松岡さんのすべて

宵川三澄

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豹変

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キッチンだけに明かりが灯されている薄暗いカウンターで、由多花と松岡さんのカチャカチャと食器の音が響いていた。
互いにせっせと食べ物を口に運んでいる。
ここまで目の前の他人に遠慮のない食事はそれこそ、高校生以来ではないか、と由多花は思った。
メニューはカレイの煮付けにほうれん草の卵とじ。それに簡単なサラダをつけた。
本当はもう少し手のかかったものを、同棲記念の素敵な晩餐として張りきろうと思っていたが、実際は互いの腹をぶちまける 一触即発前の夕ご飯になろうとは。お釈迦様でも知り得まい。

しかし、腹が減っては戦は出来ぬ。
だいたい、今日はこの男の彼女の林さんのせいで お昼ご飯を食いっぱぐれているのだ!

由多花は食べ終わったらさっさと食器をかたして コーヒーを淹れた。少し苦い。
松岡さんは文句も言わずに飲んでいる。当然だ。塩入ってても飲め!
それから、ようやく息をついて、由多花は腹の中をぶちまけることにした。

「…あのさ、こっちが浮気なの!? 正直、それでも もう なにも言わないけど、だったら、セックスは遠慮したいよ」
はーっとビールの一気飲みのあとのように大きく息を吐いてカップをカウンターに置いた。
松岡さんはそんな由多花に驚いたようだ。

「浮気なんか、するか」
吐き捨てるように言う。
「浮気じゃん。林さんが好きなんでしょ」
「別れたっつーの。お前、バカか」

な ん だ こ の 豹 変 振 り…!!

「あり得ない。なんなの、松岡さんのその態度の変わりっぷり…!」
「お前もだろ。飲んでいたとき、そういう話し方だったしな」
うおお、この人、あの時の態度を覚えているのかよ…。失恋で荒れた人の態度をよくも…忘れるのがマナーでしょうよ。
「言っとくけど、私は素でした!」
「嘘つけ。…俺は別に七穂と寄りを戻す気はない。だから、お前と別れる理由もない」

「はあああ!!」

付き合い申し込まれたときより、でっかい声が出た。

「なんなの、俺様!?」
「松岡涼様。呼びたきゃ、そう呼べ」
うおお、血圧上がる。短大卒業以来のエネルギー値だわ。マジで怒りはエネルギー。
思わず立ち上がった由多花はスツールに座る松岡さんを見下ろした。
カウンターに頬杖ついて、足を組むその姿は確かに ふてぶてしい。
くそっと毒づきたいのに、由多花はまた その左目の黒子に気がついてしまう。

あーーー!
ヤバイ!
人格関係なく私はこの黒子が好きだ!
なんで、肉体の一部に恋なんかしちゃったんだろう!!

「猫かぶり…!」
「付き合い始めのマナーだろ。最初から図太い男女関係なんか趣味じゃない」

ああ言えばこう言う。ポンポンポンポン、言い返しおって…!
あ、忘れていたけど この人、小説家だった。語嚢豊富なはずだわ。
そして由多花はまたじっと見つめてしまう。その、黒子を。
松岡さんも由多花のその視線に気がついたみたいだ。少し いぶかしげに由多花を見上げ、それからまた あの意地の悪い口元をした。 そして彼は立ち上がる。

「お前、欲情してるだろ」

由多花の心臓が一気につかまれた。

「…わかるんだよな。そういう人間の目ってさ。後ろめたそうで」

由多花は松岡さんから顔を背けた。屈辱だったがそれより怖かった。
朝、家を出るまでの松岡さんはなにも知らない他人だったけれど、怖いことする人じゃないって思ってた。
でも、今の松岡さんは怖い。言葉の刃を効果的に使う。では、きっと由多花の体も心と同じでズタズタに出来るだろう。
それでも、頭のどこかで彼の手を待っている自分がいた。
覚えたてのサルか、と毒づきたい、自分に。

由多花は後ろにも下がれない自分に驚いていた。
足が動かない。松岡さんが近づいて来ているってのに。
松岡さんはその手を伸ばして由多花の口元にぐっと親指を入れた。
そして、由多花の歯の合間から奥に立ち入り、舌に触れた。
人差し指にささえられ、由多花は自然 顎を上げる。視線の先には松岡さんの綺麗な顔がある。
なんのつもり、と怯えたが、由多花はなにも出来ずに棒立ちだ。
松岡さんは くすり、と笑った。

「…噛めば? 嫌ならさ」

歯医者かお前は!
由多花は怯えた目のまま彼を見つめた。
しんなり細められた左目の間際の黒子。
どうして、そう、私をそそるの。

耐えられなくって由多花はゆっくり その差し入れられた親指を軽くしゃぶって噛んでやった。
松岡さんが驚いている。
彼の喉仏が上下したのが見えた。

――馬鹿め。自分の仕掛けた罠に はまりおって。

知っているよ。痛みは程度によっては気持ちいいんだよ。
心の中で、責任取れよ、と毒づいた。
私に快楽を教えた責任とって。

それから唇を尖らせて指を吐き出す。
松岡さんは陥落寸前だ。

彼はそれこそ、後ろめたそうに由多花から視線を外した。
それから、彼女の腕をとって、自分のベッドルームに引き入れた。

意外だったが、変わらず、濃厚で、そして丁寧で優しいセックスだった。 
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