松岡さんのすべて

宵川三澄

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別れ話

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「――他に好きな子が出来た」

その一言は強烈な感覚を由多花から引き出した。
「…え?」
いつものお下げを少しゆるめて、今日は赤の可愛いカーデと生成りのスカート。春もののベレーをちょこんとかぶって森ガールなファッションだ。これが男受けがあまり良くなかったとしても、由多花は変わりなくこういう格好でお洒落を楽しむ。
今北さんは、こんな自分でもいいと言ってくれた優しい人だ。いや、人だった――はずだ。

「え…と。それって…」
別れたいって話…だよね? と由多花は視線を彼に向けた。

手元のメロンソーダをかき回す。クリームがこぽこぽと溶けてあふれてしまう。スプーンでぽい、と口に入れればいいだけなのに、出来ない。
喉が拒絶しているのがわかった。

今北は うん、と神妙に頷いた。生真面目な人だ。同じ情報課に所属するプログラマーで入力事務をしている由多花は、彼や上司のSEの秘書のような仕事をしている。
由多花は専門教育は受けていないので最初はチンプンカンプンだったが、今は大分慣れて彼らのプログラミングしたものの紙出力のチェックくらいは出来るようになった。

この一年間、彼の猛アタックを受けていた。

付き合い始めたのはここ一ヶ月。
デートだって帰りにお茶や映画を観るだけで、キスすらしてない。
――だから…!?

「…ごめん。どうしても、彼女のことが頭から離れない…。こんな気持ちじゃ、由多花ちゃんとは付き合えない」
「…誰!?」

自分の声に驚いた。酷い、掠れた声。でもこんなきつい口調で聞きとがめる気なんてなかったのに。

「営業の林さんと…付き合うことになったんだ。だから」
――あの、綺麗な人…。
「し、新入社員じゃない…。いつから…!?」

ぽこぽこと湧き出るものは怒りに他ならない。クリームは全て溶けきってしまっている。手が震える。こんなエネルギー、己にまだあったんだ、と冷静な自分もまたいた。

「先週、たまたま飲み会で一緒になって…。彼女を泊めた。それで、今日、付き合うことになった…」
…私がいるのに!?
なんだろう、この蚊帳の外。私は当事者ではないのか?
今北の彼女は由多花だったはずなのに。付き合う前に先に別れを告げてからが、せめてもの別離のマナーだろう!?

由多花の顔色が変わっているのがわかったのか、今北がきつい口調になった。
「由多花ちゃんには悪いことしたと思っている…でも」
彼がギッと由多花を見つめた。

「――彼女への報復は絶対にしないでくれ。俺はもし、由多花ちゃんがそんな真似したら、絶対に許さない」

――ほ・う・ふ・く?

由多花は耳を疑った。

そして、全身から立ち上っていた怒りのエネルギーが しおしおと萎むのがわかった。
――私、報復するような女だと思われていたんだ…。
それは、由多花の人格を全否定されたも同等の扱いだ。
――私、こんな人、好きだったんだ…。

後から思えば彼はきっと恋に酔っていた。だが、由多花にそれを思いやる義務などない。恋は終わった。
形より、その気持ちに情熱がなくなれば、もう、その人物の恋人としての価値などなくなる。由多花は怒りより、今、すぅっと醒めていく自分の気持ちに戸惑っていた。
傍にいるのも、気持ち悪くなった。
他の女を抱いた上、自分から別れを切り出したというのに、その傷つけた女の価を、そのプライドをズタズタにした男。
今北は、由多花にとって、その男らしくモデルのような姿形の皮をかぶった豚に見えた。

由多花はなにも言わずに立ち上がり、レシートを手に取った。
「由多花ちゃん、それは」
「いい。気持ち悪いから」
それに今北は え、と驚いた顔をする。
由多花を随分大人しい女だと思っていたらしい。 由多花は確かに大人しい。喧嘩など出来ない。いつでも、にこにこしていて、甘い、デザートなら和菓子のような女だ。
だが、由多花の好悪の振り幅は極端だ。口には出さないだけで。それが、ただ、食事に現れる。今、今北の前では爽やかなサイダーであっても吐き出すだろう。

由多花の名前を呼ばれることも気持ち悪い。今北に奢られるなんて持ってのほか。わずかでも関わりを持ちたくない。

この人は、知らない人だと脳が認識してくれるように、願う。



小走りに店を出ると繁華街の人の波に飲まれるように歩き出す。
日没前なのだ。思ったより早く話が終わったんだなぁ、と他人事のように思った。

空腹を覚えたので近くの居酒屋に入った。開店間際の店はすいていて、由多花は四人掛けの席に案内される。この店はテーブルごとに仕切りがあるのでくつろぎやすい。
いつもはお酒は避けるが今日は飲みたい気分だった。由多花は酒に弱いが全く飲めないわけではないので。サワーといくつかつまめるもの、それとパスタも頼む。

――食べるのだ!

それらを頼むとお手洗いの場所を尋ねる。
手を洗いたかった。
クリームソーダのクリームが手についていたので、ベタベタがまだ残っている気がする。
お手洗いで用を足し、ごしごしと石鹸で手を赤くなるまで洗う。鏡を見上げると暗い表情の女がいる。
「ひど…。こりゃ、報復しそうに見えるわ…」
鏡の向こうの自分の瞳は ひどく濁って見えた。

両手で頬を強くはたく。
「――しっかりしなさい!」
両親の事故のときも、こうした。

そして、少しでも体を動かしたのだ。
エネルギーを集めなくては。
体の指先からでも、ちょっとでも残った熱を集めて、明日を迎えなくては。
あんな男のために、ようやく保っている日常を奪われてたまるものか。
――いつもの、顔を、保つの!
そう、精一杯自分を叱咤した。

だが、今日だけは少しハメを外そう。
自分を哀れんであげよう。
ご飯を食べたらお酒を飲んで、振られた女を演出して、可哀相にと泣いてしまうの。そしたら、きっと、明日が来れば、なんだかきっと馬鹿馬鹿しくなる。そのために、今日はいつもはしないことをする。

そう唇を噛んで、お手洗いから出たところで人に声をかけられた。

「え、マミナ!?」

――は?

振り向くと男がいた。そいつは他人様を人差し指でさしてやがる。
人を指さすな、と教えられなかったか!? と凶悪な顔で睨んでやったが、睨んだことを恥じ入りそうな男だった。

吐き気のしそうな、――イケメンだった。

――なんなの…。今日はイケメンに嫌な思いをさせられる日なの!?
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