20 / 43
20
しおりを挟む
新鮮で感動的な新生活に一つだけ小さな滲みが落とされたのは、グレース妃の出産予定日も四ヶ月後に迫ったある晴れた冬の日のことだった。
三ヶ所の昇降椅子も完成し、グレース妃の他、ミルク入りの甕や調度品の運搬にも活用されている。
私も何度か乗せてもらい、その乗り心地には笑いが止まらなかった。巨大な面白い玩具みたいで。
しかもこの昇降椅子は奇術師の提案で稼働中にオルゴールが美しい曲を奏でるのだ。
侍女頭のウォリロウ侯爵夫人まで微笑ませた。
二ヶ月後には、祖母と母親から技術と叡智を叩き込まれた産婆令嬢も到着する。
全てが完璧だった、その日。
マシューから手紙が届いた。
「……」
気が乗らないわけでも、期待したわけでもない。
ただ元婚約者として、私は手紙に目を通すべき存在だったというだけだ。
「……」
マシューからの手紙には心の篭った謝罪の言葉だけが綴られていた。
言い訳や驕り、そしてあの一方的な性格批判は一切なかった。
私を傷つけたことや、私がマシューの思う程強く完璧ではないことを理解してもらえたと、私が納得するには充分な手紙だった。
言ってもらいたかった言葉が全て書かれていた。
彼は本来、優しい人だ。
私は、私を誤解したまま責め立てて一方的に婚約破棄を叩きつけられたことが心残りだった。
終わってしまったけれど、本当の私を理解してくれたという事実は、幾らか私の心の傷を癒してくれた。
彼によって刻まれた心の傷は、次の結婚で塞げるかもしれない。
ただ、癒せるのは彼だけだとわかっていた。
薬になるのは、彼の、気づきだけだと……
「……はぁ」
全て、幻だったらいいのに。
一連の出来事が全て、なかったらいいのに。
信頼し、手を取り合い、笑い合い、語り合い……その全ての時間が優しさに包まれていた。
うまくいっていた期間、私は確かに、幸せだった。
でもマシューには、私の他にも大切な存在がいたのだ。
それは男女の愛という意味では裏切りに値しないかもしれないけれど、マシューは、ハリエットと分け合わなくてはいけない存在だった。
そんな夫は、やはり要らない。
──魂で結ばれておりますので
あの中年間近の平民の真面目でロマンチックな男が言うように、私にも、そんな相手がいたらいいのに。
マシューとの心のわだかまりが一種の解決を迎えた事実は、歓迎すべきことだった。
ところが思いの他、寂しさが私を苛んだ。
敵である間、マシューは私の一部だった。
目を逸らすべき怒りという存在として、私の一部だったのだ。
私はマシューを完全に失った。
本当に、私の結婚は打ち壊され、未来もまた、壊されて消えて無くなってしまった。
私は独りぼっちだ。
「今更なんなの?腹立たしい。私たちの大切なレイチェルを悲しませるなんて、この手で八つ裂きにしてやりたいわ」
膨らんだお腹を愛しそうに撫でながら、グレース妃が怒りをぶちまける。
「ああ……そんな顔しないで、レイチェル。任せて。私が切り刻んで燃やして灰にしてあげる」
「……」
「手紙をよ。本人じゃない」
そんな義憤にかられる愛妻をクリストファー殿下が目尻を下げて愛しそうに眺めている。
勿論、毛先を回して。
その毛先が手の甲に触れた瞬間、グレース妃が吠えた。
「レイチェルは愛していたのよ!だから悲しいの!なにを笑っているの!?」
「グレース様。落ち着いてください。殿下は、グレース様の優しさに心を和まされ微笑まれているだけです。私を笑っているのではありません」
思いの他、マシューとの破談が今になって私を落ち込ませている。
元気が出ない……
「無神経に手紙なんて寄こしてレイチェルの心の傷をほじくり返して……!」
グレース妃は元気。
爆発しそうな力を抑え込んで震えている。
私の為に。
光栄だわ……
「殿下、お腹の子に障ります。レイチェルはグレース様との生活ですっかり立ち直りました。一時的な感傷です。相手にするまでもありません。小者です」
侍女頭ウォリロウ侯爵夫人はいつも頼りになる。
私は縋る思いでウォリロウ侯爵夫人を見上げた。ウォリロウ侯爵夫人は眉を顰めた。
「あなたじゃなくコルボーン伯爵家の馬鹿息子が小者だと言ったんです。しゃきっとしなさい。何のために此処にいるの?」
私への叱責も忘れない。
優しくされるより、此方の方が体面も保てるし元気も沸いてくるというものだ。
私はその日の夜、グレース妃とクリストファー殿下の目の前で、マシューからの謝罪の手紙を自らの手で破り、暖炉へと放り込んだ。メラメラ燃えた。
「その意気よ!」
グレース妃がご機嫌を取り戻したので、この件は全て丸く収まった……かに思えた。
これ以降、グレース妃の出産までに六通の謝罪の手紙が届いたのだ。
内容は私への謝罪と、私のための祈りの言葉。
誰の目に晒しても誠実な謝罪の手紙である。
問題は、送り主がマシューで、受け取るのが私ということだけ。
