松岡さんのすべて

宵川三澄

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佐々木由多花

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七穂はそのまま手元の紅茶を飲み干した。随分、喉が渇いていたようだ。
「…どうしてって、聞かないの…?」
呆然としていた涼はその言葉で現実に帰る。

――今までにもあったことだ、と どこか冷静な自分もいた。浮気の告白までされたことはないが、今までも他に好きなヤツが出来た、と言って別れを切り出す女はいた。
ただ、七穂がそんな真似をするとは、まるで考えていなかった。
「ねえ、聞かないの!?」
焦れたように七穂が大きい声をあげた。

涼はそれすら驚いた。
そして、怒りが湧いてくる。なぜ、浮気した女が自分を責めるのか、と。
「――聞きたくもない」
涼は吐き捨てた。
「じゃあ、お前はそいつと付き合うんだな。良かったな、俺と別れられるな」
あの、意地の悪い口角をあげる笑みを見せた。本気で怒らせたと七穂は今更みたいな顔をした。
ゆっくりコーヒーをかきまぜ、涼も口にする。
「俺は浮気する女とは付き合えない。勿論、結婚も出来ない。どうしてか聞いて欲しいから浮気したのなら、お前を軽蔑するよ。せめて、そいつが好きだから、という理由で別れ話をしてくれ」
容赦ない言葉を突きつけた。
七穂はうつろな顔をする。
「やっぱり…、涼は私が好きなわけじゃなかったんだ…」
「――好きだったよ。今も好きかもな。でも、好きでも許せない。終わりだな、俺たち」

「――待って、もう少し、もう少しだけ…待って欲しいの。私、自分の気持ちがわからないの…。ただの会社の先輩だと思っていた今北さんに、好きだって言われて嬉しかった。だって、涼、気がついている? 涼は一度だって私に愛しているって言ったことないの。涼はいつも自分だけで物事決めて、結婚だって、一方的で…。私、少し待って欲しかっただけなの。だから、今北さんに抱かれてみたの…。もしかして、涼より好きな人が出来るかもしれないって。今まで、一度も涼以外の人を好きになったことなかったから――」

「…お前、今、自分の言っていることが相当 一方的な言い分だって、わかってる?」

涼は呆れた。

「で? 俺はお前が浮気に飽きるまで待てばいいのか? ありえないだろ…」
「そうじゃない…。少しだけ自由にさせて欲しいって」
「お前は俺のものじゃないだろ。自由にすればいい。ただ、俺は他人の女には興味ないし、一度別れた女とも付き合わない。お前が自由を満喫したいなら、俺とは別れろ。…話は終わったな?」
涼、と引き止める声が聞こえたが無視して涼はそのまま会計を終えて外に出た。
あまりに馬鹿馬鹿しい終わりだった。
小夜子に知られることだけが嫌だったが こればかりは隠しようがない。

松岡涼はその翌日、既に購入手続きを終えていたマンションを訪れ 引越し日を管理会社に伝えた。
一週間のうち、何度も七穂から電話があったが全て無視した。
家族には七穂との結婚が駄目になったことを伝え、当面、彼女からの連絡は受け付けないでくれと言って家を出た。

それから、しばらく荒れていたと思う。

涼は涼なりに七穂が好きだったし、昔の七穂の面影は妹のようでもあり、それが変わってしまったことに――いや、男女の関係になって、互いの立ち位置が変わったことで起きた軋轢がひどく悲しかったのかもしれない。
その日、いつもの居酒屋で一人で食事して酒を飲んでいた。

そして、トイレの帰りに「その子」を見つけて一遍に酔いが醒めた。

初恋の彼女がいた。

いや、まさか。――『マミナ』だ。

思わず声をかけた、天然パーマにみつ編みの女の子はそのどちらでもなかった。
ただ、涼は確かに胸が高鳴った。

彼女の食事風景をただひたすら見ていた。目を離せなかった、というのが正しかったかもしれない。
彼女はとても一生懸命に箸をすすめる。それがひどく可愛らしく見えた。
その口元が自分を誘っているようにも見えた。
こらえ切れずに声をかけた。ナンパは涼は初めてだった。

