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第5話 板チョコ1枚分――アオイ
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カエデはわたしの彼氏だ。
クラスの女子たちはわたしなんかがカエデの彼女なわけがないとたかを括っている。それが間違いの元だ。
クラスの男子の中でも段違いに美しいカエデに、初めに目をつけたのは他でもないわたしだ。
カエデは信じてないようだけど、わたしとカエデが幼稚園のある時期一緒だったのは本当の話だ。カエデがわたしを忘れても、わたしはカエデを忘れなかった。
砂場の上にキレイな藤棚があった。5月になるとこの上なく優美な花の簾ができる。幾房も下がる藤の花をわたしは欲しがった。先生たちは熊蜂がいるからダメよ、と言った。藤の花には蜜蜂とは比べ物にならない大きさの熊蜂がたかるのだ。
わたしは声を上げて駄々をこねた。
「取ってあげようよ」
とその時、先生のエプロンを引いたのがカエデだった。先生たちは困った顔を見合わせると、幼稚園でたった一人の男性である園長先生を呼んできた。……わたしは本当ならこの人を好きになるべきだったんだ。カエデではなく、この人を。でもその時はまだ幼かったので、その考えには及ばなかった。
園長先生はカエデに「怖くないかい?」と聞いた後、そのまま肩車をして藤の花をカエデに取らせた。
カエデは園長先生の肩から飛び降りると、「はい」と何とも味気なく、ぶどう狩りのぶどうでも渡すかのようにわたしに藤の花をくれた。
「大好き……」
これがわたしの間違いの元だった。
クラスで一番細くて、色の白いカエデくん。まさか、再会したらクラスの女子みんなを敵に回すような競争率の高い男子に成長しているなんて。
カエデの彼女のふりをしていると思われているわたしは「嘘つき」のレッテルを貼られてクラスの女子たちに避けられている。口をきいたり、体育の時間に一緒に組んでくれたりするのはほんの数人だ。片手の指ほどもいない。
でもいいんだ。
カエデの彼女でいられるというのはそれだけの価値があるから!
「で、何膨れてんの?」
図書委員の仕事をカエデがしている間、暑苦しい美術室でマグカップとにらめっこしていた。冷房のない美術室には他の部員の姿がなかった。
わたしは額から、首筋から、とにかく垂れてくる汗が紙に落ちないよう、気をつかった。汗で鉛筆の線が万が一ボヤけたりしたら台無しだ。キンキンに冷えたポカリスエットのペットボトルを飲みながら、鉛筆を滑らせていく。輪郭を捉えて、軸はぶれないように、エッジを効かせて、光源の位置を誤らない。集中する。蝉の声がホワイトノイズになる。……。
「アオイ? 終わったけど」
「ダメ、まだ見てないよね?見ちゃダメだからね?」
焦って紙を片付ける。汗で滲ませないように。もう少し描き足したいからフィクサーはかけない。
「汗べったりー。やだ、これからカエデと歩くのに最悪」
「夏だからみんな一緒だろ」
「……好きな人の前ではいい匂いでいたいの。ちょっとトイレに行ってくるねっ」
デオドラント製品を握りしめてトイレにダッシュする。顔をざぶざぶ洗って、手も肘の内側まで丹念に洗う。基礎化粧と日焼け止めは欠かさない。うちの学校は真面目だって言われてるけど、「日焼け止めです」って言ってしまえば薄いファンデもOKだ。少し濃いピンクのグロスタイプのリップも塗る。ラズベリーみたい。
こういうの、好きかな?
いつもどう思ってるんだろう?
わたしだけが盛り上がってるのかな? ……その可能性は大いにある。
何しろ、わたしは彼のすべてを奪ってしまいたかった。人のものほどよく見えるように、みんながよく見えるものはやっぱり良い。
全部、自分のものにしちゃうために計画を練った。そう、カエデの男の部分に訴えかけるのだ。
よくある手だった。
中間テストの勉強をしに、うちまで来てもらった。わたしは白い綿のTシャツワンピに、下はレギンスなど履いていなかった。素足だった。少し肌寒かったので、近くにあったUVカットのパーカーを羽織った。
わたしの部屋のローテーブルで勉強をしたんだけど、わからないことがある度に少しずつ、対面から隣の方へ席をずらしていった。
Tシャツワンピは今年流行りのゆったりサイズで、どこからでも手が入りそうだった。襟からでも、袖からでも、裾からでも。席をずらして上がってきた体温を感じて、パーカーはお払い箱になった。
無言の圧力に屈せず無機化学についてカエデが説いているとき、わたしは次の手に出た。
足を、ずいぶん大胆にワンピの裾から出してみた。片足なんか立膝だ。
じーっとカエデを見る。なんだよ、と返される。なんだよはないんじゃん、とふてくされる。
でも一分一秒たりとも惜しい。他の女に取られる前になんとしても手に入れなくては。
平行移動のようなキスだった。
顔を傾けないと鼻と鼻がぶつかる、というのはバーグマンたちに教わった。古い映画、『誰が為に鐘は鳴る』だ。変に顔を傾けて、彼の顔を目指した。
と、カエデの手がわたしの顔を包むように捕らえて、「したいの?」と一言いった。なんとも言えないゾクゾク感が足の先から駆け上がり、もうわたしは普通じゃなかった。
カエデはまず、顔を傾けて正しいキスを一つした。それから、顔を傾《かし》げて、何か違和感があったのかわたしの顔をマジマジと見た。これで終わりだったらどうしよう?
