アドレナリンと感覚麻酔

元森

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第二章 第八話

77 日常の崩壊

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 その日の窓の空はひどく曇り模様だった。聖月は、ぼうっと空を見つめていた。考えるのは、ある一点のみだった。
 大学は夏休みに突入する手前まできた。聖月はほっとする気持ちでいた。それはいま会いずらい男に、会わなくていいというものだった。それはとても一時的な解決方法かもしれないけど、聖月は胸を撫で下ろす。
 聖月はあるホテルの一室にきていた。ディメントの仕事を行うためだった。この前蒼が言っていた、新しい客だという。
 指定されたホテルは、この国でも有名な一級のホテルだった。眩いばかりの大きなシャンデリアが聖月を迎えていた。ロビーの広さも、その高級なソファもスタッフの優雅さも、全てがどこかの別世界のようだった。客もどこか浮世離れしてて、聖月は間違いなく場違いだった。
 場違いな客だろう聖月を嫌な顔をせずに接客したホテルマンも、一流で申し分もなかった。
 そんな場所を指定するなんて、相手は相当の金持ちらしい。
 若くて、イケメン、とは聞いているが聖月にはそんなのはどうでもよかった。
 結局することは同じことだ。
 それに、いいも悪いも存在しない。―――そう聖月は考えている。
 だが、若い男が客なのは珍しい。
 ディメントは馬鹿高い会員料で有名だ。その高い金と引き換えにするのは、男娼への待遇。それを欲しがる客は大勢いるが、その客は殆ど40代50代の男たちだ。若い男はまずディメントの会員になるための資格となる会員料を払えない。
 なので、若い男というのは、相当のやり手の若い社長だとか、資産家の息子ぐらいだ。
 そういう男はだいたい傲慢なやつだろうから、あまり聖月は気乗りではない。
 聖月は、高級なベットに横たわりながら、空をじっと見つめた。
 暗い雲は、聖月の心のようだった。うようよと、動いている雲を見つめて、ため息をつく。夕方にさしかかる空は、少し赤みを帯びて、暗い空を混沌とさせている。その様子をじっとみて、聖月はもう何度目かのため息をはいた。
 ドアのほうから物音がして、聖月は慌ててベットから立ち上がり、床に降りた。
 ドアの開く音がして、聖月は顔をあげる。
 だが、その光景はあまりに倒錯したものだった。思い切り自分の頭に鈍器を投げつけられた衝撃が脳天に打ち込まれた。それは相手も同じようで、聖月と同じ顔をして呆然と立っていた。それは何度も見て、見間違えるわけもない男の顔だった。
 どうしてここに、という疑問が頭の中で乱舞する。
 頭の中が真っ白になって、何も考えられない。
 ゆっくりと口を相手は動かした。
「…みつき………」
 聞きなれた声が、聖月の名前を言う。あの低い声で、信じられないという声をあげてそう言っている。
 その名前を言うのは、自分を知っている人しかいない。
 そんなこと、あっちゃいけない。あってはならない。
 身体が軋む音が聞こえた。それは、聖月の心の奥からだったかもしれない。
「なんで……」
 信じられない顔をした友人が、こちらに近づいてくる。聖月は一種のパニックに陥った。今いる自分が誰だか、わからなくなる。
「ちがうっ! 俺は、みつきじゃないっ」
 大きく絶叫し、相手を制止させた。目の前の男は驚き、息を呑み瞠目させている。
「っ」
 そうだ、俺は、みつきじゃない。
 俺は、俺は――――――。
「俺は………≪セイ≫だ、みつきなんかじゃないっ…」
 聖月は、そう言って嗚咽した。
「あ゛…ぁ…っ」
 声はしゃがれて、涙は床にぽたぽたと落ちた。
 そうだ、俺はミツキなんかじゃない。だから、目の前の男が何者だなんて知らない。涙が出て止まらない視界が、世界を歪ませる。日常が壊れる音を、確かに聞こえた。もう戻れないと、それは傷を見られたときにわかっていた。
 だけど、それでも信じたかった。
 友人の存在を。大切な存在が、ずっと傍にいてくれると。
「…みつき、」
 男は泣いていた。
 あの時と、同じように、綺麗な涙を浮かべていた。こんな歪んだ視界の中でも、それはわかった。
「くるな…」
 聖月はセイとして、喋る。来ないでくれと、懇願する。来たら、すべてが終わってしまう。
「いやだ…」
 男が、小さく横に首をふった。
「来ないで…っ」
 聖月は窓のほうまで走った。だが、ホテルの一室はあまりに鬼ごっこには不向きで、すぐに追い詰められてしまう。男はゆっくりと距離を縮め、静かに泣きながら問うた。その声は震えていた。
「聖月……なんで…?」
「知らないっていってんだろぉっ…そんな奴っ」
