松岡さんのすべて

宵川三澄

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自己紹介

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『よ、よかったよ~っ、よかった~っ無事で~っ。心配したんだよ、由多花ぁ~っ』
「さ、沙菜、泣かないでよ~」
電話口でも沙菜が涙声なので泣いたのがわかった。朝のニュースで由多花のアパートが焼けたのが伝わったせいだ。
『今、どこ!? 会社!?』
「ううん――」
由多花は言葉に詰まる。
昨日会った人の家ー …て、言うのはちょっとはばかる。

アパートの火の元は一階の住人の寝煙草で、古い木造はあっと言う間に燃え広がったらしい。
幸い怪我人は軽く煙を吸っただけで、死者はなく、由多花の部屋も火の手が迫ることはなかった。ただスプリンクラーで廊下も室内もびしょびしょで、そのおかげで服はすっかりダメになっていた。
由多花は貴重品を持ち歩くタイプの人間だったため、保険証書や通帳は健在だ。

「友達んとこ…。ゴメン、これから会社にも休みの連絡入れるから。じゃ、落ち着いたらまた電話する」
『うん、待ってるよー』
プツリ、と沙菜との通信を切った。

チラと見るとキッチンにイケメンが立ってコーヒーを淹れている。
警察の聴取中も一緒にいてくれて、心強かったがイケメンがここまでしてくれたのは 多分、アレだ。
後片付けは あとから、と大家さんに言った時、由多花がどうしても今、持ち帰りたいものとして両親の位牌を持ち出したのを見られたからだと思う。

イケメンがマンション下のパン屋から買ってきたベーグルサンドが眼前にある。
リビングは想像通り、いや、想像以上に閑散としていて、カウンターにスツールが添えられているだけだった。二十畳はあるかと思われる広々としたフローリングのリビングはひどく寒々しい。TVすらない。

コーヒーを目の前に差し出され、由多花はハッとなる。

「あの、色々、ありがとうございます…!」
とにかく、ここに連れてきてもらえて助かった。
「あの、私、佐々木由多花と申します。すみません、会社に電話入れます。少しお時間いただきます」
慌てて、会社に電話する。無断欠勤など由多花の人生にはありえない。
総務ではなく、まずは直属の上司に電話する。この時間なら出社しているはずだ。コール二回で電話に出た。

「おはようございます、佐々木です。田端次長ですか?」
『――…いや、おはよう。次長は今席を外しているよ』
「――!!」

死ね、イケメン!

思わず言いそうになったのが恐ろしい。ダメだ、今の由多花にはイケメンは悪口になってしまっている。
「…おはようございます、今北さん。すみません、次長に伝言お願いします。本日佐々木は自宅が火事にあったため、お休みします、と。怪我はありません。落ち着きましたらまた連絡しますので。なにか急ぎの用がありましたら、携帯にお願いします」
今北が息を呑んだのが聞こえた。うざい。

『怪我…ないんだね?』

あろうとなかろうと関係ないわ。

「はい。では、明日は出社しますので、よろしくお伝え下さい」
今北が電話を切る直前、今、どこに、とかなんとか言っていたが 知らないふりして切ってやった。
落ち着いたら、まず会社に顔を出そう。そう思って面をあげるとイケメンがこちらをじっと見ていた。

――なに? 私、社会人なんですよ。もしかして、驚きました?
「重ね重ね、ご迷惑おかけしました」
ぺこりと頭を下げる。
イケメンもカウンターの斜め向かいにスツールを置いて腰掛けた。

「改めて自己紹介するね、俺は松岡涼です。ここは自宅兼、仕事場。自由業なので、気にしなくていいよ」

そう言ってイケメン改め松岡さんは由多花に名刺を差し出す。

――おお、イケメンは名前も爽やかな。
職業は執筆業…。
「…マンガ家?」
つい、聞いてしまった。だって、こんなすごいマンションに住んでいるんだもん。
「いや、小説。本名で本をだしている」
へー。ライトノベルとかかな? と、いうか、これペンネームじゃないんだ…。