「……」
苛々してきた。
三ヶ所の昇降椅子も完成し、グレース妃の他、ミルク入りの甕や調度品の運搬にも活用されている。
私も何度か乗せてもらい、その乗り心地には笑いが止まらなかった。巨大な面白い玩具みたいで。
しかもこの昇降椅子は奇術師の提案で稼働中にオルゴールが美しい曲を奏でるのだ。
侍女頭のウォリロウ侯爵夫人まで微笑ませた。
二ヶ月後には、祖母と母親から技術と叡智を叩き込まれた産婆令嬢も到着する。
全てが完璧だった、その日。
マシューから手紙が届いた。
「……」
気が乗らないわけでも、期待したわけでもない。
ただ元婚約者として、私は手紙に目を通すべき存在だったというだけだ。
「……」
マシューからの手紙には心の篭った謝罪の言葉だけが綴られていた。
言い訳や驕り、そしてあの一方的な性格批判は一切なかった。
私を傷つけたことや、私がマシューの思う程強く完璧ではないことを理解してもらえたと、私が納得するには充分な手紙だった。
言ってもらいたかった言葉が全て書かれていた。
彼は本来、優しい人だ。
私は、私を誤解したまま責め立てて一方的に婚約破棄を叩きつけられたことが心残りだった。
終わってしまったけれど、本当の私を理解してくれたという事実は、幾らか私の心の傷を癒してくれた。
彼によって刻まれた心の傷は、次の結婚で塞げるかもしれない。
ただ、癒せるのは彼だけだとわかっていた。
薬になるのは、彼の、気づきだけだと……
「……はぁ」
全て、幻だったらいいのに。
一連の出来事が全て、なかったらいいのに。
信頼し、手を取り合い、笑い合い、語り合い……その全ての時間が優しさに包まれていた。
うまくいっていた期間、私は確かに、幸せだった。
でもマシューには、私の他にも大切な存在がいたのだ。
それは男女の愛という意味では裏切りに値しないかもしれないけれど、マシューは、ハリエットと分け合わなくてはいけない存在だった。
そんな夫は、やはり要らない。
──魂で結ばれておりますので
あの中年間近の平民の真面目でロマンチックな男が言うように、私にも、そんな相手がいたらいいのに。
マシューとの心のわだかまりが一種の解決を迎えた事実は、歓迎すべきことだった。
ところが思いの他、寂しさが私を苛んだ。
敵である間、マシューは私の一部だった。
目を逸らすべき怒りという存在として、私の一部だったのだ。
私はマシューを完全に失った。
本当に、私の結婚は打ち壊され、未来もまた、壊されて消えて無くなってしまった。
私は独りぼっちだ。
「今更なんなの?腹立たしい。私たちの大切なレイチェルを悲しませるなんて、この手で八つ裂きにしてやりたいわ」
膨らんだお腹を愛しそうに撫でながら、グレース妃が怒りをぶちまける。
「ああ……そんな顔しないで、レイチェル。任せて。私が切り刻んで燃やして灰にしてあげる」
「……」
「手紙をよ。本人じゃない」
そんな義憤にかられる愛妻をクリストファー殿下が目尻を下げて愛しそうに眺めている。
勿論、毛先を回して。
その毛先が手の甲に触れた瞬間、グレース妃が吠えた。
「レイチェルは愛していたのよ!だから悲しいの!なにを笑っているの!?」
「グレース様。落ち着いてください。殿下は、グレース様の優しさに心を和まされ微笑まれているだけです。私を笑っているのではありません」
思いの他、マシューとの破談が今になって私を落ち込ませている。
元気が出ない……
「無神経に手紙なんて寄こしてレイチェルの心の傷をほじくり返して……!」
グレース妃は元気。
爆発しそうな力を抑え込んで震えている。
私の為に。
光栄だわ……
「殿下、お腹の子に障ります。レイチェルはグレース様との生活ですっかり立ち直りました。一時的な感傷です。相手にするまでもありません。小者です」
侍女頭ウォリロウ侯爵夫人はいつも頼りになる。
私は縋る思いでウォリロウ侯爵夫人を見上げた。ウォリロウ侯爵夫人は眉を顰めた。
「あなたじゃなくコルボーン伯爵家の馬鹿息子が小者だと言ったんです。しゃきっとしなさい。何のために此処にいるの?」
私への叱責も忘れない。
優しくされるより、此方の方が体面も保てるし元気も沸いてくるというものだ。
私はその日の夜、グレース妃とクリストファー殿下の目の前で、マシューからの謝罪の手紙を自らの手で破り、暖炉へと放り込んだ。メラメラ燃えた。
「その意気よ!」
グレース妃がご機嫌を取り戻したので、この件は全て丸く収まった……かに思えた。
これ以降、グレース妃の出産までに六通の謝罪の手紙が届いたのだ。
内容は私への謝罪と、私のための祈りの言葉。
誰の目に晒しても誠実な謝罪の手紙である。
問題は、送り主がマシューで、受け取るのが私ということだけ。
「……」
苛々してきた。
492
あなたにおすすめの小説
幼馴染と仲良くし過ぎている婚約者とは婚約破棄したい!
