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4章 銀が覆う
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空音はいつだって助けを求めていたんです。
紅月の母──静香は目を伏せながら言った。
一服から戻ってきた紅月がタバコ臭いと言われながらも二人をぎゅうぎゅうと抱きしめているようだ。母が何を言うつもりでいるのか勘づいているのかもしれない。
完全に顔を上げることができず、東雲は紅月の顔を見れずにいる。紅月は東雲をちらりと見てから、子供たちをゲームに誘った。昔からあるロールプレイングゲーム。ボスを攻略するのに必死になって、紅月と子供たちは話を聞いていないようだった。
だから、静香は遠慮なく語った。
静香は3人いた子供のうち紅月だけを連れて再婚したという。理由は紅月がまだ幼く、彼女には母親がいなければいけないと思ったから、だった。考え方は人それぞれだ。思えば、その選択をした時から紅月を苦しめてしまうことになっていたのだろうと顔を覆った彼女が苦しげに漏らす。紅月はまだゲームに夢中になっている。
紅月は突然出来た二人の兄を忌避することはなかった。寧ろよく懐いていて、兄妹3人でよく遊んでいたそうだ。紅月が幼い頃から漫画やゲームを好きなのは主に2番目の兄の影響だったらしい。
紅月にとっては間違いなく本当の家族だった。静香は安心していたという。
静香が初めて心の闇を垣間見たのは、小学校高学年になった娘との会話からだったそうだ。
その話が始まった時、ちょうどボスを攻略した紅月は子供たちの手を引いて外へ出ていった。
『お母さん、リストカットってしたことある?』
その言葉自体はそういうことに興味を持ってしまう年頃にもなったのか、とさして気に留めなかったという。実際、自分もそのくらいの年頃には手首に深い傷を残した経験があったから、と。
自分と同じことをしてほしくない。そんな思いで娘に傷を見せながら自身の経験を語っていた時、彼女はニヒルに笑って言ったそうだ。
『ハサミなら、ちゃんと切れたんじゃない?』
何気ない一言だったかもしれない。その言葉に深い意味などなかったのかもしれない。それでも。
いつか自身はそうしようと思っているのではないか。
子供から大人に変わる不安定な時期、あまりにも漠然とした未来に恐怖や悲嘆の念が膨らみ希死念慮に囚われやすい時期。意味もなく「しにたい」と漏らしてしまうような、地に足がついているのかもわからなくなるような時期だからこそ。
『お母さんがそうしてたら、わたし、生まれなくて済んだよね』
何が彼女をそこまで追い詰めていたのか。
「20年経った今でも、空音が何をそんなに悩んでいたのかわからないんです。いいえ、わかってる……わかっていたのに……」
静香はとうとう泣き出した。東雲はそっと背中を撫でる。しばらく泣いてようやく落ち着いた彼女は、東雲の目を真っ直ぐに見て懇願するように言った。
「あの子はいい子なんです。口は悪いし素直じゃないけれど、きちんと人を見る目もある。あの子が貴方を選んだのなら私は反対したりしません。だから、どうか」
こんなこと、紅月が聞いていたら怒るだろうな。東雲はそんな風に思って思わず玄関を見た。静香も同じことを思ったらしい。二人の視線は子供たちと無邪気に走り回っているだろう紅月を追っていく。
まだ、戻ってこないで。これだけは言わせて。静香は玄関を見つめながら掠れた声で呟いた。
「空音を、よろしくお願いします」
東雲は声を出すことができなかった。その代わり、深く深く頷いてみせた。
すぐに答えを出さなかったのは、単純にタイミングが悪かったからだ。
紅月は子供たちと遊びながらチラチラとアパートを見やる。
そりゃあそうだろう、と紅月は誰に言うわけでもなく独りごちた。
東雲のプロポーズは突然だった。それもタイミングはまさかのトイレ待ちの時。親友がトイレから出てくるのを切に願っていただけの、思ってもいない時に「結婚しよっか」と。
思わず「今このタイミングでそれを言うか?」と軽くキレてしまったものだから、なんとなく返事をできずにいる。それがこんなことになるなんて。
母にはプロポーズされたことは言った。その流れでまだ返事ができてないことも。母がそれをどう捉えたのかわからないが、思いがけず自分の黒歴史を暴露されることになってしまったので子供たちに聞かせないように必死に策をねった。
あまりにも長く話す物だからこうして公園にまで来ることになっている。
「ママ、また鬼やって!!」
流行りのアニメの鬼の物真似が子供たちに大ウケしたので何度も繰り返す。子供たちはきゃっきゃと喜びながらも逃げていく。それを追いかける。
静香が言うほど。東雲が思うほど。紅月は自分の過去を凄惨だと思ってはいない。
よくあること。どこかの誰かも経験していること。たまたま身近にそういう人がいなかっただけで、世界中探せばもっと悲惨な目に遭っている人だっている。
紅月の考え方は変わっているのかもしれない。
一般的に言うなら、幸も不幸も他人と比べるものではないだろう。だから紅月の考え方は変わっていると言える。
しかし、そうとでも思わなければ紅月には耐えられなかったのだ。養父からの虐待、友人の裏切り、前職を辞すことになった苦い経験。自分にも非はあったのかもしれない。だけど、全面的に自分が悪かったのか?
