アドレナリンと感覚麻酔

元森

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第二章 第五話

49 ナンバー

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 急いで部屋に戻り自分の机においてあるケイタイを、開くと「兄さん」とディスプレイに表示されていた。
「…兄さん」
『あ、俺だ。元気か?』
 久しぶりに清十郎の声を聞いた聖月は、目頭が熱くなる。形容出来ない安堵感で包まれた。いつぐらいぶりに兄の声を聞いたのだろう。それを思い出せないほど、長い間兄の声を聞いてなかったような気がした。
「…どうしたの急に」
 それしか、いえなかった。これ以上話したら、すべてを吐露してしまいそうになりそうだ。かなり聖月の精神はまいっているようだった。
『何って…いや…いつぐらいだ。話すの』
「わかんない…」
『だよなぁ……この前の夏休みは会えなかったし」
 落ち着きのある声。全て何もかも聖月とかけ離れているようなそんな錯覚がする。
「…仕事いいの?」
『ああ、早く終わった。なあ…いつこっち戻ってくる? 会いたい』
 ドキリ…と心臓が跳ね上がった。
 清十郎の言葉は、聖月の欲望を刺激する。それは、甘い毒のようだった。こっちに戻るということは、もう施設に戻らなくてもいいのだろうかと、一瞬ありもしないことを聖月は考える。ただ清十郎はこっちにいつ帰省するかと聞いているのに――…。
 清十郎は、もう売り払った実家から1時間半ほど離れたところで暮らしている。一等地のマンションで一人暮らしでは広い部屋に住んでいる。
 それもあってか、兄の家から高校を通うのは難しいという理由もあって施設を勧めたのだ。それが、聖月を悪魔に売りに渡すとは知らずに。
「暇、あったかな。…忙しいんだ、課題で」
 嘘と真実を織り交ぜて伝える。心が苦しかった。
『そうなのか。現役は大変だな。そういえば…就職はまだ決まってないらしいな』
 痛いところをついてくる。
「うん…まだ…」
 まだ二年だからね、とは言えない雰囲気だ。
『そうか。俺の会社紹介するか?』
 思わず言われて、笑ってしまった。
「いや…どうみても、俺みたいな奴がいくところじゃないでしょ。そこ」
『そうか? まあいい、気が向いたら来てくれ』
「いや、いや…いかないし。てか大学名いっただけで落とされるだろ。兄さんの会社』
 清十郎のつめている会社は、誰も聞いたことがある一流の会社だ。こんな聖月みたいな2流と3流の大学がいくところではない。むしろ、自分がその面接を受けたら会社に失礼な気がするのだ。
 聖月の答えに不服そうな兄は、そのまま続けた。
『じゃあ、俺がそっちいっていいか?』
「はっ?! なんで?!」
 電話越しで、大声を思わず出してしまっていた。
『なんでって…そういえば施設みてなかったなぁって…もう3年たってるけど』
「やめて。来ないで」
 冷たい拒絶が、聖月の口から発せられた。自分でも驚愕するほど、その声は冷たかった。まるで生きていないみたいに――…。
『……聖月?』
 突然の聖月の拒絶に困惑している兄の声が電話から聞こえる。自分のしでかした失敗に聖月は小さくため息をつく。清十郎にわずわらせることなんてない、聖月はそんな気持ちをこめて言った。
「……ごめん、でも来ないで。俺がそっちにいくよ。兄さんの足を使わなくていいから」
『なんで行っちゃ駄目なんだ? なにかそれで不都合なこと――…』
「聖月~、蒼がめちゃくちゃ怒ってるけど何かした~?」
 突然入ってきた声に聖月は顔をあげる。
『誰だ?』
 ノックもせずに大声で誰かが聖月を呼ぶ。いや―――この声はまぎれもなくケイだ。
「ごめん、兄さん。人、来ちゃったから切るね」
『…あぁ、またな』
 どこかいつも違う歯切れの悪い兄の声。聖月も、なんだか妙な気持ちで電話を切った。
「うん…またね…」
