終わりの町で鬼と踊れ

御桜真

文字の大きさ
上 下
25 / 37
第四章

【3】 闇は嗤い哭く 1

しおりを挟む
 まるで高いところから落ちるような感覚にビクリとして、あたしは目を覚ました。

 あたりは暗い。
 天井がある。背中の下が柔らかい。どこかの家の中だ。
 考えてから、ここが病院の一室だと思い出した。

 暑くなんかないのに、汗をぐっしょりかいていた。
 荒く息を繰り返す。

 部屋の中は決して狭くはないが、息が詰まる。
 闇が迫ってくるようでずっしりとしたカーテンも重苦しい。

 あたしは大きくひとつ深呼吸をしてから、ベッドから起き上がった。ポンチョのフードを深くかぶり、枕元に置いていた眼鏡をかける。
 パドルを持って部屋の外に出た。廊下は静かで、誰もいない。やっぱり見張りすらもいない。

 またひとつ深呼吸をする。
 夜の少し冴えた空気が肺に入ってきて、昂ぶっていた気持ちが少しだけ引いていく気がする。

 ロビーに出ると、話し声が聞こえてきた。
 だけど人影はなく、ボソボソとくぐもって何を言っているか分からない。
 息を潜めて、耳をすませる。多分、地下へ続く階段の先からだ。

 身をかがめて降りていくと、下にはカフェがあって、ガラス張りのドアの向こうには、「福大前 地下鉄」の表示が見える。
 ここから地下鉄につながっているのか。

「だから、どうしてあんたの言うことを聞かないといけないの? 何かと交換してくれるわけ?」
 杏樹の声が奥から聞こえた。
 このまま進むと気付かれるかも知れない。あたしは階段の途中に身をかがめて、足を止めた。

「あいつは俺の獲物だって言っただろ」
 イラだち気味の声が応えた。
 ケヤキ通りで会ったあの吸血鬼の少年の声だった。
 杏樹は、博登《ひろと》と呼んでいたか。

「ここはわたしの管轄よ。もうわたしが招き入れたんだから、わたしのものよ」
 大げさなため息が落ちる。
「どうしてそこまで構う」
「さあね。あんたが怒るのがおもしろいのかも」

「いい加減にしておいた方が身のためだぞ」
 杏樹の笑い声があがった。
「どうするって言うのよ。同士討ちでもするつもり? あたしたち、ただでさえ人間に比べて数が少ない上に、あのヤクザ達にだいぶやられちゃったのに、もっと減らしてどうするの」
 黙れ、と少年が声を抑えて言った。
 あどけない声がどす黒い熱をもって、闇に低く響く。

「好きにしろ。忠告はした」
「あはは、忠告ね。ありがと」
 杏樹の楽しげな笑い声が近づいてくる。

 あたしは身をかがめたまま、音をたてないように階段をあがった。
 隠れていると、地下から小さな人影が上がってくる。
 少女はロビーに姿を見せると、そのまま階段を上がっていく。ピタピタと裸足の音がロビーに響いた。

 あたしは何気なく、隠れながらその後を追った。



 隣の建物とつながった連絡通路の途中に、少女は立ち尽くしていた。
 カーテンを開け放して、雲の切れ間から見える星空を眺めている。
 曇天は時折切れ間を見せて、月の光が鋭く差し込むが、その時だけやたらと明るかった。

 今は大きなふちの帽子もかぶっていない。フリルでいっぱいの洋服も着ていない。
 ティーシャツに身軽なスウェットだけをまとった杏樹は、折れそうな細く長い手足をした、ただのか弱い少女だった。どこか心細そうな。
 少女はふとあたしを見ると、軽く笑った。

「夜討ち? 夜這い?」
 明るい声が月明かりの廊下に響く。
 あたしのパドルを指さして、明るいテンションで言う。

「あんたそれいつも持ち歩いてるの? 邪魔くさいわねえ。あんまりうろうろされると、みんなが恐がって困るんだけど」
「だったら見張りをたてておけ。ここの人間はあんたに怯えてないようだったけど、人間を飼うような吸血鬼は、やっぱり恐がられているのか」
「いちいちそんなことに人手を割けないのよ。よく知らないひとを警戒するのは当たり前でしょ」

 ――人間を飼っている。
 杏樹はケヤキ通りでそう言っていたし、あたしたちを連れてきたときも否定しなかった。
 だけどやっぱり彼らは、飼育する者とされる者には見えない。共存しているように思える。

 人間の大人達は、杏樹のことは警戒していなかったが、あたしのことは遠巻きにしていた。当然か。

「あんたどれくらい飲んでないの?」
 杏樹は少しの頓着もなく言った。
「なんで飲んでないと思うんだ」
「そんなの顔色を見れば分かるでしょ」

 鏡を見ていないから応えられない。
 でも自分がひどい顔色をしているのは想像がついた。少し息も苦しい気がする。
 あたしを襲ったあのときの吸血鬼みたいになっているに違いない。

「一日200mlあれば数日耐えられるわよ。その間にニワトリの血なんかももらえばもっともつわ。我慢もほどほどにしておかないと、体がもたないわよ」
「分かってる」
「自虐も自罰も結構だけど、死ぬ気がないのならほどほどになさい。飢餓感が人間の比じゃないの分かってるでしょ。そのうち正気を保てなくなって、誰彼構わず襲うようになる。その時犠牲になるのは、一番身近にいる人間よ。あんただけの問題じゃない」

 ――知ってる。
 自分ではどうしようもない飢餓感。
 このまま飢えて死にたいと思うのに、勝手に体が生きようとする。紘平に襲いかかりそうになって、それが恐くて恐くてたまらなかった。

 吸血鬼に噛まれると死ぬ。
 だけど、ごくわずかの人間が、感染して同じようになってしまう。
 あたしは紘平を吸血鬼にしてしまうかもしれない。もし紘平も吸血鬼になったら――この不安も心細さも、このどうしようもない孤独からも逃れられる。

 どこかそう思う自分がいて、それが恐くて、あたしは逃げてきた。考えるたびに嫌悪感で苦しい。
 よそへ行けば、よその知らない人間なら、食料としてみられるのではないかと思った。

 杏樹の言葉は、どこか頼りない少女の見た目に反して、厳しい。そしてとても大人びている。
 あたしは自分よりも背丈の小さな少女を見て問うた。

「あんたはいつから吸血鬼なんだ」
「十三の時よ」
 杏樹はしれっと言った。
 あたしは微妙な表情になる。それを見て、杏樹は肩をすくめる。

「はいはい、聞いたのはそれじゃないよね。十年ばかし前からよ」
 窓に手を当てて、雲の切れ間を見ながら、少女は言った。

「あの頃、本州で大きい地震があったとかで、人間も吸血鬼もこっちに流れて来たのよ」
「――ああ、確か、そんなことがあったような。あたしのいたところに近い海沿いは大きい町があったから、うちの方にも少し流れてきた」
「その時にやってきた余所者の吸血鬼に、がぶりとやられたわけ」

 夜の色に染まった顔で笑う。その表情は、少女の体とアンバランスだ。
「そう、わたしこんなナリだけど、本当は二十三なの。パンデミックだとかで混乱が起き始めた頃、まだほんとに小さい子供だった。そうこうしてるうちに、台風で水害があって、親はわたしをつれてここに逃げ込んで、そのままここにいたの。本当なら安全なはずだったわ。大人達も油断してたのかもね。たくさん襲われて死んだわ。親たちも」
 杏樹はあたしを振り返って、意地悪く笑った。

「だからわたし、よそ者は大嫌いなの。吸血鬼も大嫌い。特に、よそからやってきた吸血鬼なんて、最低最悪、心底消えてほしい」
 あの、博登とか言う奴につっかかるのはそのせいか。でもどうして――
 思ったところで、杏樹は肩をすくめて言った。

「あんたも同じでしょ。わたしと同じで、吸血鬼が大嫌い」
 そうだ。あたしは、吸血鬼が憎い。もともと吸血鬼が嫌いだった。そうでない人なんてほとんどいないだろう。好きでこうなった訳じゃない。

 吸血鬼が嫌い。だけど自分も同じになってしまった。
 だから自分も嫌いだった。

「あの、――史仁《ふみひと》、とかいうのは」
 弓を持って馬を繰っていた少年。
 彼は人間だろう。人と吸血鬼が共存していると言っても、史仁は人間なのに、まるで吸血鬼側の者のように人間を見張っている。
 気がつけばいつも、杏樹を守るように寄り添っていた。
 ――人間からも、吸血鬼からも。何者からも。

「史仁はここで生まれた。あの子は泣き虫で、わたしの後ろをついて回るような子だった。身近な人達が死んで、わたしが噛まれた時、あの子本当にぐしゃぐしゃに大泣きして大変だった。あの子はそれから変わったの」
「あんたたち、姉弟なのか」
 杏樹はあたしを振り返る。おかしそうにくすくすと笑いながら言った。

「姉弟、ね。恋人には見えない?」
 ――人間と吸血鬼が?
 思わず顔をしかめたあたしに、杏樹は声を上げて笑った。また軽やかな声が、人のいない病院に響く。

 そして、ぱたりと笑うのをやめた。

「正直ねえ。言いたいことはわかるわよ。嘘よ、別に恋人でも何でもないわ。わたしたち、年は違うけど幼なじみなの」
 少女の顔を縁取る藍色の影が、彼女が笑っているのを教えてくれる。だけど、悲哀の色だ。

「吸血鬼は老けないし、怪我もすぐ治っちゃうけど、本当のとこの寿命はまだ全然分かってない。どう考えても体が無理してる状態だもの、明日ころっと死ぬかも知れない。それにあの子はどんどん大人になる。わたしはずっとこのままよ。どうしろっていうのよ。間違えて感染なんかさせたら、後悔してもしきれない」

 ただ一緒にいるだけでも、乖離していく。

 このウイルスに感染した者は老いていかない。傷がすぐに治る。尋常でない身体能力を持つ。
 まるで脳のリミッターがはずれてしまったかのように。それは体に無理を強いているはずだ。

 突然ことんと死んでしまうかもしれない。
 実際、今までそうやって死んだ者がいたとしても、それがあたしたちの寿命――病なのだから寿命とは言わないのだろうが、それが余命の限界なのだったとしても、本当にそうなのか分からない。
 それを研究するような組織はどこにもない。

「……なんで、人間の血なんだ」

 あたしは思わずつぶやいだ。
 せめて意思をはかれないような、言葉を交わせない他の生き物なら。
 こんなに奪い合うようなことにはならなかった。
 居場所を失うこともなかった。

「自分の体で生成できないものを外から補ってるんじゃないかって、ここにいた先生が言ってたわ」

 急激な回復力のせいか。
 それともウイルスに感染して、何かが破壊されいているのか。
 分からないけれども。

「あんたはいつからなの。ひよっこちゃん」
「2、30日ぐらい前。新月と満月を一回ずつ見た」
「そう」
 杏樹は明るく声をあげた。

「無理して我慢しないことね。どうにもならないんだから」

 十年分のあきらめと葛藤を、軽やかに笑った。
しおりを挟む

処理中です...