ヘタレ婚約者と悪役令嬢

茗裡

文字の大きさ
1 / 4

ヘタレな婚約者

しおりを挟む
 エリーズ・ラブラシュリとステファーヌ・ギャロワは、物心ついた頃から常に一緒にいた。
 双方ともに名門公爵家の生まれだが、そんな立場は二人にとって何の意味も持たなかった。互いの両親が、学生時代から苦楽を共にした親友同士だったからだ。

 面白いことに、二つの家には同じ年に子供が生まれた。
 ラブラシュリ家には女の子、ギャロワ家には男の子。
 その偶然に浮かれた両親は、冗談半分で子供たちの婚約を決めてしまった。

 ――それが、エリーズとステファーヌの始まりだった。

「エリー、待ってよぉ……」
「着いてこないでって言ったでしょ!」
「で、でも……」
「家で待ってなさいよ! はっきり言って、足手まといよ!」

 そう言い捨てるエリーズの背を、ステファーヌは小さくなりながら追いかけていた。

 二人が七歳の頃のことだ。
 エリーズは病に伏せった母のため、近くの山へあるものを探しに来ていた。

 ラブラシュリ家は夫人の病が発覚するとすぐ、王都を離れ、自領へと拠点を移した。
 緑豊かな土地で療養すれば快方に向かう――そう信じての決断だった。

 だが、現実は残酷だった。
 ラブラシュリ夫人の体調は良くなるどころか、日に日に悪化していく。

 月に一度、遠く王都からギャロワ家が見舞いに訪れてくれていたが、その度に母の顔色は青白くなっていった。

 そんな中、エリーズは物語で読んだ伝説の万能薬“エリクサー”に縋るようになった。
 ありもしない御伽噺だと分かっていても、山へ足を運ばずにはいられなかった。

「ダビィドが君を心配していたよ。姉の君が、毎日傷だらけで帰ってくるって……」

 後ろから聞こえたステファーヌの声に、エリーズは振り返りもせず吐き捨てた。

「毎日お母様のそばで泣いてるだけの根性なしに、心配なんてされたくないわ!」
「違うよ。彼はまだ小さいけど賢い。エリーも、少しでも長く母上の傍にいたほうが……」
「うるさいっ!」

