天使の報い

忍野木しか

文字の大きさ
28 / 56
第二章

狂気の天使

しおりを挟む

 白髪の天使。新実和子は駐輪場のイチョウの木の下を進む三つの存在を見つめた。
 汗と震えに顔を歪める二つの存在と、血に塗れた一つの存在。頭に傷を負った男子生徒を運ぶ幼い天使たち。
 ショートボブの天使の苦痛の表情。それは、その小動物ほどに細い体力に起因するものであった。だが、赤い服の天使の苦悶は別の理由である。赤い服の天使は人に落ちる一歩手前にいた。
 意識と目的の違いである。ショートボブの天使とは違い、赤い服の天使は自らの行いに疑念を抱いていた。それが、赤い服の天使を人に落とす要因としていたのだ。
 怠け者の亀と競い合うようなペース。男子生徒の足を抱いた赤い服の天使に力はない。ショートボブの天使の体力も限界である。
 新実和子は白銅の空を見上げた。思案。
 白髪の天使の関心は一人だった。太った中年の女性教諭。山本恵美、否、宮野恵美こそが長年に亘る白髪の天使の対象であった。報いの炎の中心にいるのは宮野恵美なのである。
 報いに巻き込まれる形となった多数の人々。不幸であり幸福でもある人々。宮野恵美への報いが完遂すれば白髪の天使の視線から逃れられるであろう罪を背負った人々。
 だが、新実和子は思案した。動かない曇り空。乾いた風に舞う枯れ葉。
 特別な罰を必要とする報いの対象がもう一人増えたのである。その人物への関心が新実和子を思案させた。
 いよいよと動きの止まる三つの存在。怠け者の亀にも劣るペース。
 赤い服の天使は男子生徒の足にしがみついたまま目を瞑っていた。その顔には人としての生気が宿り始めている。
 新実和子は腕を伸ばした。赤い服の天使の小さな体を抱き上げると、その頬を叩く。ううっと呻く赤い服の天使。
 力なくこちらを見つめるショートボブの天使に赤い服の天使を任せた新実和子は、血塗れの男子生徒の体を軽々と持ち上げた。流れ出た血の割に傷はそれほど深くないようである。新実和子は、まだ意識のない男子生徒を花壇の向こうの安全なスペースに運んだ。
 目を瞑る赤い服の天使の頬をペチペチと叩くショートボブの天使。二つの存在に男子生徒を見ているように伝えた新実和子は、まだ死の報いを与えるべきではない人々を導く為に、ふっと校舎の中に姿を消した。


 炎上。


 日野龍弥は噴き上がる熱い血の躍動に絶叫した。
 伸縮と膨張を繰り返す筋繊維。赤い龍が破壊する静寂。
 一瞬の出来事であった。緑色のライターに灯った小さな影は、咆哮を上げる炎の龍となって校舎裏を呑み込んだ。忌まわしき肉塊の眠るであろう用具入れも、葉の枯れた木々も、冷たい大地も、僅か数秒で猛火の内である。
 神火だ……。
 窓ガラスを力強く叩いた龍弥は膨張する下半身の熱に恍惚の涎を垂らした。
 赤い世界で踊る影。灼熱の炎に呑まれた前田大介は必死に全身を叩いて暴れ回る。シトリンの黄金色に輝く肉体。見え隠れする漆黒の宇宙。最後の躍動に興奮した男は息を吐き、経験出来得る最大の苦痛に狂った男は息を吸った。瞬間を知覚した二つの存在は、ほんの数秒に永遠の時間を感じていた。
 窓の向こうは舞台であった。限りなく圧縮された永遠の世界で、音の無い演劇の赤に龍弥は涙する。
 ありがとう、大介。
 お前は立派な贄だ。
 龍弥は初めて他人に感謝した。全ての罪を被る事になるだろう男に賛美の言葉を送る男。殺しの罪は俺が被るという幻聴を聞いた龍弥は喜びの絶叫を上げた。
 だが、絶叫はすぐに止まる。永遠の世界が動き出すと、激しい爆発音が校舎を縦に揺らした。用具入れの裏側に面した技術室の窓から噴き出す炎。その隣の空き教室の窓が爆炎に吹き飛ばされると、二階の窓に黒煙が映った。
 惚けたように燃え盛る校舎を見つめる龍弥。黒煙は三階、四階へと伸びていき、それに続く様に立ち昇る赤い炎が窓ガラスを叩き割っていった。
 火をつけたのがガソリンだったとはいえ、校舎裏から鉄筋コンクリートの校舎内部に炎が燃え広がる事などあるのだろうか……?
 未だ音の無い世界で龍弥は首を捻る。さらに別の爆発音が冬の空に轟くと、龍弥は全身の筋肉を硬直させた。
 ま、まさか、他にもガソリンが……?
 無音を破る轟音が鼓膜を貫く。「うわっ」と後ろに倒れる龍弥。体を引き摺るようにして空き教室の床を這った龍弥は、続く爆発音に飛び上がった。
 に、に、逃げねーと! 早く逃げねーと!
 立ち上がって転けてまた立ち上がった龍弥は必死に長い手足を振った。空き教室を出ると、化学物質が混じったような微かな煙の臭いが龍弥の肺を侵食する。旧校舎に人けはない。だが、爆発音に混じる悲鳴と絶叫が古い廊下の空気を震わせた。
 転げ落ちるように一階に飛び降りた龍弥は、物置として使われている階段前の教室に飛び込んだ。棚に並ぶ賞状とトロフィーの数々。ペンキの剥がれた窓辺に飛び上がった龍弥は、窓を開けると外に飛び出た。