 ケイタイを閉じると、ドアの前にいるらしいケイが大声で喋る。
「ねえ、聖月聞いてる?! 誰かいるのそこに? 話してたでしょ今」
「うん…聞いてる。それって今関係ある?」
 聖月は、ケイに兄の話をしたことがあるが、一回も顔や姿を見せたことはなかった。前にせがまれたが、兄は第一写真をとられるのが嫌いだったし、なによりディメントの人間に兄の写真を見せたくなかった。聖月がいえる話でもないが。
「関係あるよ! 気になるもん、てか中入れてよ」
 いつも通りの媚を売るような声に、聖月は頭痛がしてきた。
「……蒼、そこにいるでしょ」
「えっ? いないよ、そんなの! 寒いよ~、いれて~」
「……そう。だったら、いいよ」
 ドアの前でわーわー騒がれても、困る…と聖月は鍵を開けてドアを開けた。すぐさま、ケイが部屋の中に入ってきた。ねずみが人間に見つかって隠れようと壁の隙間に入ろうとするぐらい素早い。ケイは元気だな――そう思った次の瞬間、
「聖月! 会いたかった」
「ぎゃっ」
 そう叫ばれて、ケイに思い切り抱きしめられた。抱きしめられて、腹の底から変な声が出てくる。
 手は腰に回され、まるで久しぶりの恋人に再会したように力強く抱きしめられた。ケイとは、昨日も会ったはずなのに。この施設にいれば嫌でも1週間に一度は会うはずなのだ。なのに、急にどうしたのだろう。
「急になに…」
 そう聞くと、ケイはへんてこな理由を答えた。
「なにじゃないよ、今俺人肌に触れたい気分だったから」
「……なにそれ」
 そんな理由で触れられたのかと、聖月は呆れた。
 ケイのことを力ずくで、引き離した。ケイは、押し返されたことが不服なのか、不思議そうな顔でこちらを見てくる。
 ケイもこの3年で成長していた。少しだけ大人びた顔になっただけだが身長も伸び男らしい体格になっている。だけど顔は今でも天使のような愛くるしさでこちらを大きな瞳で見詰めてくる。見てしまったら、恋にでも落ちてしまいそうだ。
 大きな目に、白い肌。少女のような頬に、美味しそうな唇。完璧なシンメトリーの顔の造形は、感嘆をあげてしまう。髪の毛までミルクティーのようで、甘く美味しい砂糖菓子のようだ。今でも少女にみえてしまう、天使の造形は永遠に崩れない。
 だからなのか聖月はケイの顔が見れない。いつも彼の顔の右や左のところを見てしまう。
「…ケイ。何の用でこっち来たの」
 何が起こっても無表情の顔で言う。他人から見たら怒っているのかと思われそうなほど無愛想な表情だ。でも、ケイは聖月のこれがデフォルトだと知っているので、特に文句も言わず見詰めるだけだ。なんだか疲れて少し歩いてベットに座ると、ケイもその隣に来る。ケイから漂ってくるのは男だとは思えない甘い香りでこっちまで酔いそうだ。
「なんでって……さっき、蒼がめちゃくちゃ怒ってたんだよ。クソ聖月が俺のこと拒んだって。暴力したって。何やったの」
 蒼の都合のよすぎるところに、顔が苦笑にまみれる。苦笑いしながらケイに言った。
「蒼の偵察?」
「違うよ、ただの興味。何やったのかなって」
「ただ、顔舐められて迫られたから脛蹴って逃げた。それだけ」
 ため息混じりに、ぶっきらぼうにいう。ケイは驚いていた。
「わぁお、それ毎度のごとくやってんね。そろそろ抱かれてもいいんじゃないの、蒼に。蒼ってすっごいうまいんだよ、俺が保障する」
「……死んでも嫌だ」
「そう? 経験って大切だよ」
「客で十分」
「まあ聖月はそうだろうね」
 蒼に抱かれるなんて、聖月は絶対に嫌だった。いや、誰でも抱かれるのは嫌だった。蒼は、とてもサディストなので、かなり聖月を苛めるだろう。それが、嫌だった。
「うーん、毎度思うけど聖月がディメントの売り上げ3位なのが、不思議でしょうがない。やる気ないのにね」
「……」
 聖月は、何もいえなかった。
 ディメントの売り上げ――…つまりこの男娼館の売り上げ順位は、なんと聖月がトップ3のなかに入っていた。はじめは、ビリに近い成績だったが、何が起こったのか、この3年で売り上げ3位にまでになっている。