 エリーズは荒々しくステファーヌの言葉を遮った。

「それでダビィドと一緒に、何も出来ずに泣いてろって言うの!?」

 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。

 本当は分かっている。
 伝説の万能薬など、存在しない可能性のほうが高いということも。
 山に入ったところで、奇跡など起こらないことも。

 それでも――。

 日に日に弱っていく母を、ただ傍で見ているだけの自分が許せなかった。
 何も出来ない無力さに、腹が立って、悔しくて、悲しくて。

 だからエリーズは、前へ進むしかなかった。
 どんなに危険でも、どんなに無謀でも。

 その背を、ステファーヌは黙って見つめていた。
 小さな拳を握りしめながら、彼女を止める言葉を、どうしても見つけられずに。

 ――ガサガサ。

 不意に、草むらが大きく揺れた。

「……え?」

 次の瞬間、茂みを割って姿を現したのは、一匹の魔獣だった。

「ガルルッ……」

 狼によく似た姿。だが、その体躯は明らかに大きく、赤く光る瞳には理性の色がない。
 むき出しの牙から滴る唾液が、地面にぽたりと落ちる。

「ひ、ひぃっ……!」

 短い悲鳴と同時に、ステファーヌは反射的にエリーズの背後へ隠れた。
 震える手で彼女の服を掴む。

 一方、エリーズは足を止めたまま、魔獣と真正面から向き合っていた。
 膝は小刻みに震えているが、逃げようとはしない。

「……出たわね」

 声はかすかに震えていたが、エリーズは強気に言い放つ。

「今日こそ、そこを通してもらうわよ」
「エリーズ、無理だよ! 危ないよ! 早く帰ろう!」

 ステファーヌは泣きそうな顔で、彼女の腕を掴んだ。
 今にも飛びかかってきそうな魔獣から、少しでも遠ざけようと必死に引き留める。

「領民たちの話を聞いたの。この先の廃墟に“お宝”があるんですって」
「そんな噂、信じるわけ――」
「それが、エリクサーかもしれないのよ!」

 エリーズは振り返り、必死に言葉を重ねる。

「魔獣が守ってるなんて、ますます本物っぽいじゃない!」
「何言ってるんだよ!」

 ステファーヌの声は裏返っていた。

「そんなわけないだろ! こんなのと戦ったら……殺されちゃうよ!」

 魔獣が一歩、前に出た。
 地面が、ずしりと低く揺れる。

 その瞬間、エリーズの顔から強がりが消えた。
 唇を噛みしめ、息を呑む。

 ――それでも。

 彼女は、一歩も退かなかった。

「……どきなさい、ステファーヌ」

 震える声で、しかし確かな意志を込めて言う。

「私が行かなきゃ……誰がお母様を助けるのよ」

 その言葉に、ステファーヌは何も返せなかった。
 ただ、彼女の背中を見つめることしか出来ず――

 次の瞬間。

 魔獣が、地を蹴った。

「ひっ……く、ぐすっ……」

 子供の泣き声が、日が傾き始めた山の中に虚しくこだました。

 エリーズは地面に横たわり、全身を傷だらけにして動けずにいた。
 その傍らで、ステファーヌが震える手を必死に動かし、拙い治療魔法をかけている。

 魔獣は圧倒的な力を見せつけながらも、致命傷を与えることはなかった。
 まるで――殺さないと分かっていて、痛めつけているだけのような攻撃。

 それは、幼い二人の目にも明らかだった。

「エリー……ご、ごめん……。ぼく……何も、出来なくて……」

 涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、ステファーヌは何度も謝った。

 魔獣がエリーズに興味を失い、森の奥へと消えたあと。
 彼はようやく草むらから出てきて、倒れたエリーズのもとへ駆け寄ったのだった。

 謝罪の言葉に、エリーズは何も返さなかった。
 ただ、ずっと顔を背けている。

 それでもステファーヌには分かっていた。
 彼女が泣くのを必死に堪えていることが。

 強く握りしめられた小さな拳。
 小刻みに震える、華奢な肩。

 やがて、日が落ちる頃。
 二人はようやく屋敷へと戻った。

 心配した大人たちは既に捜索に出ており、帰還した二人を待っていたのは、安堵と怒りの入り混じった叱責だった。

「ステファーヌ! どこへ行っていたの! どれほど心配したと思っているの!」

 声を荒らげたのは、ギャロワ夫人だった。
 その表情には、怒りと同時に、確かな安堵が浮かんでいる。

「どれだけ多くの人に迷惑をかけたと思っているの!」

 叱責に、ステファーヌはびくりと肩を震わせ、俯いた。

「ご、ごめんなさ――」
「わたくしのせいです」

 謝罪を遮るように、エリーズが一歩前へ出た。

「わたくしが、嫌がるステファーヌを無理矢理、山へ連れて行ったのです」

 驚いて見上げるステファーヌ。
 何度も止められても、ついてきたのは自分だった。

 だが、エリーズは彼を庇うように、視線を逸らさず立っていた。

「マリーは……あなたのお母様は、わたくしの親友です。その娘に、こんなことを言うのは心苦しいですが――」

 ギャロワ夫人は、静かに、しかし冷たく言った。

「エリーズ。あなたの“野蛮な遊び”に、ステファーヌを巻き込まないでちょうだい」

 その言葉に、ステファーヌの胸が締めつけられる。

「あなたは田舎の生活に慣れているようですが、この子は違います。田舎の遊びなど、知る必要はありませんもの」

 夫人は淡々と続けた。

「いずれ婚約者になるのなら、今のうちにそういった行動は慎みなさい。あなたのためを思って、言っているのです」
「お母様っ……!」

 ステファーヌの声は、掠れていた。

「申し訳ありません。ご助言、感謝いたします」

 エリーズは表情一つ変えず、深く頭を下げた。

 ――エリーズは、悪くない。

 彼女はただ、母を助けたかっただけだ。
 神や伝説に縋ってでも、救いたかっただけなのだ。

 どれほど苦しくても、エリーズは泣かなかった。
 ステファーヌの前で、弱音を吐いたこともない。

 それが、余計に胸を締めつけた。

 情けなかった。
 同い年の少女に庇われ、理不尽な言葉を浴びせられても、何一つ出来ない自分が。

 思えば、いつもそうだった。

 エリーズが王都にいた頃。
 気弱な性格のせいで虐められるたび、エリーズは迷うことなくいじめっ子たちを追い払ってくれた。
 習い事では思うように成果が出ず、使用人にまで陰で馬鹿にされていると知った時も、彼女だけは変わらず自分を信じてくれた。

 ――エリーズだけは、いつも味方だった。

 それなのに。

 母親に真実を打ち明けることすら出来なかった。
 喉が詰まり、声が出ず、ただ俯くことしか出来なかった。
 
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

悪役令嬢の末路

ラプラス
恋愛
政略結婚ではあったけれど、夫を愛していたのは本当。でも、もう疲れてしまった。 だから…いいわよね、あなた?