「逃げろっ! 早く行けっ!」
「いやああああああああああ」
「誰かっ! 誰かっ!」
 阿鼻叫喚。校庭を逃げ惑う生徒たちの黒く煤けた頬と体。呆然と校舎を見上げる教員たち。数人の生徒と教員が混乱の渦にある人々を先導するように声を荒げている。そんな、赤い龍よりも日常に近い光景に龍弥はより鮮明で強烈な現実感を覚えた。やっと自分のした事の大きさに気がついたのである。強い恐怖と焦燥感。震え出した全身を包む冬の冷気。
 だ、大丈夫だ……。火をつけたのはアイツだから、俺には何の責任もない……。
 震える足に力を込めた龍弥はゆっくりと歩き始めた。正門には人集りが出来ている。不安げに口を押さえる人々。壁のようだと龍弥は思った。
 誰も知らないんだ……。俺には何の罪もない……。
 口を横に広げる龍弥。だが喉を震わす笑いは湧いて来ない。
 肩を寄せ合って泣く二人の女生徒。ポカンと口を開いて燃え盛る校舎を見上げる男子生徒。その間を抜けた龍弥は突如眼前に現れた白い影に慌てて立ち止まった。ドンッと背中にぶつかる誰か。ヨロけて数歩進んだ龍弥の視線の先に転がる木製のバット。
 な、なんで……?
 音が消える。心臓を跳ね上がらせた龍弥は倒れ込むようにして木製のバットに手を伸ばした。煤けた匂い。少し湿ったグリップ。
「おい、テメェ!」
 呆然とバットを見つめていた龍弥は誰かの怒鳴り声を遠くに聞いた。それが自分に向けられたものだと気が付いた直後、頭を揺らす強い衝撃を感じた龍弥は目を見開いた。
「ケ、ケンヤ?」
「テメェ、何しやがった! ふざけてんじゃねーぞ、コラッ!」
 パープルピンクの毛先。島原健也はピアスの光る唇を怒りに歪めて龍弥の瞳の奥を睨んだ。龍弥は殴られた頬を押さえて呻く。
「まっ……は? な、何の話だよ?」
「とぼけてんじゃねーぞ! 学校に火ぃつけさせたのはテメェだろ!」
「ま、待ってって、俺じゃねーよ、俺のワケねーよ! 大介の奴が勝手にやった事だろうが!」
「あのビビりがこんな事やるわけねーだろ! あんなちっぽけなライターでここまで大事になるわけねーだろ! 何やったんだよテメェ!」
 健也は完全に龍弥を疑っていた。龍弥は自分ほどに背の高い男の怒気に押されて言葉を失う。
「おい、黙ってんじゃねー! 何人死んだか分かんねーぞ! 俺らのダチも死んじまったかもしれねー! どうするつもりだテメェ!」
「……うるせぇ」
「あ?」
「う、うるせぇって! お、お、お、俺じゃねーつってんだ!」
「なん……」
「俺じゃねぇって! 俺じゃねぇんだよ! こ、こ、こ、こんな、こんな大事に、俺がするわけねーだろうが! 何だよ、これっ、どーなってんだよ、どーなってんのか俺も聞きてぇんよ。なぁ、ケンヤ、どうなってんだよ、何でこんな事になってんだよ、答えろよ!」
 龍弥は取り乱した。焦点の合わない瞳は逃げ惑うかの如く縦横に揺れ動き、ワナワナと震える唇には泡が浮かんでいる。
 いつも冷静で冷淡な龍弥の人が変わったかのような取り乱し様に健也は戸惑った。
 まさかコイツ、本当に何も知らねーのか?
 疑念が健也の内に湧き上がる。
 わっと体を左右に暴れさせた龍弥は手に持った木製のバットを弱々しく振った。駐輪場を目指して走り出す龍弥。健也は唖然としてその情けない後ろ姿を見送った。
 

