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誓い
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一年後。
ラブラシュリ夫人は、この世を去った。
夫である公爵は、あらゆる手を尽くした。
王都のみならず他国からも名医を呼び寄せ、考え得る限りの治療を試みたが、誰一人として夫人を救うことは出来なかった。
ラブラシュリ夫人の葬儀は、王都の教会で執り行われた。
彼女を慕う多くの人々が参列し、王家からも弔問があった。
参列者の数が、彼女がどれほど愛されていたかを物語っている。
あまりにも早すぎる死を、多くの人が悼んだ。
ステファーヌは教会に到着してすぐ、泣き崩れる母を支えていた。
嗚咽とすすり泣きが満ちる中、ひそひそと囁く声が耳に届く。
「ご覧になりまして? 母親を亡くしたというのに、涙ひとつ流していませんの」
「……薄情な娘もいたものですわね」
視線の先にいたのは、エリーズだった。
公爵も、幼い弟のダビィドも、目を真っ赤に腫らし、涙を止められずにいる。
それなのに――エリーズだけが、毅然としていた。
涙は流さない。
かといって、茫然としている様子でもない。
参列者一人ひとりに丁寧に頭を下げ、感謝の言葉を述べ、落ち着いた態度で応対している。
傍から見れば、気丈な娘だと思われるだろう。
あるいは、先ほどの陰口のように、母の死を悲しむことすら出来ない冷たい娘だと。
しかし――。
ステファーヌには、その姿が異様に映った。
まるで、エリーズだけが“現実”を受け止めていない。
そんな感覚が、胸の奥に引っかかる。
「ステファー、来てくれたの?」
花入れの儀の場で、二人はようやく言葉を交わした。
「お母様も、きっと喜ぶわ。……ほら、見て」
エリーズは、穏やかな笑みを浮かべて棺の中を指し示す。
「まるで、眠っているみたいでしょう?」
その声音は、あまりにも柔らかく、優しかった。
「ふふ……お母様はお茶目な人だったから。きっと、みんなの驚く顔を見て、喜んでいるわ」
その言葉に、ステファーヌは息を呑んだ。
エリーズは、頭では母の死を理解している。
だが、心がそれを拒んでいる。
――今にも、目を覚まして起き上がってくる。
そんな幻想を、必死に信じているかのように。
その微笑みは、あまりにも不安定で、壊れ物のように、危うく見えた。
「……エリー。一緒に来て」
控え室へ戻ろうとするエリーズを、ステファーヌが呼び止めた。
彼は迷いなく彼女の手を取り、大聖堂の奥へと歩き出す。
「ステファー? どこに行くの?」
問いかけても、返事はない。
庭園へ向かいかけたが、泣き伏す参列者の姿が目に入り、ステファーヌはすぐに進路を変えた。
奥へ、奥へ。
進むにつれて人の気配は薄れ、やがて静寂だけが残る。
その背中は、エリーズの知る“臆病で気弱な彼”とは違っていた。
戸惑いが、胸に広がる。
人目のない柱の陰で、ステファーヌはようやく足を止めた。
そして、勢いよく振り返る。
「――僕がいるから!」
一瞬、エリーズは言葉の意味を理解できなかった。
ステファーヌは彼女の手を握ったまま、泣きそうな顔で、けれど真っ直ぐに見つめてくる。
その瞳には、今まで見たことのない固い決意が宿っていた。
「僕が……ずっと……ずっとずっと……!」
声が震える。
「……ずっと、隣にいるから。僕が、エリーを支えるから!」
そこに、いつものおどおどした彼の姿はなかった。
エリーズは言葉を失った。
驚きと同時に、胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
――その瞬間。
母の声が、鮮やかによみがえった。
『旦那様と、ダビィドをよろしくね』
マリーは、エリーズの髪を撫でながら、優しく微笑んでいた。
『男性は力強いけれど、心は案外脆いものよ。その点、女性の方がしっかりしていることもあるわね』
その手が止まり、双眸に涙を浮かべる。
『エリー。これからも、二人を支えてあげてね』
次の瞬間、マリーは小さな体を力いっぱい抱きしめた。
『……ごめんね。ごめんね、エリー』
震える声。
