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領内に教会は大小合わせて八つ、修道院は一つ。
厳格な規律が保たれた神の聖域は、案外近くにあるのだった。
馬車で山道を下り、川を越えてすぐ。人気のない山間部、なだらかな斜面にどっしりと腰を据えた石造りの建物。どこへ行くにも通り掛かるため、私にとってそれは見慣れた場所でもある。
ところが一歩足を踏み入れたら最後、それまでと同じ人間として出ては来られない。神の僕として生きる事を定められる。
部屋に閉じこもるよりはずっとましだ。
私は正しい選択をした。物分かりのいい、しっかり者のイデアが窮地で本領を発揮した。
そう思わなければやってられない。
「お嬢様、もう無理です。酷い雨だ」
御者が悲鳴のような声を上げる。
私が修道院に入ろうという日のその道行の時刻、見計らったように大空は分厚い雲で覆われ、大粒の雨が降り始めた。そして山道を下っている間には雷鳴が轟き、空は灰色から暗黒へと様変わりした。
まだ夕方だというのに、すっかり夜の暗さ。
濡れて光る漆黒の木々が叫ぶように葉を騒めかせている。
「引き返すなら今ですよ!」
「では、あなたはそうして」
「はい!?」
幼い頃から見知ったほうの御者ではなく、最近雇った新しい馬丁に小さな馬車を任せた。その方が互いに後腐れなく綺麗に決別できるからだ。
「修道院までの橋を渡らせるのが恐いのでしょう?わかるわ。いいのよ、無理しなくて」
「ですが、お嬢様……」
「もし馬が足を滑らせでもしたら私たち真っ逆さま」
「本気ですか……?」
「いくら橋が丈夫でも、渡る方が転べばそれはね。命も危うい」
「……」
結局、橋の手前で私を下ろし馬車は山道へと突進していった。
「……」
小さな旅行鞄一つ。
黒い傘を差し、暴風に煽られてすぐに閉じる。こんなもので風を受け橋の上で引きずり回されてはそれこそ命がない。
私はずぶ濡れで長い石造りの橋を渡った。
中央を歩くと、吹き荒れる暴風雨に叩きつけられる轟音とその風景は幻想的ですらあり、微かな楽しみを覚えなくもない。
人が一人歩くだけであれば道幅は充分すぎるほどにあるため、例え転ぼうと、川に転落するような事態にはなり得ないのは明らかだ。
ただ転んでは痛いだろうし、風が強く自然と足腰に力が入るため、確実な歩調で進む。
唸り声が出るほどには猛烈な雨で、私は度々、どういう事かと問いかけるように漆黒の空を仰いだ。すると雷光が闇を裂き、遅れて雷鳴が轟く。
なるほど。
これが啓示というものか。
半ば挑むような気持ちが熱く燃えあがり、橋を渡り切った瞬間、達成感に満たされその長い橋をふり返った。
「……さようなら、レディ・イデア」
別れを告げる。
短くも気高いその人生を私だけは祝福しよう。
あなたはよくやった。
充分、生きた。
だからこれでさようなら。
自己との決別を済ませ修道院へ延びる馬車道に足を踏み入れる。
たった数歩でこちらの方が橋より余程危ないと気づいた。ぬかるみの中で小石が足を騙すのだ。
「……っ」
なんとか進む。
転んでも川には落ちない。ただ、泥だらけになる。
そしていざ修道院の門へと差し掛かった時。
「──」
「?」
何か聞いたような気がして、振り向いた。
すると雷光の中で、荒れた川面にのたうつ人の影を見た。
溺れている。
「!」
反射的に走り出した私はそれが約束であったかのようにまず転んだ。
しかしそれも反射的に身を起こし、濡れて滑る斜面を利用して川岸までさっさと下る判断に繋がった。
「──た──すけ……っ」
濁流の中、男が運よく突き出した岩に体を巻きつけるようにして留まる事に成功している。凄まじい強運。しかも私が通り掛かっており、場所も修道院の眼前。
助けるべき命だとこの時は信じて疑わなかった。
私は素早く鞄を開き、少ない衣服の端と端を縛り、その両端を傘の柄と鞄の柄にしっかりと結んでから傘の方を男に投げた。
傘の柄は男の額に直撃し、荒れ狂う川面に落ちた。
すかさず手繰り寄せ、私は大声で怒鳴りつけた。