その子はとても簡単に涼を懐に入れ、伴に晩酌し、自分の可哀相な恋の話を披露した。
こういうことに慣れている女の子かと思った。
そのうち酔いが回ったその女の子はとんでもないことを口にした。
誘いの文句にしても あまりに酷い。
しかし、それは涼にはあまりに甘い誘惑だった。
もしかしたら、神様が哀れな涼にくださった たった一度のチャンスにも思えた。

涼にとってその初恋の女の子の顔した少女は、一度も自分から好きになった女の子とキスすらしたことない涼への、神様の贈ったメフィストフィレスだった。
松岡涼はその夜、その悪魔を抱いた。



彼女は本当に初めてで、涼は戸惑いを隠せなかった。
それでも、悪魔は止めないで欲しいと高らかに謳うし、涼も彼女にひどく欲情していて止められるものではなくなっていた。
彼女の顔が初恋の人であろうとなかろうと もう関係なくなっていた。
自分からここまで情熱的になったのは初めてで、それに涼はその夜、溺れた。
その甘い砂糖菓子のような夜は、今まで一度も涼は味わったことがなかったのだから――。



朝が訪れたとき、涼が彼女が悪魔などでなく、普通の女の子であることを知った。
眠る顔を見て その幼さに自己嫌悪で心臓が止まるかと思った。
今までの自分のポリシーをすべて自分で踏みにじったことを恥じて、彼女の顔をまともに見ることが出来なかった。
彼女が思ったより大人で、そして、ありがとう、と頭まで下げたとき、涼は彼女と付き合いたい、と切実に思った。

結果的に、彼女、佐々木由多花と涼は同棲を始めた。



涼にとっては全てが新しい発見の日々だった。
彼女が食事のとき懸命に咀嚼する理由に驚いたが、その姿も可愛らしいと思っていた。
彼女との二度目のセックスは互いに望んだもので、酒ではなく、涼は既に恋に酔っていたのだと思う。
彼にとって、好きになった女の子との行為は 今までとまるで違うもので、好きな子とのセックスがこんなに気持ちのいいものだとも初めて知った。
自分はセックスに淡白だと思っていたが、なんのことはない。恋がそのまま劣情につながっていただけだった。

それに気がついたとき、七穂をまるで娼婦のようになじった自分を恥じた。

彼女も、涼が自分に恋をしていないことに気がついていたのだ。

恋をしていなくても、ただ、好きであれば誠実であれば、と涼は思っていた。
その食い違いが彼女にひどく寂しい思いをさせていたのだろう。
一方的にいつも保護しているつもりで、彼女を守る妹から彼女を引き継いだときのままで、涼の七穂への概念は止まっていた。

だが、彼女も もう、大人だったのだ。

そのやり方や、待っていて欲しいという主張は甚だ疑問だが、少なくとも涼の彼女に対する気持ちが七穂には耐えられなかったのかもしれない、と涼は後ろめたく感じた。
――自分が、こうして、恋人を手に入れたから。

由多花はとても寛容な女の子だった。
初恋のあの子の面影を最初は求めていたのかと思っていたが、彼女は自己主張しつつ、他人との接点や妥協点を見出せるという点では十も年上の涼よりずっと大人だった。
なので、涼がなかば自棄になり態度を豹変させたときも、結局彼女が歩み寄ってくれた。
涼はそれにまた安堵を覚えることになる。
男はプライドの生き物なので、どこかでやはり女性が大人になってくれないと上手くいかないのだ。
とくに涼はその傾向があった。
彼女と暮らそうと言ったきっかけを七穂のせいにしたのは失敗だと思っていた。けれど、うまく言えなかった。自分でも馬鹿馬鹿しいと思いつつ、十歳も年下の女の子に自分のあられもない本音は言えなかった。

今思えば、それもまた失敗だったのだ。

涼はまた今までと同じ失敗を重ねていく。

彼女に対しての甘えがあったと言ってよかった。

そして、彼女との生活があまりに甘美なので、彼は余計に七穂とのことに罪悪感を感じていた。
だから、その日、眼前に突然現れた小枝のようになった七穂の腕に驚愕した。
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