が幸せであってほしいと本気で望んでいたし、私にとってガイウスは、一生、幸せであってほしいと願う相手なのだ。
幼い頃、父親のいない私が兄のように慕った、伯爵様。
私はこの壁を越えようと考えたことも、越えたいと望んだこともなかった。だからソレーヌの為に出来る限りのことをしたいと思ったのだ。ガイウスの愛する人だから。
その想いは届かなかった。
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