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38 使用人階でのウワサ話
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使用人階の空気は、今夜にかぎって、ひどくざわついていた。
19世紀の英国の大邸宅では、主人階とは対照的に、使用人階は常に人の声と足音が交差する。
厨房、洗濯場、裏階段――これらは屋敷の“心臓”のような場所であり、同時にウワサがもっとも早く育ち、もっとも早く広がる場所でもあった。
狭い空間で身分の上下関係に縛られて暮らすメイドたちにとって、屋敷内の人間関係は日々の唯一の娯楽であり、最大の関心事だった。
夕食の片付けが終わり、これから上階へ金属製のティートレイ(※お茶用のおぼん)を運ぶメイドや、寝具の交換に向かうハウスメイドたちが行き交う裏階段の踊り場で、メイドたちはエプロンのシワを伸ばしながら、そっと口を動かしていた。
「聞いた? 今日もレオン坊ちゃま、エマさんを“お呼び出し”なさったんですって」
「たしか、ティールームからベルを鳴らされたって私は聞いたわ。
あれって、普通はフットマンの仕事よね。
それを“エマを”って名指しで……ずいぶんお気に入りね」
「まあ、屋敷の若坊ちゃまが中流のハウスメイドになつくのは珍しくないけど。
あそこまでいくと、心配しちゃうわね」
そこへ、厨房の方から皿を洗う水音が響き、下働きの少女が周囲を気にしながら声をひそめた。
「わ、私……昼間に見ちゃったんです。
廊下でエマさんを見つけた瞬間、若坊ちゃまがすごい勢いで走ってきて……。
まるで……その……恋人みたいで」
「しっ……! そんな言い方、口にしたらだめよ。
エマさんが聞けば困るわ。下手をすれば――解雇よ」
19世紀の大邸宅で、主人の息子とメイドの“親しさ”を疑われることは、メイドにとって致命的なスキャンダルだった。
屋敷の名誉を傷つける恐れがあるとして、容赦なくクビにされた例は珍しくない。
だからこそ、メイドたちは声をひそめる。
それでも、ウワサ話をおさえきれるほど彼女たちの心臓は強くない。
「でも……エマさんも気の毒よ。
“世話係”に任じられただけで、坊ちゃまのお気に入りあつかいなんて」
「それに……若坊ちゃま、“闇魔法”を持ってるとか言われてるでしょ?
影が揺れるとか、ものが勝手に動くとか……本当なのかどうかは知らないけど」
その瞬間、数人がゾッとしたように身を寄せ合った。
この時代、本来なら魔法は存在しない。
ゆえに、この世界では“魔法”は得体の知れない恐怖としてあつかわれている。
「もし本当に力をお持ちなら……
エマさんがほかの誰かと仲よくして、若坊ちゃまに誤解されたら……」
「ええ。お気に入りを誰かに奪われた、なんて思われたら……。
メイドなんて、ひとたまりもないわ」
冷たい息が、一瞬で階段の踊り場に広がった。
そのときだった。
重いウールスカートの擦れる音とともに、家政婦長――ハウスキーパーのターナー夫人が姿を現した。
「あなた方。いい加減になさい」
階級制度が支配する屋敷では、ハウスキーパーは“女使用人の頂点”であり、どんな侍女でも黙らせる力を持っている。
ターナー夫人は、黒いウールのドレスに、胸元では銀の鍵束がかすかに揺れていた。
大邸宅の貴重品・リネン庫・食器棚の鍵を管理する証であり、この地位がどれほど重いかを物語っている。
「レオン坊ちゃまとエマの件で、くだらないウワサをしていると聞きました。
ご当主様のお耳に入ったら、どうなるかわかっているのでしょうね?」
メイドの一人が顔を真っ赤にし、うつむいた。
「……申し訳ございません、ミセス」
「あなたたちの軽口ひとつで、誰かが職を失うことがあります。
とくに――“主人の息子とメイドの親しさ”に関するウワサは、メイドの人生を台無しにします。
二度と口にしてはいけません。わかりましたね?」
「……はい、ミセス」
全員がそろってうなずいた。
その光景を、階段の陰から私は息を殺して見つめていた。
――私のために叱ってくださっている。
でも、ウワサの中心が自分であることは、逃れようのない事実だった。
