ヘタレ婚約者と悪役令嬢

茗裡

文字の大きさ
2 / 4

誓い

しおりを挟む
 一年後。
 ラブラシュリ夫人は、この世を去った。

 夫である公爵は、あらゆる手を尽くした。
 王都のみならず他国からも名医を呼び寄せ、考え得る限りの治療を試みたが、誰一人として夫人を救うことは出来なかった。

 ラブラシュリ夫人の葬儀は、王都の教会で執り行われた。
 彼女を慕う多くの人々が参列し、王家からも弔問があった。

 参列者の数が、彼女がどれほど愛されていたかを物語っている。
 あまりにも早すぎる死を、多くの人が悼んだ。

 ステファーヌは教会に到着してすぐ、泣き崩れる母を支えていた。
 嗚咽とすすり泣きが満ちる中、ひそひそと囁く声が耳に届く。

「ご覧になりまして? 母親を亡くしたというのに、涙ひとつ流していませんの」
「……薄情な娘もいたものですわね」

 視線の先にいたのは、エリーズだった。

 公爵も、幼い弟のダビィドも、目を真っ赤に腫らし、涙を止められずにいる。
 それなのに――エリーズだけが、毅然としていた。

 涙は流さない。
 かといって、茫然としている様子でもない。

 参列者一人ひとりに丁寧に頭を下げ、感謝の言葉を述べ、落ち着いた態度で応対している。

 傍から見れば、気丈な娘だと思われるだろう。
 あるいは、先ほどの陰口のように、母の死を悲しむことすら出来ない冷たい娘だと。

 しかし――。

 ステファーヌには、その姿が異様に映った。

 まるで、エリーズだけが“現実”を受け止めていない。
 そんな感覚が、胸の奥に引っかかる。

「ステファー、来てくれたの?」

 花入れの儀の場で、二人はようやく言葉を交わした。

「お母様も、きっと喜ぶわ。……ほら、見て」

 エリーズは、穏やかな笑みを浮かべて棺の中を指し示す。

「まるで、眠っているみたいでしょう?」

 その声音は、あまりにも柔らかく、優しかった。

「ふふ……お母様はお茶目な人だったから。きっと、みんなの驚く顔を見て、喜んでいるわ」

 その言葉に、ステファーヌは息を呑んだ。

 エリーズは、頭では母の死を理解している。
 だが、心がそれを拒んでいる。

 ――今にも、目を覚まして起き上がってくる。
 そんな幻想を、必死に信じているかのように。

 その微笑みは、あまりにも不安定で、壊れ物のように、危うく見えた。

「……エリー。一緒に来て」

 控え室へ戻ろうとするエリーズを、ステファーヌが呼び止めた。
 彼は迷いなく彼女の手を取り、大聖堂の奥へと歩き出す。

「ステファー? どこに行くの?」

 問いかけても、返事はない。

 庭園へ向かいかけたが、泣き伏す参列者の姿が目に入り、ステファーヌはすぐに進路を変えた。
 奥へ、奥へ。
 進むにつれて人の気配は薄れ、やがて静寂だけが残る。

 その背中は、エリーズの知る“臆病で気弱な彼”とは違っていた。
 戸惑いが、胸に広がる。

 人目のない柱の陰で、ステファーヌはようやく足を止めた。
 そして、勢いよく振り返る。

「――僕がいるから!」

 一瞬、エリーズは言葉の意味を理解できなかった。

 ステファーヌは彼女の手を握ったまま、泣きそうな顔で、けれど真っ直ぐに見つめてくる。
 その瞳には、今まで見たことのない固い決意が宿っていた。

「僕が……ずっと……ずっとずっと……!」

 声が震える。

「……ずっと、隣にいるから。僕が、エリーを支えるから!」

 そこに、いつものおどおどした彼の姿はなかった。

 エリーズは言葉を失った。
 驚きと同時に、胸の奥が、きゅっと締めつけられる。

 ――その瞬間。

 母の声が、鮮やかによみがえった。

『旦那様と、ダビィドをよろしくね』

 マリーは、エリーズの髪を撫でながら、優しく微笑んでいた。

『男性は力強いけれど、心は案外脆いものよ。その点、女性の方がしっかりしていることもあるわね』

 その手が止まり、双眸に涙を浮かべる。

『エリー。これからも、二人を支えてあげてね』

 次の瞬間、マリーは小さな体を力いっぱい抱きしめた。

『……ごめんね。ごめんね、エリー』

 震える声。

『あなたは、わたくしの血を濃く受け継いでいるわ。気が強いところも……一人で、全部抱え込んでしまうところも……』

 マリーは、誰よりもエリーズを理解していた。
 そして、自分がいなくなったあと、彼女が苦労することも。

『お願い……一人で抱え込まないで』

 涙が、頬を伝う。

『わたくしには、旦那様がいたわ。今はまだ分からないでしょうけれど……』

 そっと、額を寄せて。

『エリー。あなたにも、内側から支えてくれる人が、きっと現れる』

 母の言葉を、当時は完全には理解できなかった。

 けれど――。

 今、目の前に立つステファーヌの決意が、その言葉と確かに重なった。

 エリーズの胸の奥で、何かが、静かに、ひびを入れた。

 気がつけば、頬に温かいものが流れていた。
 一粒、二粒――やがて止めどなく、両の頬を濡らし、床へと零れ落ちる。

「……ふっ……う、ぁ……」

 エリーズの喉から、押し殺した呻き声がこぼれた。
 それは次第に抑えきれなくなり、震えを伴って大きくなる。

「おかあ……さま……」

 かすれた声。

「あぁ……いや……嫌ぁ……っ。お母さまぁぁぁ……!」

 母・マリーが亡くなって以来、初めて。
 エリーズの表情が、はっきりと歪んだ。

 大きな瞳から、溢れるほどの涙。
 必死に積み上げてきた心の堤防が、音を立てて崩れ落ち、本心が露わになる。

 ステファーヌは何も言わず、そっとエリーズを抱き寄せた。

 エリーズは縋るように彼の服を握り、顔を埋める。

 ――愛する母を失って、
 寂しくないはずがない。
 悲しくないはずがない。

 ただ、その感情の行き場がなかっただけなのだ。

 泣いたところで、死んだ人は戻らない。
 父を、まだ幼い弟を、支えなければならない。

 その思いが、泣きたい心を押し殺し、彼女を無理やり“気丈な公爵令嬢”でいさせていた。

 けれど今。

