松岡さんのすべて

宵川三澄

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泣き黒子

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アパートに戻ると既に消防は帰っており、大家さんと由多花は話し合い、必要な荷物だけ運び出し、あとは処分してもらうことにした。
大家さんの息子さんがこの事態に心配して、年老いた大家さん夫婦を引き取ると言い出し、ほとんどの部屋が空き室なことから、アパートを取り壊すことになったからだ。
急なことに住人たちは驚いたが、焼け残った部屋も水浸しでひどい有様なため、大家さんと住人の立ち退き交渉は また後日となって 由多花はとりあえずそこから解放された。

運び出したものはアルバム、初任給で買ったテーブルセット、煤から助かった洋服が少々。
結構な量のDVDと本があるが簡素なものだ、と由多花は思う。
どこからか松岡さんが借りてきたバンに荷物を載せて、由多花と彼はあの高級タワーに戻る。


マンションでの松岡さんの提案は、由多花はなにを言っているのか一瞬、理解出来なかった。
だってそうだろう。夕べ会ったばかりの人間に同居申し込みってなんなの、この人、と。
親切なのは確かだろうが、あまりに無用心ではないか。

カウンターに頬杖ついて、あの人当たりのいい笑みで松岡さんは言う。

「きみのね、顔が好きなんだよね。…趣味も合う子って俺には貴重なんだよね」

ああ、と由多花は思う。そうだ、同じドルオタでもジャンル違うと話せないもんなー、と自分と沙菜を思い出す。
でも、これ、なんてエロゲーな展開ではないですか。
だって、一線越えちゃってるもん。
正直、そういう相手欲しさで囲い込まれるのは由多花は性分に合わない。

昨日は特別な日だったのだ。

由多花が好きな人に裏切られた特別な――呪われた日。

そこまで考えて、一応、相手に失礼なので、確認をする。
「それって…、私とお付き合いしたい、ということですか?」
ヤリたいから、ってだけでは 無理。てか、この人、そういう相手に不自由しなさそうだけど。
松岡さんは改まった顔して そうだと答えた。
由多花はグルグル考える。
ひどいかもしれないが、ここにとどまる利点について。
ふと、由多花の返答を待つ松岡さんの目元の黒子に気がついた。
――あ、左目の黒子なんだ、と。

泣き黒子。

すると、胸がいきなり跳ねた。
その小さな衝撃に由多花は一瞬、息を忘れた。

――やばい。

やばいかもしれない。

もしかして、私、この人の…。

松岡さんが立ち上がる。由多花は なにも言っていないのに。
「部屋はあるんだ――こっち、来てみて」
由多花は顔を上げられない。
けれど、彼は おいで、と手招きする。あの、笑みを浮かべて。

まずい。

私は。

警鐘を鳴らす理性と格闘したのも数秒だった。
カウンターから立ち上がり、彼のいる方向に歩みだしたとき、私は自分が彼のなにに惹かれているか自覚した。

――私は、彼の体が好きだ。…まずいだろうよ、こんなの…。

たかが、黒子、されど黒子。
私は彼のその笑顔に、どこか影を落とす泣き黒子に恋している。
恋って、本能なのね。
いいのか、自分…。

ただ、ひとつ、安心している。
松岡さんも多分、同じ理由で由多花を気に入っているのだ。それがむしろフェアだと思った。
そして、由多花は彼との間に自分にとって、結婚やら異性交遊をする上で越えねばならない難関、三大欲求の二つをクリアしている安堵があった。
松岡さんのことは、なにも知らない。でも、今、なにもかもどうでもいいほど、彼の黒子が魅力的だった。

由多花に八畳ほどの広さの洋室を見せて彼は笑む。
「ここ、使って」
由多花は松岡さんを見上げた。
「はい。――お世話になります」
由多花は彼と暮らす決意をした。

それから、シャワーを借りたが、会社には結局行けなかった。
お互い、そういう気分だった。仕方ない。松岡さんは上目遣いに弱いらしい。
二度目のセックスは、考えていたより濃厚で、思った通り彼は女性慣れしていた。
由多花は松岡さんがフリーなのが不思議に思った。

そして後日、松岡さんの全てを知ったとき、やっちまった、と後悔するのだけど。




ついつい春の猫たちのように盛り上がっていたした後、由多花は水浸しの服を乾かし、それでも足りない日用品をそろえるため、松岡さんと一緒に駅からやはり直結のショッピングセンターへ向かった。
こまごましたものを揃えると結構な出費だったが、レジで松岡さんが出す、と言うのは押しとどめた。
どんだけ、人いいんだとも思ったが 由多花も貯金もあるし、収入もある。別に彼のマイフェアレディになる気もないの。
日用品を購入するとき、一緒に避妊具も買ってみた。
彼が使っているものを教えてもらった。
このことを口にしたとき、さすがに松岡さんも引いていたが、彼と今後いたすのは由多花なので、彼女の部屋にも常備した方が互いのためだ。
それから、ショッピングセンターで夕食を済ます。彼は外食が主らしい。家ごはんが好きな由多花としては、今後はキッチンも使わせて欲しい。そう言うと、彼は嬉しそうに笑った。

――やっぱり、松岡さんもおうちの味に飢えていたんだ。

そうして、いくつか調味料を買い、作った合鍵を松岡さんから受けとり、そして、二人でマンションに帰って由多花のふとんは明日届くので、その日は松岡さんのベッドで一緒に寝た。

シーツを取り替えるとき、コトの名残を見つけて、今朝、あのまま帰らなくって良かったと羞恥で赤くなって思った。そして、シーツはそのまま全自動洗濯機に突っ込み、由多花も、そして、松岡さんも盛りだくさんの一日に疲れて眠った。


…深夜、キーボードの音がした。
うっすら目を開けるとベッドには松岡さんの姿はなかった。
カタカタと響く音が、軽快に続いている…。
随分久方ぶりの他人の気配に、いつの間にか涙が由多花の頬を伝っていた。
そのまま、由多花は眠った。朝まで。 
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