呼吸が浅く速くなる。体力の無さを言い訳にして石のベンチに腰掛ける。子供たちはまだはしゃぎ回っている。
とにかく息を吐くことに集中する。吐いて、吐いて、吸って、吐いて、吐いて。ようやく落ち着いてきた頃になって子供たちが戻ってくる。察しのいい子たちだ。
「ママ、ポテト食べたい」
「よし、戻るか。ちゃんと手洗いうがいしない子にはポテトあげないからな」
アパートに戻って子供たちに手洗いうがいをさせて、自分も手洗いうがいをして。部屋に戻ると東雲が涙を流す静香の背中をゆっくり撫でていた。
「母ちゃん。歳で涙脆くなってんだから無理しないの」
ぺち、と東雲の手ごと背中を叩いて、紅月は笑ってみせた。静香は紅月の心の病のことで自分を責めるが、紅月は彼女のことを恨んだことはない。
気付いて欲しいのに気付いてくれない。そんな風に思っていた時期があったのは確かだが、別にそんなことは大したことでは無いのだ。
気付いて欲しいというのなら、もっとちゃんと言葉にするべきだったのだし。紅月は幼い頃の自分の傲慢さを反省している。
「ほら、母ちゃん。呑んで」
紅月はグラスに焼酎をロックで入れて手渡した。静香が泣き笑いのままグラスを傾ける。今度は東雲が子供たちに捕まって遊びに付き合わされている。
「誤解させるようなことになっちゃったかもしれないけどさ。別に自信がないからとか嫌だからってわけじゃないよ」
何度だって繰り返すが、喜んで、とプロポーズを受け入れられなかったのはタイミングが悪かっただけ。今更返事をするのもおかしな気がして言えずにいる、ただそれだけのこと。東雲だってもっとちゃんとした形でもう一度伝えてくれるだろうと思っている。そうでなければぶん殴ってやる。紅月が笑ってみせると静香も安心したように笑った。
「ママ、みて、てんじょーとどいた!!」
東雲に肩車をしてもらった葵が嬉しそうに天井に触れている。
「おー、すごいすごい。葵大きいねー。大きすぎてもう抱っこできないや」
そんな風に言うと葵はショックを受けたように口をぽかんと開けた。ししっ、とイタズラっぽく笑った紅月の服の裾を樹が引っ張る。
「ママ、おれは?」
「樹はまだまだチビ」
そう言って紅月は樹の脇に手を差し込んで高い高いをした。
「ひくい」
「はい、ひくいひくーい」
ちょっとムッとした紅月が樹を床に転がす。そんな遊びでも面白いのか、けたけたと笑い声を上げている。葵が東雲に「おれにもあれやって」とおねだりして、東雲がひょいと肩から下ろして床に転がした。
「子供と遊ぶのって結構いい筋トレだよね」
明日は絶対筋肉痛だ、と紅月が悲鳴を上げる。
「そうだね」
東雲は改めてプロポーズするにはどんなシチュエーションにしようかと考えながら葵をころころと転がす。きゃっきゃと楽しそうな二人の子供も傍にいさせてあげたい。
子供といると疲れちゃう。
それは一人だったから?
一緒ならどう?