「アオイ。お前が女なのはわかってる。でもキスしたいならもっとその勉強もしておけよ。唇がくっつけばキスしたわけじゃないんだよ」
「え、違うの?」
情けない気持ちになった。自分としてはこんなにすごい策略を用いたのに、まだまだだったとは!
「口、少し開いて。歯を噛み締めるなよ」
「これくらい?」
「歯医者じゃないからもう少し狭くていいよ。アホ面になっちゃうだろ。そうだな、板チョコ1枚分の厚さくらい」
これくらい、という感じを一生懸命覚える。ここで上手く行けば、ワンチャンあるよね?
初めは、やっぱり触れるキス。それが啄むように変わって、唇全部を食べられちゃいそうな錯覚に陥る。
舌が……とてもやわらかくて魅力的な彼の舌がわたしの開いた口に入ってくる。まず、唇全体をべろりと舐めた。なぜかそれがものすごく官能的で本能が吹っ飛ぶ。必死になって口の中の彼の舌を探そうとする……。
見つけた、と思ったら絡まれて捕まっちゃった。2匹の魚と魚が乱れ泳ぐように口の中で必死にカエデを捕まえる。
もう、放してもらえそうにない!
「お前、オレのことなめてんの?」
ワンピースは裾も襟も脇の下も、どこからでも手が入る仕組みだった。そうしてわたしはレギンス1枚履いていなかった。
急激な展開だったけど、欲しいものは確かに手に入った。
クラスの女子たちはわたしなんかがカエデの彼女なわけがないとたかを括っている。それが間違いの元だ。
クラスの男子の中でも段違いに美しいカエデに、初めに目をつけたのは他でもないわたしだ。
カエデは信じてないようだけど、わたしとカエデが幼稚園のある時期一緒だったのは本当の話だ。カエデがわたしを忘れても、わたしはカエデを忘れなかった。
砂場の上にキレイな藤棚があった。5月になるとこの上なく優美な花の簾ができる。幾房も下がる藤の花をわたしは欲しがった。先生たちは熊蜂がいるからダメよ、と言った。藤の花には蜜蜂とは比べ物にならない大きさの熊蜂がたかるのだ。
わたしは声を上げて駄々をこねた。
「取ってあげようよ」
とその時、先生のエプロンを引いたのがカエデだった。先生たちは困った顔を見合わせると、幼稚園でたった一人の男性である園長先生を呼んできた。……わたしは本当ならこの人を好きになるべきだったんだ。カエデではなく、この人を。でもその時はまだ幼かったので、その考えには及ばなかった。
園長先生はカエデに「怖くないかい?」と聞いた後、そのまま肩車をして藤の花をカエデに取らせた。
カエデは園長先生の肩から飛び降りると、「はい」と何とも味気なく、ぶどう狩りのぶどうでも渡すかのようにわたしに藤の花をくれた。
「大好き……」
これがわたしの間違いの元だった。
クラスで一番細くて、色の白いカエデくん。まさか、再会したらクラスの女子みんなを敵に回すような競争率の高い男子に成長しているなんて。
カエデの彼女のふりをしていると思われているわたしは「嘘つき」のレッテルを貼られてクラスの女子たちに避けられている。口をきいたり、体育の時間に一緒に組んでくれたりするのはほんの数人だ。片手の指ほどもいない。
でもいいんだ。
カエデの彼女でいられるというのはそれだけの価値があるから!
