巻き込まれた薬師の日常

白髭

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幕間

幕間6 平和のための甘水

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 石鹸を作る試みは無事に終わり、作業場には自分ひとりが残った。リンネは席を外している。誰もいないこの環境なら、石鹸廃液の再利用を思う存分試せる。廃液には五から一〇%ほどのグリセロールが残っているらしい。知識の補完と試行方法の組み立ては、製薬スキルから得た。

 グリセロールの回収は、石鹸廃液を出発物質とし、[中和]、[濃縮]、[蒸留]の工程を経て[粗グリセロール]を得る流れだ。中でも[蒸留]は減圧下が条件。それも極低圧でなければならない。グリセロールの沸点に近い高温で処理を続けると、蒸発より先に分解が起きてしまう。今の環境では再現は難しい。減圧装置の開発を待つしかないだろう。

 減圧装置は、コカルス君の冷乾遺構と源流は同じもの。彼は学院に戻って教授の支援の下で試作を試みるだろう。スキル[ドラフトチャンバ]の改良でも可能かもしれないが、継続して作るとなれば自分の負担が大きすぎる。

 今回は無理のない範囲で、廃液の[中和]と[濃縮]の二工程に絞った。石鹸廃液はアルカリ性に傾いている。多めの[ソジウム液]を入れているためだ。これを中性に戻せば刺激が減り、塩も析出しやすくなる。中和の指標には果物ウーヴァの特性を利用する。皮汁を浸した紙は紫に染まり、酸とアルカリで色が変わる。

【*ウーヴァ指示紙。[色調変化:赤-紫-青]】

 酸なら赤、アルカリなら青。むこうの世界で使った紫キャベツやリトマス紙に近い。大雑把でも指標があるのはありがたい。

 中和に使う酸は酢から濃縮した[酢酸]だ。蒸留と水魔法を併用して醸造酢から集めた。身近で集めやすい酸だが、匂いがきついのが欠点。ドラフトチャンバが無い頃は川辺まで行って濃縮したものだ。

【*酢酸。錬金材料[濃度50%。不純物を含む]】

 濃縮は水とグリセロールの沸点差を利用する。水を延々と蒸発させればグリセロールが残る。夾雑物は中和で生じた塩と脂肪の残り。沈殿物として析出するはずだ。

 思考に沈んでいると、背後から声がした。
「レッド~。何をやっているのかしら?」

 ルプラだ! 皆がいないから油断していた。いつの間にか背後に立ち、石鹸廃液と酢酸を入れたドラフトチャンバを覗いていた。

「ル、ルプラか。驚かせないでよ! 実験前に話したグリセロールの抽出だよ」
「知っているわ。計画を聞いていたもの。皆は石鹸で満足していたけど、あなたの様子が何かおかしいと思ったのよ」

「石鹸廃液からの回収だからね。地味な作業だし、一人でやろうと思って」
「たまには好きにやらせるのもいいかしら? ねぇ、ローセア?」

 姿隠しをしていたのか、ローセアが現れた。
「やっぱりやってた! ほら、私の勝ち!」
「ちぃ、今日は満足してやらないと思ったのに……ワシの負けだ!」

「あそこまでやったら最後まで作るに決まっているでしょう。パラケル、弟子を分かっていないわね!」
「レッド。あなたもパラケル師と同じだわ」

 姿隠しを全員にかけていたのか。次々と現れる仲間たち。
「外野は気にせず、どうぞ好きに作業をして頂戴」

 背後が気になるが、作業を続ける。言うがままに自分の世界に没頭しよう。

 まずは[中和]。攪拌しながら酢酸を少しずつ加え、指示紙で色の変化を確認する。青から紫に変わるだけではまだアルカリ側だ。少し多めに加え、紫が赤にも青にも振れないことを確かめる。これで大まかな中和は完了となる。

 次は[濃縮]。加熱魔導具を設置し、経過魔法を用いる。百度近い加熱で水を蒸発させる。ドラフトチャンバと経過魔法の併用は便利だ。水が蒸発していく様子を早送りのように見られる。やがて下部に塩が析出し、蒸発が鈍くなったところで終了とした。氷の複合魔法で十五度付近まで下げ、塩の析出を促す。粘りの出た上澄みを静かに抜き取る。黄色がかった粘性の液体が得られた。