少ししてお互いに落ち着いたら聞いてみようと思う東雲だった。
紅月の母──静香は目を伏せながら言った。
一服から戻ってきた紅月がタバコ臭いと言われながらも二人をぎゅうぎゅうと抱きしめているようだ。母が何を言うつもりでいるのか勘づいているのかもしれない。
完全に顔を上げることができず、東雲は紅月の顔を見れずにいる。紅月は東雲をちらりと見てから、子供たちをゲームに誘った。昔からあるロールプレイングゲーム。ボスを攻略するのに必死になって、紅月と子供たちは話を聞いていないようだった。
だから、静香は遠慮なく語った。
静香は3人いた子供のうち紅月だけを連れて再婚したという。理由は紅月がまだ幼く、彼女には母親がいなければいけないと思ったから、だった。考え方は人それぞれだ。思えば、その選択をした時から紅月を苦しめてしまうことになっていたのだろうと顔を覆った彼女が苦しげに漏らす。紅月はまだゲームに夢中になっている。
紅月は突然出来た二人の兄を忌避することはなかった。寧ろよく懐いていて、兄妹3人でよく遊んでいたそうだ。紅月が幼い頃から漫画やゲームを好きなのは主に2番目の兄の影響だったらしい。
紅月にとっては間違いなく本当の家族だった。静香は安心していたという。
静香が初めて心の闇を垣間見たのは、小学校高学年になった娘との会話からだったそうだ。
その話が始まった時、ちょうどボスを攻略した紅月は子供たちの手を引いて外へ出ていった。
『お母さん、リストカットってしたことある?』
その言葉自体はそういうことに興味を持ってしまう年頃にもなったのか、とさして気に留めなかったという。実際、自分もそのくらいの年頃には手首に深い傷を残した経験があったから、と。
自分と同じことをしてほしくない。そんな思いで娘に傷を見せながら自身の経験を語っていた時、彼女はニヒルに笑って言ったそうだ。
『ハサミなら、ちゃんと切れたんじゃない?』
何気ない一言だったかもしれない。その言葉に深い意味などなかったのかもしれない。それでも。
いつか自身はそうしようと思っているのではないか。
子供から大人に変わる不安定な時期、あまりにも漠然とした未来に恐怖や悲嘆の念が膨らみ希死念慮に囚われやすい時期。意味もなく「しにたい」と漏らしてしまうような、地に足がついているのかもわからなくなるような時期だからこそ。
『お母さんがそうしてたら、わたし、生まれなくて済んだよね』
何が彼女をそこまで追い詰めていたのか。
「20年経った今でも、空音が何をそんなに悩んでいたのかわからないんです。いいえ、わかってる……わかっていたのに……」
静香はとうとう泣き出した。東雲はそっと背中を撫でる。しばらく泣いてようやく落ち着いた彼女は、東雲の目を真っ直ぐに見て懇願するように言った。
「あの子はいい子なんです。口は悪いし素直じゃないけれど、きちんと人を見る目もある。あの子が貴方を選んだのなら私は反対したりしません。だから、どうか」
こんなこと、紅月が聞いていたら怒るだろうな。東雲はそんな風に思って思わず玄関を見た。静香も同じことを思ったらしい。二人の視線は子供たちと無邪気に走り回っているだろう紅月を追っていく。
まだ、戻ってこないで。これだけは言わせて。静香は玄関を見つめながら掠れた声で呟いた。
「空音を、よろしくお願いします」
東雲は声を出すことができなかった。その代わり、深く深く頷いてみせた。
すぐに答えを出さなかったのは、単純にタイミングが悪かったからだ。
紅月は子供たちと遊びながらチラチラとアパートを見やる。
そりゃあそうだろう、と紅月は誰に言うわけでもなく独りごちた。
東雲のプロポーズは突然だった。それもタイミングはまさかのトイレ待ちの時。親友がトイレから出てくるのを切に願っていただけの、思ってもいない時に「結婚しよっか」と。
思わず「今このタイミングでそれを言うか?」と軽くキレてしまったものだから、なんとなく返事をできずにいる。それがこんなことになるなんて。
母にはプロポーズされたことは言った。その流れでまだ返事ができてないことも。母がそれをどう捉えたのかわからないが、思いがけず自分の黒歴史を暴露されることになってしまったので子供たちに聞かせないように必死に策をねった。
あまりにも長く話す物だからこうして公園にまで来ることになっている。
「ママ、また鬼やって!!」
流行りのアニメの鬼の物真似が子供たちに大ウケしたので何度も繰り返す。子供たちはきゃっきゃと喜びながらも逃げていく。それを追いかける。
静香が言うほど。東雲が思うほど。紅月は自分の過去を凄惨だと思ってはいない。
よくあること。どこかの誰かも経験していること。たまたま身近にそういう人がいなかっただけで、世界中探せばもっと悲惨な目に遭っている人だっている。
紅月の考え方は変わっているのかもしれない。
一般的に言うなら、幸も不幸も他人と比べるものではないだろう。だから紅月の考え方は変わっていると言える。
しかし、そうとでも思わなければ紅月には耐えられなかったのだ。養父からの虐待、友人の裏切り、前職を辞すことになった苦い経験。自分にも非はあったのかもしれない。だけど、全面的に自分が悪かったのか?