『あなたは、わたくしの血を濃く受け継いでいるわ。気が強いところも……一人で、全部抱え込んでしまうところも……』
マリーは、誰よりもエリーズを理解していた。
そして、自分がいなくなったあと、彼女が苦労することも。
『お願い……一人で抱え込まないで』
涙が、頬を伝う。
『わたくしには、旦那様がいたわ。今はまだ分からないでしょうけれど……』
そっと、額を寄せて。
『エリー。あなたにも、内側から支えてくれる人が、きっと現れる』
母の言葉を、当時は完全には理解できなかった。
けれど――。
今、目の前に立つステファーヌの決意が、その言葉と確かに重なった。
エリーズの胸の奥で、何かが、静かに、ひびを入れた。
気がつけば、頬に温かいものが流れていた。
一粒、二粒――やがて止めどなく、両の頬を濡らし、床へと零れ落ちる。
「……ふっ……う、ぁ……」
エリーズの喉から、押し殺した呻き声がこぼれた。
それは次第に抑えきれなくなり、震えを伴って大きくなる。
「おかあ……さま……」
かすれた声。
「あぁ……いや……嫌ぁ……っ。お母さまぁぁぁ……!」
母・マリーが亡くなって以来、初めて。
エリーズの表情が、はっきりと歪んだ。
大きな瞳から、溢れるほどの涙。
必死に積み上げてきた心の堤防が、音を立てて崩れ落ち、本心が露わになる。
ステファーヌは何も言わず、そっとエリーズを抱き寄せた。
エリーズは縋るように彼の服を握り、顔を埋める。
――愛する母を失って、
寂しくないはずがない。
悲しくないはずがない。
ただ、その感情の行き場がなかっただけなのだ。
泣いたところで、死んだ人は戻らない。
父を、まだ幼い弟を、支えなければならない。
その思いが、泣きたい心を押し殺し、彼女を無理やり“気丈な公爵令嬢”でいさせていた。
けれど今。
ステファーヌという支えを得て、感情の行き先を見つけたことで――
抑え込んできた想いがすべて溢れ出した。
エリーズは、子供らしく顔をくしゃくしゃにして、声を上げて泣きじゃくった。
泣いて、泣いて。
胸が痛くなるほど、泣いた。
その小さな背を、ステファーヌはただ、強く抱きしめ続けていた。
ラブラシュリ夫人は、この世を去った。
夫である公爵は、あらゆる手を尽くした。
王都のみならず他国からも名医を呼び寄せ、考え得る限りの治療を試みたが、誰一人として夫人を救うことは出来なかった。
ラブラシュリ夫人の葬儀は、王都の教会で執り行われた。
彼女を慕う多くの人々が参列し、王家からも弔問があった。
参列者の数が、彼女がどれほど愛されていたかを物語っている。
あまりにも早すぎる死を、多くの人が悼んだ。
ステファーヌは教会に到着してすぐ、泣き崩れる母を支えていた。
嗚咽とすすり泣きが満ちる中、ひそひそと囁く声が耳に届く。
「ご覧になりまして? 母親を亡くしたというのに、涙ひとつ流していませんの」
「……薄情な娘もいたものですわね」
視線の先にいたのは、エリーズだった。
公爵も、幼い弟のダビィドも、目を真っ赤に腫らし、涙を止められずにいる。
それなのに――エリーズだけが、毅然としていた。
涙は流さない。
かといって、茫然としている様子でもない。
参列者一人ひとりに丁寧に頭を下げ、感謝の言葉を述べ、落ち着いた態度で応対している。
傍から見れば、気丈な娘だと思われるだろう。
あるいは、先ほどの陰口のように、母の死を悲しむことすら出来ない冷たい娘だと。
しかし――。
ステファーヌには、その姿が異様に映った。
まるで、エリーズだけが“現実”を受け止めていない。
そんな感覚が、胸の奥に引っかかる。
「ステファー、来てくれたの?」
花入れの儀の場で、二人はようやく言葉を交わした。
「お母様も、きっと喜ぶわ。……ほら、見て」
エリーズは、穏やかな笑みを浮かべて棺の中を指し示す。
「まるで、眠っているみたいでしょう?」
その声音は、あまりにも柔らかく、優しかった。
「ふふ……お母様はお茶目な人だったから。きっと、みんなの驚く顔を見て、喜んでいるわ」
その言葉に、ステファーヌは息を呑んだ。
エリーズは、頭では母の死を理解している。
だが、心がそれを拒んでいる。
――今にも、目を覚まして起き上がってくる。
そんな幻想を、必死に信じているかのように。