「ちゃんと掴んで!!」
そして再び傘の方を投げる。
二度目には男がそれを掴み、私はとてつもない力で荒れ狂う川へと引き摺られ焦った。
その私の体を、枯木のような細い腕が抱きとめる。
「しっかり!手を離さないで!!」
「……!?」
年老いたシスターの声に続き、続々と声がかかる。
一瞬だけ周囲を見回すと、有象無象のシスターたちが救助に駆けつけていた。
やはりこれが啓示。
運命。
そう思わされるには充分な光景だった。
厳格な規律が保たれた神の聖域は、案外近くにあるのだった。
馬車で山道を下り、川を越えてすぐ。人気のない山間部、なだらかな斜面にどっしりと腰を据えた石造りの建物。どこへ行くにも通り掛かるため、私にとってそれは見慣れた場所でもある。
ところが一歩足を踏み入れたら最後、それまでと同じ人間として出ては来られない。神の僕として生きる事を定められる。
部屋に閉じこもるよりはずっとましだ。
私は正しい選択をした。物分かりのいい、しっかり者のイデアが窮地で本領を発揮した。
そう思わなければやってられない。
「お嬢様、もう無理です。酷い雨だ」
御者が悲鳴のような声を上げる。
私が修道院に入ろうという日のその道行の時刻、見計らったように大空は分厚い雲で覆われ、大粒の雨が降り始めた。そして山道を下っている間には雷鳴が轟き、空は灰色から暗黒へと様変わりした。
まだ夕方だというのに、すっかり夜の暗さ。
濡れて光る漆黒の木々が叫ぶように葉を騒めかせている。
「引き返すなら今ですよ!」
「では、あなたはそうして」
「はい!?」
幼い頃から見知ったほうの御者ではなく、最近雇った新しい馬丁に小さな馬車を任せた。その方が互いに後腐れなく綺麗に決別できるからだ。
「修道院までの橋を渡らせるのが恐いのでしょう?わかるわ。いいのよ、無理しなくて」
「ですが、お嬢様……」
「もし馬が足を滑らせでもしたら私たち真っ逆さま」
「本気ですか……?」
「いくら橋が丈夫でも、渡る方が転べばそれはね。命も危うい」
「……」
結局、橋の手前で私を下ろし馬車は山道へと突進していった。
「……」
小さな旅行鞄一つ。
黒い傘を差し、暴風に煽られてすぐに閉じる。こんなもので風を受け橋の上で引きずり回されてはそれこそ命がない。
私はずぶ濡れで長い石造りの橋を渡った。
中央を歩くと、吹き荒れる暴風雨に叩きつけられる轟音とその風景は幻想的ですらあり、微かな楽しみを覚えなくもない。
人が一人歩くだけであれば道幅は充分すぎるほどにあるため、例え転ぼうと、川に転落するような事態にはなり得ないのは明らかだ。
ただ転んでは痛いだろうし、風が強く自然と足腰に力が入るため、確実な歩調で進む。
唸り声が出るほどには猛烈な雨で、私は度々、どういう事かと問いかけるように漆黒の空を仰いだ。すると雷光が闇を裂き、遅れて雷鳴が轟く。
なるほど。
これが啓示というものか。
半ば挑むような気持ちが熱く燃えあがり、橋を渡り切った瞬間、達成感に満たされその長い橋をふり返った。
「……さようなら、レディ・イデア」
別れを告げる。
短くも気高いその人生を私だけは祝福しよう。
あなたはよくやった。
充分、生きた。
だからこれでさようなら。
自己との決別を済ませ修道院へ延びる馬車道に足を踏み入れる。
たった数歩でこちらの方が橋より余程危ないと気づいた。ぬかるみの中で小石が足を騙すのだ。
「……っ」
なんとか進む。
転んでも川には落ちない。ただ、泥だらけになる。
そしていざ修道院の門へと差し掛かった時。
「──」
「?」
何か聞いたような気がして、振り向いた。
すると雷光の中で、荒れた川面にのたうつ人の影を見た。
溺れている。
「!」
反射的に走り出した私はそれが約束であったかのようにまず転んだ。
しかしそれも反射的に身を起こし、濡れて滑る斜面を利用して川岸までさっさと下る判断に繋がった。
「──た──すけ……っ」
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