呼吸が浅く速くなる。体力の無さを言い訳にして石のベンチに腰掛ける。子供たちはまだはしゃぎ回っている。
とにかく息を吐くことに集中する。吐いて、吐いて、吸って、吐いて、吐いて。ようやく落ち着いてきた頃になって子供たちが戻ってくる。察しのいい子たちだ。
「ママ、ポテト食べたい」
「よし、戻るか。ちゃんと手洗いうがいしない子にはポテトあげないからな」
アパートに戻って子供たちに手洗いうがいをさせて、自分も手洗いうがいをして。部屋に戻ると東雲が涙を流す静香の背中をゆっくり撫でていた。
「母ちゃん。歳で涙脆くなってんだから無理しないの」
ぺち、と東雲の手ごと背中を叩いて、紅月は笑ってみせた。静香は紅月の心の病のことで自分を責めるが、紅月は彼女のことを恨んだことはない。
気付いて欲しいのに気付いてくれない。そんな風に思っていた時期があったのは確かだが、別にそんなことは大したことでは無いのだ。
気付いて欲しいというのなら、もっとちゃんと言葉にするべきだったのだし。紅月は幼い頃の自分の傲慢さを反省している。
「ほら、母ちゃん。呑んで」
紅月はグラスに焼酎をロックで入れて手渡した。静香が泣き笑いのままグラスを傾ける。今度は東雲が子供たちに捕まって遊びに付き合わされている。
「誤解させるようなことになっちゃったかもしれないけどさ。別に自信がないからとか嫌だからってわけじゃないよ」
何度だって繰り返すが、喜んで、とプロポーズを受け入れられなかったのはタイミングが悪かっただけ。今更返事をするのもおかしな気がして言えずにいる、ただそれだけのこと。東雲だってもっとちゃんとした形でもう一度伝えてくれるだろうと思っている。そうでなければぶん殴ってやる。紅月が笑ってみせると静香も安心したように笑った。
「ママ、みて、てんじょーとどいた!!」
東雲に肩車をしてもらった葵が嬉しそうに天井に触れている。
「おー、すごいすごい。葵大きいねー。大きすぎてもう抱っこできないや」
そんな風に言うと葵はショックを受けたように口をぽかんと開けた。ししっ、とイタズラっぽく笑った紅月の服の裾を樹が引っ張る。
「ママ、おれは?」
「樹はまだまだチビ」
そう言って紅月は樹の脇に手を差し込んで高い高いをした。
「ひくい」
「はい、ひくいひくーい」
ちょっとムッとした紅月が樹を床に転がす。そんな遊びでも面白いのか、けたけたと笑い声を上げている。葵が東雲に「おれにもあれやって」とおねだりして、東雲がひょいと肩から下ろして床に転がした。
「子供と遊ぶのって結構いい筋トレだよね」
明日は絶対筋肉痛だ、と紅月が悲鳴を上げる。
「そうだね」
東雲は改めてプロポーズするにはどんなシチュエーションにしようかと考えながら葵をころころと転がす。きゃっきゃと楽しそうな二人の子供も傍にいさせてあげたい。
子供といると疲れちゃう。
それは一人だったから?
一緒ならどう?
少ししてお互いに落ち着いたら聞いてみようと思う東雲だった。
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