その微笑みは、あまりにも不安定で、壊れ物のように、危うく見えた。
「……エリー。一緒に来て」
控え室へ戻ろうとするエリーズを、ステファーヌが呼び止めた。
彼は迷いなく彼女の手を取り、大聖堂の奥へと歩き出す。
「ステファー? どこに行くの?」
問いかけても、返事はない。
庭園へ向かいかけたが、泣き伏す参列者の姿が目に入り、ステファーヌはすぐに進路を変えた。
奥へ、奥へ。
進むにつれて人の気配は薄れ、やがて静寂だけが残る。
その背中は、エリーズの知る“臆病で気弱な彼”とは違っていた。
戸惑いが、胸に広がる。
人目のない柱の陰で、ステファーヌはようやく足を止めた。
そして、勢いよく振り返る。
「――僕がいるから!」
一瞬、エリーズは言葉の意味を理解できなかった。
ステファーヌは彼女の手を握ったまま、泣きそうな顔で、けれど真っ直ぐに見つめてくる。
その瞳には、今まで見たことのない固い決意が宿っていた。
「僕が……ずっと……ずっとずっと……!」
声が震える。
「……ずっと、隣にいるから。僕が、エリーを支えるから!」
そこに、いつものおどおどした彼の姿はなかった。
エリーズは言葉を失った。
驚きと同時に、胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
――その瞬間。
母の声が、鮮やかによみがえった。
『旦那様と、ダビィドをよろしくね』
マリーは、エリーズの髪を撫でながら、優しく微笑んでいた。
『男性は力強いけれど、心は案外脆いものよ。その点、女性の方がしっかりしていることもあるわね』
その手が止まり、双眸に涙を浮かべる。
『エリー。これからも、二人を支えてあげてね』
次の瞬間、マリーは小さな体を力いっぱい抱きしめた。
『……ごめんね。ごめんね、エリー』
震える声。
『あなたは、わたくしの血を濃く受け継いでいるわ。気が強いところも……一人で、全部抱え込んでしまうところも……』
マリーは、誰よりもエリーズを理解していた。
そして、自分がいなくなったあと、彼女が苦労することも。
『お願い……一人で抱え込まないで』
涙が、頬を伝う。
『わたくしには、旦那様がいたわ。今はまだ分からないでしょうけれど……』
そっと、額を寄せて。
『エリー。あなたにも、内側から支えてくれる人が、きっと現れる』
母の言葉を、当時は完全には理解できなかった。
けれど――。
今、目の前に立つステファーヌの決意が、その言葉と確かに重なった。
エリーズの胸の奥で、何かが、静かに、ひびを入れた。
気がつけば、頬に温かいものが流れていた。
一粒、二粒――やがて止めどなく、両の頬を濡らし、床へと零れ落ちる。
「……ふっ……う、ぁ……」
エリーズの喉から、押し殺した呻き声がこぼれた。
それは次第に抑えきれなくなり、震えを伴って大きくなる。
「おかあ……さま……」
かすれた声。
「あぁ……いや……嫌ぁ……っ。お母さまぁぁぁ……!」
母・マリーが亡くなって以来、初めて。
エリーズの表情が、はっきりと歪んだ。
大きな瞳から、溢れるほどの涙。
必死に積み上げてきた心の堤防が、音を立てて崩れ落ち、本心が露わになる。
ステファーヌは何も言わず、そっとエリーズを抱き寄せた。
エリーズは縋るように彼の服を握り、顔を埋める。
――愛する母を失って、
寂しくないはずがない。
悲しくないはずがない。
ただ、その感情の行き場がなかっただけなのだ。
泣いたところで、死んだ人は戻らない。
父を、まだ幼い弟を、支えなければならない。
その思いが、泣きたい心を押し殺し、彼女を無理やり“気丈な公爵令嬢”でいさせていた。
けれど今。
ステファーヌという支えを得て、感情の行き先を見つけたことで――
抑え込んできた想いがすべて溢れ出した。
エリーズは、子供らしく顔をくしゃくしゃにして、声を上げて泣きじゃくった。
泣いて、泣いて。
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その小さな背を、ステファーヌはただ、強く抱きしめ続けていた。
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