ルイス
恋愛
ダイダロス王国の侯爵令嬢であるエレナは、リグリット公爵令息と婚約をしていた。
同じ18歳ということで話も合い、仲睦まじいカップルだったが……。
そこに現れたリグリットの幼馴染の伯爵令嬢の存在。リグリットは幼馴染を優先し始める。
あまりにも度が過ぎるので、エレナは不満を口にするが……リグリットは今までの優しい彼からは豹変し、権力にものを言わせ、エレナを束縛し始めた。
「婚約破棄なんてしたら、どうなるか分かっているな?」
その時、エレナは分かってしまったのだ。リグリットは自分の侯爵令嬢の地位だけにしか興味がないことを……。
そんな彼女の前に現れたのは、幼馴染のヨハン王子殿下だった。エレナの状況を理解し、ヨハンは動いてくれることを約束してくれる。
正式な婚約破棄の申し出をするエレナに対し、激怒するリグリットだったが……。
あなたの幸せを、心からお祈りしています
たくわん
恋愛
「平民の娘ごときが、騎士の妻になれると思ったのか」
宮廷音楽家の娘リディアは、愛を誓い合った騎士エドゥアルトから、一方的に婚約破棄を告げられる。理由は「身分違い」。彼が選んだのは、爵位と持参金を持つ貴族令嬢だった。
傷ついた心を抱えながらも、リディアは決意する。
「音楽の道で、誰にも見下されない存在になってみせる」
革新的な合奏曲の創作、宮廷初の「音楽会」の開催、そして若き隣国王子との出会い——。
才能と努力だけを武器に、リディアは宮廷音楽界の頂点へと駆け上がっていく。
一方、妻の浪費と実家の圧力に苦しむエドゥアルトは、次第に転落の道を辿り始める。そして彼は気づくのだ。自分が何を失ったのかを。
どう見ても貴方はもう一人の幼馴染が好きなので別れてください
ルイス
恋愛
レレイとアルカは伯爵令嬢であり幼馴染だった。同じく伯爵令息のクローヴィスも幼馴染だ。
やがてレレイとクローヴィスが婚約し幸せを手に入れるはずだったが……
クローヴィスは理想の婚約者に憧れを抱いており、何かともう一人の幼馴染のアルカと、婚約者になったはずのレレイを比べるのだった。
さらにはアルカの方を優先していくなど、明らかにおかしな事態になっていく。
どう見てもクローヴィスはアルカの方が好きになっている……そう感じたレレイは、彼との婚約解消を申し出た。
婚約解消は無事に果たされ悲しみを持ちながらもレレイは前へ進んでいくことを決心した。
その後、国一番の美男子で性格、剣術も最高とされる公爵令息に求婚されることになり……彼女は別の幸せの一歩を刻んでいく。
しかし、クローヴィスが急にレレイを溺愛してくるのだった。アルカとの仲も上手く行かなかったようで、真実の愛とか言っているけれど……怪しさ満点だ。ひたすらに女々しいクローヴィス……レレイは冷たい視線を送るのだった。
「あなたとはもう終わったんですよ? いつまでも、キスが出来ると思っていませんか?」
幼馴染がそんなに良いなら、婚約解消いたしましょうか?
ルイス
恋愛
「アーチェ、君は明るいのは良いんだけれど、お淑やかさが足りないと思うんだ。貴族令嬢であれば、もっと気品を持ってだね。例えば、ニーナのような……」
「はあ……なるほどね」
伯爵令嬢のアーチェと伯爵令息のウォーレスは幼馴染であり婚約関係でもあった。
彼らにはもう一人、ニーナという幼馴染が居た。
アーチェはウォーレスが性格面でニーナと比べ過ぎることに辟易し、婚約解消を申し出る。
ウォーレスも納得し、婚約解消は無事に成立したはずだったが……。
ウォーレスはニーナのことを大切にしながらも、アーチェのことも忘れられないと言って来る始末だった……。
病弱な幼馴染を守る彼との婚約を解消、十年の恋を捨てて結婚します
佐藤 美奈
恋愛
セフィーナ・グラディウスという貴族の娘が、婚約者であるアルディン・オルステリア伯爵令息との関係に苦悩し、彼の優しさが他の女性に向けられることに心を痛める。
セフィーナは、アルディンが幼馴染のリーシャ・ランスロット男爵令嬢に特別な優しさを注ぐ姿を見て、自らの立場に苦しみながらも、理想的な婚約者を演じ続ける日々を送っていた。
婚約して十年間、心の中で自分を演じ続けてきたが、それももう耐えられなくなっていた。
【完結】誠意を見せることのなかった彼
野村にれ
恋愛
婚約者を愛していた侯爵令嬢。しかし、結婚できないと婚約を白紙にされてしまう。
無気力になってしまった彼女は消えた。
婚約者だった伯爵令息は、新たな愛を見付けたとされるが、それは新たな愛なのか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる