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新婚旅行編

新婚旅行編:憂苦する者

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「遅れてすいません。」

 人払いがされたダイニングテーブルには信隆と景明がすでに席について、水瀬がいつも通り景明の斜め後ろの壁際に立っていた。酒田もいつも通り慶介が座っている席の後ろに立つ。
 すると、信隆がこちらをジロリと見て言った。

「勇也、座れ。これは警護会議ではない。家族会議だ。」

 酒田は自分の席に座り、癖で動いた視線の先に慶介の姿がないことに胸が痛む。
 今、慶介は自室に引きこもりになっている。
 延長入院から帰ってきた慶介は、永井がいない4日間の間は精神安定剤の薬を服用しながらリビングにも出てきて普通に過ごしていたのだが、永井が帰ってきてから布団から起きられなくなった。

「慶介はどうや?」
「はい、部屋から出ようと努力はしていますが、まだ難しいかと。」

 景明の視線がチラリと動く。何も言わず唾を飲み込んだ景明が言いたかったのは「永井がいなければ慶介は出てくるか?」だろう。
 そうすれば出てくるかもしれないが、それは根本的な解決にはなっていない。厳しいかもしれないが、この件は慶介自身の問題であり、慶介が自身の力で乗り越えてもらわねば意味がないのだ。





 予測日から2週間も遅れていた慶介のヒートは本当に突然に始まった。

 毎朝、永井が匂いをチェックしていて、その日も「わずかに匂いが甘くなったがヒート前の甘さにはまだまだ遠い」と外出可能だと判断するほどだったにもかかわらず、慶介は濃い誘惑フェロモンを大量に放出しヒートが始まった。

 薬を飲んでいない慶介の症状は重く、不安そうに甘えてくる姿には「かわいい」よりも「かわいそう」という印象の方が強かった。

 時間が経過するとともに濃くなるフェロモンと慶介の症状に、酒田は懸命に対応し、全力を尽くしたが、医師に呼ばれて永井の服を渡された。

 ついに、この日が来た──。

 これまでに何度も景明に覚悟を問われ、様々な可能性をシュミレーションして、自分がとるべき対応も考えてきた。永井に項を譲らないと決めた代償がこれだと理解できていた。

 永井の服を受け取った時、酒田は苦々しさよりも安堵感の方が強かった。
 自分の力が及ばず、慶介が苦しんでいるのに自分ではどうにも出来ない無力感に項垂れていた。誰でも良いから、慶介を助けてくれと、心の何処かで願ってもいた。

 永井のフェロモンは慶介の抱える不調を全て蹴散らしてくれたが、新たな問題、幻覚と幻聴を引き起こした。
 酒田の姿を永井に見間違え、永井の声が聞こえる状況に慶介は不安がったが、酒田は慌てなかった。昔、フェロモンの慣らしで慶介が幻覚を見ていたという話を景明から知らされていたからだ。

 酒田はネックガードをヒート用の薄いネックガードからゴツい八万ロックに変えて、常に左手の指輪と、鍵を通したネックレスを慶介に確認させながらヒートのお相手に徹した。
 自分が取り乱すと慶介が余計に罪悪感を覚えて、腹痛やヒートに苦しむとわかっていたから。
 慶介が酒田のことをうっかり「永井」と間違えて呼んでも動揺を悟られないように平静を装い、永井の服を抱きしめてフェロモンに酔っていても嫉妬をみせず、ヒートの熱を鎮めるためなら慶介が泣いて嫌がっても挿入を躊躇しなかった。
 結果的にそれがヒートを早く終わらせることになり、慶介が罪悪感を感じる時間を減らす事につながる。

 そうして、なんとかやり過ごしたヒートで、酒田は『辛い』とか『悔しい』といった感情をあまり感じなかった。ただひたすら、顔を背けて涙を流す慶介が心配で、不安を解消してやりたいという気持ちだけが使命感として燃えていた。


 自身ではさほどショックを受けていないと思っていた酒田だったが、延長入院をする慶介を残して帰宅した酒田は抑うつ状態になった。

 食べず、眠らず、日課の筋トレも出来ないほどに無気力になった酒田を、精神科医は一時的な抑うつ状態と診断し薬の処方もなかった程度ではあったが、酒田が初めて見せる弱った姿は水瀬や他の警護アルファたちをずいぶんと心配させた。それに対して、景明は「オメガを泣かせるとは、警護失敗だな!」と何故か嬉しそうに酒田の肩を叩き、おおらかに笑っていた。

「勇也、人生初の挫折はどんな味だ?」
「無味無臭です。世界が灰色になるという表現を実感しています。」
「そうか。だが、明後日には慶介が退院してくる。あと一日で直せ。夫という役目に休みはない。」
「・・・はい」

 眠れなくてもベッドで横になって休めと命ぜられた酒田は、リビングを出てすぐの廊下に壁にもたれて立つ永井を見つけた。

「本多さんは厳しいな。」
「・・・そう、でもない。あれは優しさだ。命令されるほうが楽なこともある。」
「確かにな。・・・今、俺が出しゃばるのは良くねぇのかもしれねぇが、あえて俺が言う。──勇也、警護の仕事は俺たち補佐に任せろ。お前は慶介のことだけ考えていればいい。」
「・・・すまん、助かる・・・。」

 このあと、酒田の抑うつ状態は慶介が帰ってきたことで回復したが、慶介は永井の外泊が終わったタイミングで再び悪くなり、引きこもり状態になった。





 慶介が部屋に引きこもって、今日で5日経った。
 最初は永井自身が「自分が外泊すれば良い。」と申し出たが、警護会議で一旦は現状を維持し、2週間後に精神科医に受診して相談することとなっている。

「兄さん、今後の予測は?」
「ほぉ、兄さん呼びとは珍しい。お前でも滅入ったか?」
「家族会議だからそう呼んだだけだ。潰すぞ。」
「はっはっは、怒るな。茶化したつもりはない。さて・・・大きく分ければ『復帰』と『破綻』だ。現状を続けられるか、番わない結婚は無理だったということになるか、どちらになるかで対応は大きく変わる。」

 まず、復帰の場合、回復するまでの時間は考慮しない。
 元々、オメガが家から出ない生活をするのはバース社会ではよくある事なので、大学さえ卒業すれば、その後、家に『引きこもる』のか『家から出ない』なのか、それとも『囲われている』のかは、家から出てこないオメガという結果だけ見ればどれも同じだ。
 むしろ大事なのは、慶介と永井が同居したままフェロモンを供給し合う状態を維持できるかである。

 問題は、破綻の場合だ。番わない結婚が無理だったと結論付けたのなら、その先にある選択肢はどれも地獄だ。
 酒田と離婚し永井と番うとしたら、酒田はプラトニックな愛人とするか、永井は項だけ噛ませて追い出すのか。酒田と番うとしたら、永井が気狂いを起こすのを見て見ぬふりをしなければならなくなる。はたまた、酒田を諦めて永井ときちんと向き合うのか。
 それを選択肢なければならない慶介の苦悩を思えば、酒田は無力感から視界がモノクロに色褪せていく感覚を思い出した。


「今回の件、何よりも優先されるのは慶介の気持ちだ。」
「・・・命を優先せんのか? 現状を維持するために密かにあの薬を飲むという可能性もあるんやぞ?」

 酒田は脊髄反射で声をあげた。

「俺は反対です! あの薬を飲むくらいなら、俺は子どもを望まない。経口避妊薬さえ飲めばヒートを乗り越えられます。それではダメなんですか!」
「落ち着け、勇也! 信隆かて、それくらいは分かっとる。慶介の気持ちを優先するが、こちらから何もせんとは言うとらん。警護でもそうやろう。説得も、嘆願も、誘導も、必要であれば嘘や騙すこともする。せやろ?」
「・・・はい、すいません・・・」

 喧嘩腰になった居住まいを正し、椅子に深く座り直した。
 酒田の聞く姿勢が整うを待った信隆が話の続きをする。

「兄の言うとおりだ。また、それらを慶介と交渉するのは、お前だ、勇也。」
「はい。」
「お前はいつまで経っても補佐根性の抜けないカスアルファだが、慶介が・・・」

 ボロカスに説教されると心して聞いていた耳に届いた言葉が、ふいに途切れる。

 人を見下すように少し上がっていた顎がうつむき、腕組みをしていた腕は解かれ机の上で両手を組み、力のこもった指先は爪が白い。

「・・・慶介が・・・笑うのはお前の前だけだ。・・・あの子の本当の笑顔を知ってしまった今はもう、生きてさえいれば良いとは、言えない。人形になった慶介を見たくはない。」

 信隆は深く重い息を吐いて、組んだ手を額に当てて沈黙した。そして、それを見届けた景明が深刻な表情をしつつも目をギラつかせて言った。

「あらゆる想定はする。対策も打つ。だが、復帰出来る事が一番望ましい。わかるな? 勇也、頼んだぞ。」
「・・・・・・、はい。」








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