メイドたちの誰も、私がほんの数段下の影に隠れて聞いているとは気づかない。
私の胸の奥で、ひやりと重いものが沈んだ。
19世紀の英国の大邸宅では、主人階とは対照的に、使用人階は常に人の声と足音が交差する。
厨房、洗濯場、裏階段――これらは屋敷の“心臓”のような場所であり、同時にウワサがもっとも早く育ち、もっとも早く広がる場所でもあった。
狭い空間で身分の上下関係に縛られて暮らすメイドたちにとって、屋敷内の人間関係は日々の唯一の娯楽であり、最大の関心事だった。
夕食の片付けが終わり、これから上階へ金属製のティートレイ(※お茶用のおぼん)を運ぶメイドや、寝具の交換に向かうハウスメイドたちが行き交う裏階段の踊り場で、メイドたちはエプロンのシワを伸ばしながら、そっと口を動かしていた。
「聞いた? 今日もレオン坊ちゃま、エマさんを“お呼び出し”なさったんですって」
「たしか、ティールームからベルを鳴らされたって私は聞いたわ。
あれって、普通はフットマンの仕事よね。
それを“エマを”って名指しで……ずいぶんお気に入りね」
「まあ、屋敷の若坊ちゃまが中流のハウスメイドになつくのは珍しくないけど。
あそこまでいくと、心配しちゃうわね」
そこへ、厨房の方から皿を洗う水音が響き、下働きの少女が周囲を気にしながら声をひそめた。
「わ、私……昼間に見ちゃったんです。
廊下でエマさんを見つけた瞬間、若坊ちゃまがすごい勢いで走ってきて……。
まるで……その……恋人みたいで」
「しっ……! そんな言い方、口にしたらだめよ。
エマさんが聞けば困るわ。下手をすれば――解雇よ」
19世紀の大邸宅で、主人の息子とメイドの“親しさ”を疑われることは、メイドにとって致命的なスキャンダルだった。
屋敷の名誉を傷つける恐れがあるとして、容赦なくクビにされた例は珍しくない。
だからこそ、メイドたちは声をひそめる。
それでも、ウワサ話をおさえきれるほど彼女たちの心臓は強くない。
「でも……エマさんも気の毒よ。
“世話係”に任じられただけで、坊ちゃまのお気に入りあつかいなんて」
「それに……若坊ちゃま、“闇魔法”を持ってるとか言われてるでしょ?
影が揺れるとか、ものが勝手に動くとか……本当なのかどうかは知らないけど」
その瞬間、数人がゾッとしたように身を寄せ合った。
この時代、本来なら魔法は存在しない。
ゆえに、この世界では“魔法”は得体の知れない恐怖としてあつかわれている。
「もし本当に力をお持ちなら……
エマさんがほかの誰かと仲よくして、若坊ちゃまに誤解されたら……」
「ええ。お気に入りを誰かに奪われた、なんて思われたら……。
メイドなんて、ひとたまりもないわ」
冷たい息が、一瞬で階段の踊り場に広がった。
そのときだった。
重いウールスカートの擦れる音とともに、家政婦長――ハウスキーパーのターナー夫人が姿を現した。
「あなた方。いい加減になさい」
階級制度が支配する屋敷では、ハウスキーパーは“女使用人の頂点”であり、どんな侍女でも黙らせる力を持っている。
ターナー夫人は、黒いウールのドレスに、胸元では銀の鍵束がかすかに揺れていた。
大邸宅の貴重品・リネン庫・食器棚の鍵を管理する証であり、この地位がどれほど重いかを物語っている。
「レオン坊ちゃまとエマの件で、くだらないウワサをしていると聞きました。
ご当主様のお耳に入ったら、どうなるかわかっているのでしょうね?」
メイドの一人が顔を真っ赤にし、うつむいた。
「……申し訳ございません、ミセス」
「あなたたちの軽口ひとつで、誰かが職を失うことがあります。
とくに――“主人の息子とメイドの親しさ”に関するウワサは、メイドの人生を台無しにします。
二度と口にしてはいけません。わかりましたね?」
「……はい、ミセス」
全員がそろってうなずいた。
その光景を、階段の陰から私は息を殺して見つめていた。
――私のために叱ってくださっている。
でも、ウワサの中心が自分であることは、逃れようのない事実だった。
メイドたちの誰も、私がほんの数段下の影に隠れて聞いているとは気づかない。
私の胸の奥で、ひやりと重いものが沈んだ。
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