「…表札出せませんね」
唐突な由多花のものいいに、松岡さんは首を傾げる。
「だって、松岡さん、かっこいいもの。表札なんて出したら、すぐファンに住所特定されそう」
「ああ、一度も顔は出したことないから平気だよ」

――お、美形の自覚あるんだなー。

由多花は名刺は作ってもらっていないので、特にお返しはしない。待っていたのか松岡さんはまじまじと由多花を見る。――顔を。

「…なにか、ついてます?」
煤でもついていたかな? と自分の顔に手をやった。
「いや、やっぱり、似ているな…と思って。ごめん、不謹慎で」
ああ。
「マミナ押しですもんねー」
由多花はそう言って笑うと、松岡さんは夕べのように笑った。
それを見て、ようやく由多花も本当の笑い顔が出る。
二人とも、全身が弛緩したように 互いにため息とも安堵の息ともつかない声をあげた。シンクロしていたのが可笑しい。

彼、松岡さんが声を少し弾ませている。
「…ごっめん。俺、緊張していたみたいだ」
「いきなり、火事だもん。無理ないですよー」

他人事みたいな言い方になってしまった。由多花はそれすら可笑しい。不安と緊張が一気に解けたせいかもしれない。今、目の前にいる人は、夕べ、いっぱい面白い話をした良いイケメンさんだ。
松岡さんはベーグルサンドを袋ごと どうぞ、とこちらに渡してくれた。
「お腹、すいたでしょ?」

由多花は緊張が走る。
今、やっと安心して、しかも夕べの相手と打ち解けられそうなのに、目の前に一番の難敵が現れるとは。
この状況でいりません、と言いにくい。そして、由多花は空腹だ。
そろ、と袋に手をやり、生ハムとクリームチーズのサンドを取り出す。

――…夕べは、平気だった…。

緊張から、喉をごくり、と鳴らす。
松岡さんも紙袋に手を伸ばす。彼は残ったサーモンとアボカドのサンドのビニールをその長い指で軽快にはがしていく。

――た、た、た、食べなくては…!

円滑な人間関係、円滑な人間関係、と呪文のように心の中で唱えながら、ゆっくりとベーグルに噛み付く。
小さな噛み口でベーグルだけしか口に運ばれない。ちょっぴりのクリーム。それをゆっくりと由多花は口の中で細かく舌が呆れるくらい時間をかけて噛み砕いていく。唾液と混ざるその食物の旨味が口全体に広がるまで。それほど長く、ゆっくり噛まねば飲み込めないのだ。
ただ、ひたすら、咀嚼する。
なので、松岡さんがその由多花の口元を注視しているのにも気がつかない。

そして、落ち着いて飲み下した。
なんの、違和感もない。

「美味しい…」

安心からか、由多花はまるで褒めてと言わんばかりの笑顔で 松岡さんを見た。彼と目が合う。
松岡さんは、良かった、と呟いた。
それから、由多花が半分も食べないうちに松岡さんは食事を終えたが、彼はそのままカウンターに座り、由多花が食べ終わるまでにこやかに待っていてくれた。

コポコポコポ、といい香りを醸したコーヒーがカップに落ちる。
そして、少し骨ばった手が運んだ二杯目のコーヒーが由多花の眼前に置かれた。

「それで、これからどうするの?」

松岡さんが由多花に聞いた。

「えっと、まずは不動産屋に行こうかと。あ、その前にビジネスホテルかな。いや、アパートに戻って、大家さんと話してから、状況見分終わってたら荷物も運ばなきゃ…」

言って呆れる。松岡さんは心配そうに由多花を見る。
慌てて由多花は自分を叱咤した。
――あわわわ、これじゃ、ダメ子じゃん! 何年、一人で暮らしているのよ!
すると爽やかな声音が振り落ちてきた。

「――良かったら、ここに住まない?」

硬直した。

え? と由多花は、その言葉を放った本人――松岡さんを見た。 
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