悪意には悪意で

12時のトキノカネ
恋愛
私の不幸はあの女の所為?今まで穏やかだった日常。それを壊す自称ヒロイン女。そしてそのいかれた女に悪役令嬢に指定されたミリ。ありがちな悪役令嬢ものです。 私を悪意を持って貶めようとするならば、私もあなたに同じ悪意を向けましょう。 ぶち切れ気味の公爵令嬢の一幕です。

1度だけだ。これ以上、閨をともにするつもりは無いと旦那さまに告げられました。

尾道小町
恋愛
登場人物紹介 ヴィヴィアン・ジュード伯爵令嬢  17歳、長女で爵位はシェーンより低が、ジュード伯爵家には莫大な資産があった。 ドン・ジュード伯爵令息15歳姉であるヴィヴィアンが大好きだ。 シェーン・ロングベルク公爵 25歳 結婚しろと回りは五月蝿いので大富豪、伯爵令嬢と結婚した。 ユリシリーズ・グレープ補佐官23歳 優秀でシェーンに、こき使われている。 コクロイ・ルビーブル伯爵令息18歳 ヴィヴィアンの幼馴染み。 アンジェイ・ドルバン伯爵令息18歳 シェーンの元婚約者。 ルーク・ダルシュール侯爵25歳 嫁の父親が行方不明でシェーン公爵に相談する。 ミランダ・ダルシュール侯爵夫人20歳、父親が行方不明。 ダン・ドリンク侯爵37歳行方不明。 この国のデビット王太子殿下23歳、婚約者ジュリアン・スチール公爵令嬢が居るのにヴィヴィアンの従妹に興味があるようだ。 ジュリエット・スチール公爵令嬢18歳 ロミオ王太子殿下の婚約者。 ヴィヴィアンの従兄弟ヨシアン・スプラット伯爵令息19歳 私と旦那様は婚約前1度お会いしただけで、結婚式は私と旦那様と出席者は無しで式は10分程で終わり今は2人の寝室?のベッドに座っております、旦那様が仰いました。 一度だけだ其れ以上閨を共にするつもりは無いと旦那様に宣言されました。 正直まだ愛情とか、ありませんが旦那様である、この方の言い分は最低ですよね?

「お幸せに」と微笑んだ悪役令嬢は、二度と戻らなかった。

パリパリかぷちーの
恋愛
王太子から婚約破棄を告げられたその日、 クラリーチェ=ヴァレンティナは微笑んでこう言った。 「どうか、お幸せに」──そして姿を消した。 完璧すぎる令嬢。誰にも本心を明かさなかった彼女が、 “何も持たずに”去ったその先にあったものとは。 これは誰かのために生きることをやめ、 「私自身の幸せ」を選びなおした、 ひとりの元・悪役令嬢の再生と静かな愛の物語。

貴方といると、お茶が不味い

わらびもち
恋愛
貴方の婚約者は私。 なのに貴方は私との逢瀬に別の女性を同伴する。 王太子殿下の婚約者である令嬢を―――。

悪役令嬢の大きな勘違い

神々廻
恋愛
この手紙を読んでらっしゃるという事は私は処刑されたと言う事でしょう。 もし......処刑されて居ないのなら、今はまだ見ないで下さいまし 封筒にそう書かれていた手紙は先日、処刑された悪女が書いたものだった。 お気に入り、感想お願いします!

あなたのことなんて、もうどうでもいいです

もるだ
恋愛
舞踏会でレオニーに突きつけられたのは婚約破棄だった。婚約者の相手にぶつかられて派手に転んだせいで、大騒ぎになったのに……。日々の業務を押しつけられ怒鳴りつけられいいように扱われていたレオニーは限界を迎える。そして、気がつくと魔法が使えるようになっていた。 元婚約者にこき使われていたレオニーは復讐を始める。

【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。

五月ふう
恋愛
 リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。 「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」  今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。 「そう……。」  マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。    明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。  リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。 「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」  ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。 「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」 「ちっ……」  ポールは顔をしかめて舌打ちをした。   「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」  ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。 だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。 二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。 「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」

処理中です...