幼馴染か私か ~あなたが復縁をお望みなんて驚きですわ~

希猫 ゆうみ

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七通目の手紙が実在していたのかは非常に曖昧な問題である。

何故なら七通目を携えてマシュー本人がセイントメラン城までやってきた日、丁度その時が、グレース妃の陣痛真っ只中だったからだ。


その日、私は昇降椅子の速度を遥かに超える俊敏な身のこなしを発揮していた。
この決戦の日まで、グレース妃の精神は健康を保ち、絶対に生き延びて我が子を抱いてみせるという気概を持つには至っていた。

逆にクリストファー殿下が軟弱さの極みに至り、厄介者へと成り下がった。
あくまで女の目から見れば、という話である。
決して口に出してはいけない。

「やはり、しきたりに従って殿下を……」
「嫌よ!!」

王弟殿下の立ち会いをめげずに提言する主治医がグレース妃の怒号と陣痛による咆哮を浴びる中、私はグレース妃の支えとして手を握り合い、指の骨を数本捧げるのも厭わずに励まし続けている。

私も汗だくだけれど、出産に臨むグレース妃はその比ではない。
命懸けの現場に立ち会うのは生まれて初めてのことであり、他の事柄全てが頭から消え去るほど重大で、重要だった。

「絶対に嫌!!」

グレース妃がクリストファー殿下の立ち会いを断固拒否する理由を、私は事前に聞かされていた。
だから私が母親と姉に加え夫の代役まで担うのである。

グレース妃の父親は、優しく物静かで、愛情が深い人らしい。
だからグレース妃が母親の命と引き換えに誕生したことについて、娘を責めたことは一度もない。深く愛されている自覚があるとグレース妃も語っていた。

ただ、グレース妃の父親は永遠に忘れられないのだという。
陣痛に絶叫し、亡くなった、愛する妻の顔を。
笑顔を思い出すのと同じくらいその瞬間を思い出すのだそうだ。何故そんな話を娘に聞かせてしまうのかと私は疑問に思った。

父親が自ら語ったのではなかった。
娘たちが口を割らせた。

何故、悲しみのあまり、優しく美しい思い出まで避けているのか。
それを問い質した際に語られた答えが、出産で死亡した愛する妻の、その死に際に立ち会った絶望だった。

グレース妃は父親とは似ても似つかない男性と恋に落ちた。
それでも、夫とは出産に立ち会わせてはいけない存在なのだ。

クリストファー殿下はグレース妃の希望を尊重したの半分、壮絶な出産に怖気づいたの半分。
そして王家のしきたりはクリストファー殿下を調教しそこなったのも事実。

「……!」

グレース妃が叫びながら私の手を握る。

私は当然、妊娠出産の経験はない。
併し妊娠初期の段階からグレース妃の傍近くに仕え、様々な感情を共有してきた私は、ある種の共鳴状態にあったのだと思う。

私には、グレース妃を支える手の痛みしか感じていない。

それでもこの〝お産〟は特別なものだった。

以上の言い訳をするとして……私は、赤ん坊の頭が見え始めた段階で主治医と医師たちが万が一に備え手術器具を並べ始めたのを視界の隅で捉えた瞬間、激昂した。見たこともない刃物だったし……

此れは完全に早とちりだったのだけれど、グレース妃が役目を終えた母体として処理される恐怖に狂った私は、主治医を蹴飛ばしていた。

その隙を待ち構えていたかのように、産婆令嬢もといシャハナー伯爵夫人がグレース妃の足の間に滑らかに陣取り、頼もしい笑みを浮かべた。

「グレース様!もう少しです!もう頭が見えています!」

グレース妃は彼女の励ましに応じ、無事、男の子を産んだ。
陣痛が始まってから十四時間。初産にしては安産と呼べるお産となった。

産声があがる。

「ああ、神様……」

グレース妃が笑顔を浮かべた。
そのこめかみにとめどなく喜びの涙が伝う。

私はグレース妃の汗を拭った。
その手を止めた瞬間、私の頬もまた誰かの手によって拭われていた。

私も泣いていたが、感動に浸っている場合ではない。
私には、私に託された次の使命がある。

「殿下を呼んできます」

短く告げると、グレース妃は幸せそうな泣き顔のまま、私を見ずに唇で〝ありがとう〟と刻んだ。
お疲れなのだ。

そんなわけで私はセイントメラン城の中を全速力で駆け抜け、クリストファー殿下を探し回った。僭越ながら大声で呼ばせても頂いた。

そして、広場で噴水の縁に凭れて泣いているクリストファー殿下と、クリストファー殿下を親身になって励ましているらしいマシューを発見した。

「……」

この瞬間の怒りを表現できる言葉は、地上に存在しないだろう。
たぶん地底にも。

私は無言で二人の傍まで歩み寄り、無言でクリストファー殿下を見下ろした。

「レイチェル」

マシューが私を見上げ、私の名前を呼んだ。
それでクリストファー殿下が私を見上げた。泣き腫らした真っ赤な目を見て、私の怒りはスッと引いた。

「男の子です、殿下」
「グレースは……!?」

震える手で私の腕を掴んだクリストファー殿下に、僭越ながら、思いやりを込めて笑顔で答える。

「御無事です」
「ああっ」

教皇宮殿を臨む噴水で妃の侍女を抱きしめるクリストファー殿下について、悪評が広まらなかったのは、この素晴らしい祝福された日の奇跡ならでは。

逸る気持ちとは裏腹に腰が抜けていたクリストファー殿下は、しばらく私の体を柱代わりにして持ち直し、だいたい三分後によろよろと走り出した。

その後ろ姿と珍しく背中に垂れていた揺れる毛先を見送り、情けないけれど、愛情深い可愛い人だと感じてしまった。
……だから、微笑んでいたのだ。たぶん、とても優しく。

「レイチェル。……その、なんて言ったらいいか……」

マシューにとって話しかけやすい表情だったのだろう。
冗談じゃない。

「おめでとう」
「帰って」

それまでの人生の中で最高に冷たい声で吐き捨てると、私も踵を返し、クリストファー殿下を追いかけようとした。

マシューは引き下がらなかった。
私に触れなかったことだけは褒めてあげられる。

「レイチェル……!その、手紙を渡しに来たんだ。やっぱり直接謝らなければと思って──」
「今、忙しい!」

相手をしている時間はない。
クリストファー殿下を慰めていたなら城内で何が起きているか理解しているはずだし、そもそもグレース妃の叫び声が届いていたはずである。

なんて無神経な男!
こんな男と結婚しようとしていたなんて!!

「レイチェル!」

いっそ私がサンドラとかマルガレーテだったらいいのにと思いながら、私は祝福の渦中へと駆け戻った。
そしてまたマシューという存在を綺麗さっぱり忘れ去ったのだ。数日間は。



後日、思わぬ回想の時が訪れる。
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