 龍弥は走った。とにかく逃げなければ、と人の少ない駐輪場に向かって手足を動かす。
 黒い煙と白い灰。火元に近い駐輪場は熱気と臭気に濁っている。
 雪のような灰の中を走る男。男の目に映る三人の男女と二つの何か。
 あっと目を見開いた龍弥は立ち止まった。
 ゆ、ゆ、夢だ……。
 龍弥は白い灰の舞う花壇の先を呆然と見つめた。握られた木製のバットの重み。赤と白と黒の世界。
 焼失した筈の遺体、否、生きた少年の顔がそこにあったのだ。
 石田大樹の肩を抱く吉沢由里。太田翔吾の声が白い灰を震わせている。
「な、何でだよ……」
 龍弥は一歩前に足を踏み出した。死体を隠滅する為に行われた惨劇。石田大樹が生きているという事実は龍弥の終わりを意味する。
 フラフラと三人に近付く龍弥。炎の轟音と人々の叫びの中にある三人は龍弥の存在に気が付かない。
 三人の側に立った龍弥はバットを振り上げた。足元に感じた微かな衝撃に気が付かない龍弥。
 バットが振り下ろされる刹那、龍弥の存在に気が付いた吉沢由里が動いた。大樹の体を守るように覆い被さる由里。はっと体を硬直させる翔吾。龍弥の瞳に感情はない。
 煙と灰を切り裂いたバットは、血塗れの少年を守る女生徒のダークブロンドに振り下ろされた。
 
 
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

【魔女ローゼマリー伝説】~5歳で存在を忘れられた元王女の私だけど、自称美少女天才魔女として世界を救うために冒険したいと思います!~

ハムえっぐ
ファンタジー
かつて魔族が降臨し、7人の英雄によって平和がもたらされた大陸。その一国、ベルガー王国で物語は始まる。 王国の第一王女ローゼマリーは、5歳の誕生日の夜、幸せな時間のさなかに王宮を襲撃され、目の前で両親である国王夫妻を「漆黒の剣を持つ謎の黒髪の女」に殺害される。母が最後の力で放った転移魔法と「魔女ディルを頼れ」という遺言によりローゼマリーは辛くも死地を脱した。 15歳になったローゼは師ディルと別れ、両親の仇である黒髪の女を探し出すため、そして悪政により荒廃しつつある祖国の現状を確かめるため旅立つ。 国境の街ビオレールで冒険者として活動を始めたローゼは、運命的な出会いを果たす。因縁の仇と同じ黒髪と漆黒の剣を持つ少年傭兵リョウ。自由奔放で可愛いが、何か秘密を抱えていそうなエルフの美少女ベレニス。クセの強い仲間たちと共にローゼの新たな人生が動き出す。 これは王女の身分を失った最強天才魔女ローゼが、復讐の誓いを胸に仲間たちとの絆を育みながら、王国の闇や自らの運命に立ち向かう物語。友情、復讐、恋愛、魔法、剣戟、謀略が織りなす、ダークファンタジー英雄譚が、今、幕を開ける。  