【*粗グリセロール。錬金材料[不純物を含む]】

 よし、計画通り。再び温度を上げ、魔術で精製を進める。液体は熱を与えた方が動かしやすい。ここまでの純度なら水魔法での操作が効く。エシプス精製の経験を基に不純物を抜いていく。

【*グリセロール。一級品。錬金材料[純度90%。不純物小]】

 透明な溶液に変わり、粗が取れた。純度九〇%、一回の処理で百ミリリットル。指につけて匂いを確かめる。酢の匂いは無い。不純物はほとんど水、塩は微量と予想する。

「ほぉ。本当に作ってしまったな。これがグリセロールか。少し粘る液体だな。これをローションにすると」
「純度に不安はありますが、今の工程ではこれが精一杯です。錬金での実験を重ねない限り、この品質で問題ないと思います」

 パラケル爺さんは以前、ローションの話をしたのを覚えていたのだろう。一級品なら十分だ。

 こうしてグリセロールが完成し、本日の実験は本当に終了した。今度こそ作業室を出て、リンネと共に自宅へ戻る。夕食後、一人になり、石鹸の用途の先を考察する。


 この界は魔法が発達しているが、錬金と称する化学は遅れている。人々は髪や体を清潔に保つため、水魔法で汚れを落としている。軽い水魔法は生活魔法となり、誰でも使えるからだ。石鹸は強い服の汚れにしか使われず、人体に使うと肌荒れを起こす。ほとんどの仕事は魔法があるから困らない。

 確かな洗浄力を生み出す石鹸は、今後必ず必要になるだろう。普段は落とせない汚れを落とし、肌にも使え、さらに除菌までこなす。衛生的に暮らすためには必須だと自分は考える。特に感染症への対策としては、これ以上ない武器になるだろう。

 次の着想に目を向ける。体を石鹸で清潔にできるようになれば、次は髪を綺麗に保ちたいと思うのが自然な流れ。今回作成したソジウム石鹸は、洗浄力は強く溶液がアルカリに傾く性質がある。つまり陰イオン型の界面活性剤に分類される。従来の石鹸も同じ分類となるだろう。

 一方で、この系統の石鹸を髪に使うのは適さない。髪の表面のキューティクルが開き、きしみが生じてしまう。必ずアルカリを中和するものが必要になる。それを[リンス]と呼んでいた。

 本来なら逆性石鹸と呼ばれる酸性の陽イオン型を用意すればよい。その作成には幾重もの化学反応が必要で、現状では材料も足りない。知識はあっても、再現は難しい。中間物を作るだけで魔力を膨大に消費してしまうだろう。

 ヒントは身近な果物にあった。天然の酸、クエン酸だ。これならアルカリを中和できる。残念ながら、今回の中和で使った酢酸は匂いが強すぎる。香粧品用途には到底向かない。酢の匂いを纏いたい者はいないだろう。今回の目標物である、グリセロールを合わせれば保湿剤――つまりコンディショナーとして働く。

 クエン酸を単離するには、遊離させる強い酸が必要だ。酢酸では力不足。解決策は祖父から提供を受けたアルマサイト鉱石にヒントがあった。この石からは強力な酸が作れる。皮膚をも侵す性質を持つだろう。当然リンスそのものには使えない。ここで、鑑定結果と製薬スキルの恩恵が生きる。数段の化学反応を経れば、目的の酸を遊離できるのだ。これを使えば天然由来の酸を取り出せるはず。準備はしておくに越したことはない。

【*アルマサイト。加熱すると刺激臭。錬金材料[刺激臭:亜硫酸ガス]】

 物質鑑定はやはり便利だ。ここまでのヒントが揃えば、作成は容易い。もっとも、試料の量は限られている。大量に作るのは難しいだろう。

 亜硫酸ガスから作られるのは[硫酸]。これを作れるようになれば、裾野は格段に広がる。この岩石の存在は大きい。強アルカリと強酸――化学の両刃を手にできるのだ。この先、錬金化学と称する学問の広がりが想像できる。

 自分の目的はあくまで平和的なもの。グリセロールの使用も香粧品の範囲に留めたい。争いを好まないし、起こしたくもない。間違っても兵器に転用されぬよう、用途を導いていく必要がある。

 残りの石鹸廃液も順次精製し、次の実験へと繋げよう。

――錬金化学の基点。[硫酸]。次なる挑戦は、すでに定まっている。
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