 聖月は、叫ぶ。声はしゃがれて、涙が飛び散った。一呼吸をおいて、彼は口を開いた。
「―――橘って俺の、親父なんだよ」
 そう言って、友人である十夜が言った。一番知られたくなかったことを知られてしまった衝撃が身体全体を襲った。十夜の言葉は聖月を混乱させるのには十分だった。一瞬何を言われたのか、わからなかった。聖月にとって衝撃の告白をした十夜は寂しそうな顔をして、涙を流している。
「…え?」
 パリン、と何かが壊れた音がした。部屋に亀裂が入ったみたいだった。
 頭にもう一度、衝撃が走る。自分に何が起こっているかわからなかった。頭の中が真っ白のまま、聖月を置いて話は進んでいく。心も何もかもが、なくなったみたいだった。よくわからない胸の痛みと、苦しさが、聖月のなかに残るだけだった。
 心臓の音が、どくどくと脈を打ち、痛いくらいに張り詰める。それが耳奥に聞こえ、聖月は自分がどこかいってしまったような感覚を味わう。
 まるで遠い未来の話をされているみたいだった。誰か違う人の話をしているようだった。
 十夜は重い罪を話すように、聖月と向き合っていた。
「お前が…ずっと高校の途中からどっかおかしいって思ってたんだ。だけど、今まで聖月がどうしておかしいのかわからなかった。酷く疲れているのがわかって、何かあるんじゃないかって思った」
 十夜の言葉は、一つ一つが重く感じられた。外は暗さを帯びており、部屋を包んでいた。小さな暗闇に包まれた二人の空間は、どこか空虚で、そこだけがどこかの悪夢だった。重い空気のなか、聖月は十夜の顔を見つめる。
 彼の綺麗な目が涙に濡れているのをみて、聖月はどれほどのことを自分はしてしまったのかをやっと実感した。
 十夜をもう一度泣かせてしまった聖月は、ただ彼の告白を聞くことしか許されてない。
「…でも、聖月の背中のケガを見て、俺は何かされてるんだって、やっとわかった。手首の痕も前にはあったし、俺は、聖月がやっと何か危ない目にあってるんだって気づいた。でも、調べても調べても、聖月の傷の痕を誰がつけたのかわからなかった」
 十夜は、小さく一呼吸おいて、話を続けた。
「だけど…ある日、親父の書斎の本を借りようと本棚を漁ってたら、DVDが出てきたんだ。それにはセイって書いてあっ」
「みたのかっ」
 聖月は思わず十夜の言葉を遮った。
 何度も感じた絶望が、聖月に襲い掛かる。十夜は何もそのことには触れずに話を続けた。
「DVDを問い詰めたら、アイツは白状した…。聖月は、ディメントで働いているって。あの親父はお前を犯してるって」
 十夜の言葉は、聖月を追い詰め、精神ごとナイフで研いでいるようだった。
 彼は涙を流し、声は震えていた。
 その十夜の様子だけでも、聖月の思考は麻痺した。まるで悪夢を見ているようだった。
「ちが……」
 聖月は首を振る。
 ――――そんなの、あっちゃダメなんだ。
 だけど、全てが繋がっている。橘は自分のことを、テレビにでるぐらいの有名な議員だといっていた。バラエティーにもでて、政治家としてはかなり人気らしいと橘は語っていた。十夜のお父さんも、有名な議員をやっていて、前に写真も見せてもらった。その写真は、今思えば橘そのものだった。
 だが、今の今まで思い出さなかった。それは無意識のうちに、自分の記憶に蓋をしていたからもしれない。
 こんなのありえないと、勝手に夢を見ていた。
「俺が怖いか?」
 十夜はそういって、小さく笑む。
 その表情はあまりにも、綺麗で、自分が見ていいものではないような気がした。
 十夜の涙が、きらりと光って聖月の脳内に瞬いた。
「…、」
 違う、と首を何度も振る。
 聖月は、もうだめだとその場で座り込んだ。涙が流れて止まらない。止めようとしても、その雫は収まらなかった。
「アイツが俺の親だって思ってどう思った? やっぱり気持ち悪いって思っただろ」
 十夜の言葉の意図が分からずに、顔をあげたまま聖月は呆けた。十夜は苦しそうな表情で、聖月を見た。聖月の表情は、無表情で涙を流した姿だった。涙でぬれた顔を十夜はくしゃりと曲げて、見たことがない表情をする。眉をひそめ、座り込んだ聖月と同じように彼も座った。
 聖月を逃がさない、と言いたげに十夜は背中に手を回す。
 その抱擁は、遠いことのように思える。
 全てが夢みたいで、聖月は涙を流す。身体に力は入らない。その聖月の死体のような身体を、十夜はきつく抱きしめた。まるで聖月に生きてくれ、と願っているように。
 聖月は十夜に身体を預け、目を瞑る。
 嘘の夢だったらどれだけよかっただろうに、と白く翳った頭の隅でぼんやりと浮かんだのはそんな自分の勝手な願いだった。
 

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