19世紀イングランド風の異世界。未来で悪役になる貴族の息子を、メイドの私が溺愛して運命を変えます

ねこまんまる

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35 パン屋

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レオンは、目を輝かせてパン屋を見ている。
 
「……いいにおいだな。パンって、こんなふうに並んでるのか。
焼きたての湯気がすごい。あの丸いの、全部食べ物なんだよな?
ねえ、エマ。パン屋って、毎日こんなに焼くのか? 朝から、ずっと?」
 
私は、立ちのぼる湯気から視線を外さず、静かにうなずいた。
 
「ええ。パン屋は夜明け前から火を入れてるんですよ。朝の分を焼いて、売れたらまた生地をこねて……
人の多い通りの店は、ほとんど一日じゅうです。でも、ここに並んでいるのは今日のぶんだけなんです」
 
パン屋のカウンターの向こうでは、焼き色のついたローフが木棚に積まれている。
 
パン屋の職人は、清潔だけど質素な服装で仕事をしていた。
生成りのシャツに、厚手のエプロンを着て、布を頭に巻いている。
火と粉と水を毎日あつかう職業だから、手は荒れていた。
 
レオンが、パン職人をながめて私に問いかける。
 
「パン屋には、僕もなれるかな?」
 
「いえ、パン屋になるためには、修業が必要なんです。徒弟として数年は修行しないといけません。
だからパン屋は、代々続く家か、職人から独立した者が多いんですよ」
 
思いつきで始められる仕事ではないから、パン職人の顔には、仕事にたいするほこりがあるように見えた。
 
そのとき客の男性が来て、パン屋の職人に対して「おはよう」と帽子を少し持ち上げた。
 
深いチャコールグレーのフロックコートを着ていて、その仕立ての良さから、生活に余裕のあるロンドン紳士であることが一目でわかる。

指先にはインクの名残がうっすらと残り、どこか事務仕事――弁護士、会計士、あるいは商社勤めを思わせる雰囲気があった。

パンは、全階級共通の主食で、みんなが食べている。
だから、こういった中産階級以上の男性でも、通勤途中や朝の散歩ついでに家族用・自分用としてパン屋に立ち寄ることは日常的だった。

職人は粉のついた手を布でぬぐい、うなずく。
 
「おはよう。今日は小麦か、黒パンか?」
 
「黒をひとつ。できれば、焼きの新しいのを」
 
職人は棚に手を伸ばし、硬めの表皮をしたローフ・ブレッドを選んだ。
指で軽く叩くと、低い音が返る。
 
「今朝のだ」
 
そう言って、紙も包みも使わず、そのまま台に置く。
客は指で軽くパンを押し、焼き具合を確かめる。
 
「これでいい。いくら?」

「二ペンス」
 
客は懐から革袋(※財布)を取り出し、二枚の銅貨を数えて置く。
カチ、と乾いた音。
店主は硬貨を一枚ずつたしかめた。
 
パンはそのまま渡され、客は腕に抱えて店を出る。
これが、この街ではごく普通の光景だ。


パン屋を離れて、またしばらく歩いた。
 
通りを歩きかけて、私は足を止める。
気づけば、レオンが同じ場所から動いていない。
 
ガラス越しに並ぶ菓子を、息を詰めるように見つめている。
その店は、ティールームだった。
 
19世紀のティールームは、紅茶と甘い菓子を出す、静かな休憩の場所だ。
現代の「カフェ」にいちばん近いけれど、少しちがう。
 
もともとイギリスでは、酒場は男性の場所という感覚が強かったため、女性が安心して外出できる公共空間としてティールームは重要だった。
 
ティールームをながめていたレオンが、思いきったように言った。
 
「……あの」
 
私が振り向くと、レオンは視線をあちこちに泳がせる。
頬がうっすら赤くなっていた。
 
「……ティールームのことなんだけど。
屋敷で……使用人たちが、ああいう店の話をしてるのを、前に聞いたことがあって……」
 
耳まで赤くなりながら、続ける。
 
「えっと……その……恋人同士が、行く場所だって」
 
「まあ、そうですね。でも婦人同士や親子でも行きますよ。
ティールームに入ってみますか?」
 
「いいの?」

「はい。すこし休憩しましょう」
 
「……うん」
 
まだ少し顔が赤いけれど、レオンの表情はやわらいでいる。
 
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