「で、何膨れてんの?」
図書委員の仕事をカエデがしている間、暑苦しい美術室でマグカップとにらめっこしていた。冷房のない美術室には他の部員の姿がなかった。
わたしは額から、首筋から、とにかく垂れてくる汗が紙に落ちないよう、気をつかった。汗で鉛筆の線が万が一ボヤけたりしたら台無しだ。キンキンに冷えたポカリスエットのペットボトルを飲みながら、鉛筆を滑らせていく。輪郭を捉えて、軸はぶれないように、エッジを効かせて、光源の位置を誤らない。集中する。蝉の声がホワイトノイズになる。……。
「アオイ? 終わったけど」
「ダメ、まだ見てないよね?見ちゃダメだからね?」
焦って紙を片付ける。汗で滲ませないように。もう少し描き足したいからフィクサーはかけない。
「汗べったりー。やだ、これからカエデと歩くのに最悪」
「夏だからみんな一緒だろ」
「……好きな人の前ではいい匂いでいたいの。ちょっとトイレに行ってくるねっ」
デオドラント製品を握りしめてトイレにダッシュする。顔をざぶざぶ洗って、手も肘の内側まで丹念に洗う。基礎化粧と日焼け止めは欠かさない。うちの学校は真面目だって言われてるけど、「日焼け止めです」って言ってしまえば薄いファンデもOKだ。少し濃いピンクのグロスタイプのリップも塗る。ラズベリーみたい。
こういうの、好きかな?
いつもどう思ってるんだろう?
わたしだけが盛り上がってるのかな? ……その可能性は大いにある。
何しろ、わたしは彼のすべてを奪ってしまいたかった。人のものほどよく見えるように、みんながよく見えるものはやっぱり良い。
全部、自分のものにしちゃうために計画を練った。そう、カエデの男の部分に訴えかけるのだ。
よくある手だった。
中間テストの勉強をしに、うちまで来てもらった。わたしは白い綿のTシャツワンピに、下はレギンスなど履いていなかった。素足だった。少し肌寒かったので、近くにあったUVカットのパーカーを羽織った。
わたしの部屋のローテーブルで勉強をしたんだけど、わからないことがある度に少しずつ、対面から隣の方へ席をずらしていった。
Tシャツワンピは今年流行りのゆったりサイズで、どこからでも手が入りそうだった。襟からでも、袖からでも、裾からでも。席をずらして上がってきた体温を感じて、パーカーはお払い箱になった。
無言の圧力に屈せず無機化学についてカエデが説いているとき、わたしは次の手に出た。
足を、ずいぶん大胆にワンピの裾から出してみた。片足なんか立膝だ。
じーっとカエデを見る。なんだよ、と返される。なんだよはないんじゃん、とふてくされる。
でも一分一秒たりとも惜しい。他の女に取られる前になんとしても手に入れなくては。
平行移動のようなキスだった。
顔を傾けないと鼻と鼻がぶつかる、というのはバーグマンたちに教わった。古い映画、『誰が為に鐘は鳴る』だ。変に顔を傾けて、彼の顔を目指した。
と、カエデの手がわたしの顔を包むように捕らえて、「したいの?」と一言いった。なんとも言えないゾクゾク感が足の先から駆け上がり、もうわたしは普通じゃなかった。
カエデはまず、顔を傾けて正しいキスを一つした。それから、顔を傾《かし》げて、何か違和感があったのかわたしの顔をマジマジと見た。これで終わりだったらどうしよう?
「アオイ。お前が女なのはわかってる。でもキスしたいならもっとその勉強もしておけよ。唇がくっつけばキスしたわけじゃないんだよ」
「え、違うの?」
情けない気持ちになった。自分としてはこんなにすごい策略を用いたのに、まだまだだったとは!
「口、少し開いて。歯を噛み締めるなよ」
「これくらい?」
「歯医者じゃないからもう少し狭くていいよ。アホ面になっちゃうだろ。そうだな、板チョコ1枚分の厚さくらい」
これくらい、という感じを一生懸命覚える。ここで上手く行けば、ワンチャンあるよね?
初めは、やっぱり触れるキス。それが啄むように変わって、唇全部を食べられちゃいそうな錯覚に陥る。
舌が……とてもやわらかくて魅力的な彼の舌がわたしの開いた口に入ってくる。まず、唇全体をべろりと舐めた。なぜかそれがものすごく官能的で本能が吹っ飛ぶ。必死になって口の中の彼の舌を探そうとする……。
見つけた、と思ったら絡まれて捕まっちゃった。2匹の魚と魚が乱れ泳ぐように口の中で必死にカエデを捕まえる。
もう、放してもらえそうにない!
「お前、オレのことなめてんの?」
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急激な展開だったけど、欲しいものは確かに手に入った。
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