 聖月自身、そんな実感はない。だが、どうしてそうなったのか何とはなく分かっていた。
「俺、5位だし。聖月に勝てる自信しかなかったのにさ」
 そうガッカリいうケイがなんだか羨ましい。
 売り上げランキングはしいていえば、人気ランキングと同等だった。その次の4位が蒼で、3位が聖月、2位が九条という幻想的な雰囲気を持つ長身の男、1位が神山だ。神山が、ここで1位だと聞いて驚いたが、なんだか納得した。なんだかんだいって、拓三は9位らしい。ディメントでは20位に入れれば、割といいらしいので、聖月のトップ3入りは異質だった。
 20位以内にも圏外にも、聖月より容姿のいい男娼はごまんと居るからだった。
「……ケイの客は、違う蝶に移りやすい傾向があるから」
 ケイの客は、一度抱けばいいといってしまうのが大半らしい。ケイはある意味さまざまな客と共にした回数では、断然聖月より上だった。だが、売り上げ的は聖月よりも低いらしい。どうしてそうなのか、ケイも分かっていなかった。
「だよねえ、困っちゃうよ。そのほうが、いろいろな客相手と出来るからいいけど。それに対して、聖月の客は一度ヤっちゃえばなぜか熱心な固定客になるよね。こっちでもなんかすごいテク持ってんじゃないかって噂だけど、実際その辺どう?」
 また、ケイはすごいことをいう。聖月は瞠目してケイを見つめる。
 綺麗な少女のような顔でいってはいけない言葉が連発していた。ケイとこの3年間つきあってみて分かったことがあった。それは、ケイは十夜と同じ快楽主義者だということだ。いや、ケイだけではない、蒼も、拓三も、小向だって――…このディメントにいる人々は形は違うかもしれないが結局は、『快楽』に酔っている。
 酔っていないのはきっと、聖月だけだろう。それか、無理やり借金の肩代わりとして不遇の扱いを受けている人だけだ。
 このディメントで働く人間は二種類居る。ただ、快楽のために働いている人と、お金のために働いている人だ。だが、後者のそんな人たちだって、開き直って快楽におぼれている人たちが大半だ。むしろ、拒絶しつつも溺れてしまう人が多い。
 快楽に酔わず、受け入れられない人は身体より先に精神を病む。それを、この3年で聖月は何人も見てきた。精神をやられてしまって、自殺してしまった人だっていた。それを知ったとき、聖月はこの場所に殺されたのだと思った。
 聖月は後者だった。快楽を受け入れられない、人間の一人だ。ピアノの線の上をふらふら歩いているぐらい不安定な操り人形を脳内で飼っていた。ふとしたことですべて落ちてしまうような不安定すぎる精神。だが聖月はあることで精神を保っている。
 それほどにこの職業とも思いたくないお金稼ぎは過酷なモノだった。
「マニュアル通りに接しているだけだよ」
 マニュアル通りといっても、本当はもっと雑だった。扱いやすい客は、優しくするが、危ない客はほとんどやる気なく接している。それが客の逆鱗に触れたこともあったが、聖月はその姿勢は崩さないつもりでいた。
「何それ、聞かせてほしいな。聖月が3位になれた理由」
「……別に、何もないよ」
「えーっ! そんなわけないでしょ、教えてよ」
「…ホントにないんだってば。…この話、あんまり好きじゃない。もうやめよう」
「…そっか」
 ケイは、引き際がわかっている男だった。それに感謝しながら聖月は遠くを見詰める。本当に、どこから狂ってしまったのだろうか。どこから…。
「じゃあ、誰と電話してたの?」
「えっ」
 またもや、ケイは驚くことを言ってくる。兄と話してましたなんて、言えない。
「いいじゃんそんくらい」
「………」
「まただんまりかよ~」
 ケイにはそう言われたが、聖月は黙り込むしかなかった。聖月は、ただ『真っ暗な闇のようだ』と称された瞳でケイに少しだけ見ると苦笑いをするしかなかったのである。
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