7番目のシャルル、狂った王国にうまれて【少年期編完結】

しんの(C.Clarté)
歴史・時代
15世紀、狂王と淫妃の間に生まれた10番目の子が王位を継ぐとは誰も予想しなかった。兄王子の連続死で、不遇な王子は14歳で王太子となり、没落する王国を背負って死と血にまみれた運命をたどる。「恩人ジャンヌ・ダルクを見捨てた暗愚」と貶される一方で、「建国以来、戦乱の絶えなかった王国にはじめて平和と正義と秩序をもたらした名君」と評価されるフランス王シャルル七世の少年時代の物語。 歴史に残された記述と、筆者が受け継いだ記憶をもとに脚色したフィクションです。 【カクヨムコン7中間選考通過】【アルファポリス第7回歴史・時代小説大賞、読者投票4位】【講談社レジェンド賞最終選考作】 ※表紙絵は離雨RIU(@re_hirame)様からいただいたファンアートを使わせていただいてます。 ※重複投稿しています。 カクヨム:https://kakuyomu.jp/works/16816927859447599614 小説家になろう:https://ncode.syosetu.com/n9199ey/

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

老聖女の政略結婚

那珂田かな
ファンタジー
エルダリス前国王の長女として生まれ、半世紀ものあいだ「聖女」として太陽神ソレイユに仕えてきたセラ。 六十歳となり、ついに若き姪へと聖女の座を譲り、静かな余生を送るはずだった。 しかし式典後、甥である皇太子から持ち込まれたのは――二十歳の隣国王との政略結婚の話。 相手は内乱終結直後のカルディア王、エドモンド。王家の威信回復と政権安定のため、彼には強力な後ろ盾が必要だという。 子も産めない年齢の自分がなぜ王妃に? 迷いと不安、そして少しの笑いを胸に、セラは決断する。 穏やかな余生か、嵐の老後か―― 四十歳差の政略婚から始まる、波乱の日々が幕を開ける。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

クラス転移したけど、皆さん勘違いしてません?

青いウーパーと山椒魚
ファンタジー
加藤あいは高校2年生。 最近ネット小説にハマりまくっているごく普通の高校生である。 普通に過ごしていたら異世界転移に巻き込まれた? しかも弱いからと森に捨てられた。 いやちょっとまてよ? 皆さん勘違いしてません? これはあいの不思議な日常を書いた物語である。 本編完結しました! 相変わらず話ごちゃごちゃしていると思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです! 1話は1000字くらいなのでササッと読めるはず…

龍王の番〜双子の運命の分かれ道・人生が狂った者たちの結末〜

クラゲ散歩
ファンタジー
ある小さな村に、双子の女の子が生まれた。 生まれて間もない時に、いきなり家に誰かが入ってきた。高貴なオーラを身にまとった、龍国の王ザナが側近二人を連れ現れた。 母親の横で、お湯に入りスヤスヤと眠っている子に「この娘は、私の○○の番だ。名をアリサと名付けよ。 そして18歳になったら、私の妻として迎えよう。それまでは、不自由のないようにこちらで準備をする。」と言い残し去って行った。 それから〜18年後 約束通り。贈られてきた豪華な花嫁衣装に身を包み。 アリサと両親は、龍の背中に乗りこみ。 いざ〜龍国へ出発した。 あれれ?アリサと両親だけだと数が合わないよね?? 確か双子だったよね? もう一人の女の子は〜どうしたのよ〜! 物語に登場する人物達の視点です。

診察室の午後<菜の花の丘編>その1

スピカナ
恋愛
神的イケメン医師・北原春樹と、病弱で天才的なアーティストである妻・莉子。 そして二人を愛してしまったイケメン御曹司・浅田夏輝。 「菜の花クリニック」と「サテライトセンター」を舞台に、三人の愛と日常が描かれます。 時に泣けて、時に笑える――溺愛とBL要素を含む、ほのぼの愛の物語。 多くのスタッフの人生がここで楽しく花開いていきます。 この小説は「医師の兄が溺愛する病弱な義妹を毎日診察する甘~い愛の物語」の1000話以降の続編です。 ※医学描写と他もすべて架空です。

処理中です...