 ステファーヌという支えを得て、感情の行き先を見つけたことで――
 抑え込んできた想いがすべて溢れ出した。

 エリーズは、子供らしく顔をくしゃくしゃにして、声を上げて泣きじゃくった。

 泣いて、泣いて。
 胸が痛くなるほど、泣いた。

 その小さな背を、ステファーヌはただ、強く抱きしめ続けていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

悪役令嬢の末路

ラプラス
恋愛
政略結婚ではあったけれど、夫を愛していたのは本当。でも、もう疲れてしまった。 だから…いいわよね、あなた?

悪意には悪意で

12時のトキノカネ
恋愛
私の不幸はあの女の所為?今まで穏やかだった日常。それを壊す自称ヒロイン女。そしてそのいかれた女に悪役令嬢に指定されたミリ。ありがちな悪役令嬢ものです。 私を悪意を持って貶めようとするならば、私もあなたに同じ悪意を向けましょう。 ぶち切れ気味の公爵令嬢の一幕です。

1度だけだ。これ以上、閨をともにするつもりは無いと旦那さまに告げられました。

尾道小町
恋愛
登場人物紹介 ヴィヴィアン・ジュード伯爵令嬢  17歳、長女で爵位はシェーンより低が、ジュード伯爵家には莫大な資産があった。 ドン・ジュード伯爵令息15歳姉であるヴィヴィアンが大好きだ。 シェーン・ロングベルク公爵 25歳 結婚しろと回りは五月蝿いので大富豪、伯爵令嬢と結婚した。 ユリシリーズ・グレープ補佐官23歳 優秀でシェーンに、こき使われている。 コクロイ・ルビーブル伯爵令息18歳 ヴィヴィアンの幼馴染み。 アンジェイ・ドルバン伯爵令息18歳 シェーンの元婚約者。 ルーク・ダルシュール侯爵25歳 嫁の父親が行方不明でシェーン公爵に相談する。 ミランダ・ダルシュール侯爵夫人20歳、父親が行方不明。 ダン・ドリンク侯爵37歳行方不明。 この国のデビット王太子殿下23歳、婚約者ジュリアン・スチール公爵令嬢が居るのにヴィヴィアンの従妹に興味があるようだ。 ジュリエット・スチール公爵令嬢18歳 ロミオ王太子殿下の婚約者。 ヴィヴィアンの従兄弟ヨシアン・スプラット伯爵令息19歳 私と旦那様は婚約前1度お会いしただけで、結婚式は私と旦那様と出席者は無しで式は10分程で終わり今は2人の寝室?のベッドに座っております、旦那様が仰いました。 一度だけだ其れ以上閨を共にするつもりは無いと旦那様に宣言されました。 正直まだ愛情とか、ありませんが旦那様である、この方の言い分は最低ですよね?

「お幸せに」と微笑んだ悪役令嬢は、二度と戻らなかった。

パリパリかぷちーの
恋愛
王太子から婚約破棄を告げられたその日、 クラリーチェ=ヴァレンティナは微笑んでこう言った。 「どうか、お幸せに」──そして姿を消した。 完璧すぎる令嬢。誰にも本心を明かさなかった彼女が、 “何も持たずに”去ったその先にあったものとは。 これは誰かのために生きることをやめ、 「私自身の幸せ」を選びなおした、 ひとりの元・悪役令嬢の再生と静かな愛の物語。

貴方といると、お茶が不味い

わらびもち
恋愛
貴方の婚約者は私。 なのに貴方は私との逢瀬に別の女性を同伴する。 王太子殿下の婚約者である令嬢を―――。

悪役令嬢の大きな勘違い

神々廻
恋愛
この手紙を読んでらっしゃるという事は私は処刑されたと言う事でしょう。 もし......処刑されて居ないのなら、今はまだ見ないで下さいまし 封筒にそう書かれていた手紙は先日、処刑された悪女が書いたものだった。 お気に入り、感想お願いします!

あなたのことなんて、もうどうでもいいです

もるだ
恋愛
舞踏会でレオニーに突きつけられたのは婚約破棄だった。婚約者の相手にぶつかられて派手に転んだせいで、大騒ぎになったのに……。日々の業務を押しつけられ怒鳴りつけられいいように扱われていたレオニーは限界を迎える。そして、気がつくと魔法が使えるようになっていた。 元婚約者にこき使われていたレオニーは復讐を始める。

【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。

五月ふう
恋愛
 リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。 「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」  今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。 「そう……。」  マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。    明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。  リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。 「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」  ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。 「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」 「ちっ……」  ポールは顔をしかめて舌打ちをした。   「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」  ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。 だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。 二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。 「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」

処理中です...